1枚の後悔
「……どうしたの?」
キッチンに立つ夫の後ろ姿に若干戸惑いながら尋ねた秋生は、笑顔で振り向かれた。
「いいから、とりあえず座って」
背中を押されるままダイニングテーブルに座ると、またシンク前に戻ってしまった壮輔をそわそわと落ち着かない気持ちで待つ。
しばらくすると壮輔は白い皿を両手に持ち、秋生の前に佇んだ。
「……あ! シチュー」
周りに漂った香りに反応した秋生はとっさに壮輔を見つめる。
「おい秋生、見せる前に気付かないでくれないか?」
壮輔から大きな溜息と共に文句をつけられた秋生は苦笑する。
「だって、壮輔の唯一のレパートリーなんだもん。今まで何度これを食べたことか……」
ようやく目の前に置かれた皿を眺めた秋生から自然と笑みが零れる。
向かいに腰を下ろした壮輔もそんな秋生を見つめ、笑って頷いた。
「冷めないうちに食べて」
「うん、いただきます」
いつもと変わらない、今まで何度も食べた壮輔の得意料理をスプーンで食べ始める。
「どう? 水本さん」
「うん、すごく美味しいです」
壮輔から懐かしい最初の呼び名と共に味の感想を尋ねられ、秋生も笑って応えた。
冬の日差しが徐々に温かみを増し、ほのかに春の気配を感じつつある今日の午後、互いに休みを合わせた2人は共に食卓についた。
「ふふ」
「……何?」
秋生が思わず笑みを零すと、壮輔はキョトンと反応する。
「ねえ、覚えてる? 壮輔、最初は人参の皮を剥くのも知らなかったんだよ」
2人でキッチンに立ち笑った過去の日を思い出した秋生は、目の前の壮輔を懐かしく見つめる。
ちゃんと思い出してくれたらしい彼が照れ笑いを浮かべた。
あの時と変わらない、彼の笑顔だ。
「秋生に教えてもらった最初で最後の料理だ。あの頃に比べると、かなり上達しただろ?」
そんなことない。
壮輔が作るシチューはいつだって美味しかった。
秋生にとっても特別だった。
彼の優しさを感じるシチューを、秋生も愛していた。
「これで最後だ」
とても穏やかで、わずかに切なさを交えた壮輔の声は、秋生の耳に優しく届いた。
「うん」
壮輔が言うなら、本当に最後だ。
今まで何度も食べさせられたこの優しい味を、絶対に忘れない。
ちゃんと心に染み込んでいる。
「秋生、何度でも言うよ」
壮輔は目を細め、目の前の秋生を愛おしそうに見つめた。
「君に会えてよかった」
それは、かつて壮輔が秋生の心を救った言葉だった。
彼は今あの時のように、秋生の心を救うためにその言葉を放った。
秋生の手を離し、秋生の心に優しさだけを残し、静かに背を向けた。
「ありがとう」
秋生が壮輔に唯一できるのは決して謝ることじゃない。
彼はいつだって、そんなことは望まなかった。
いつでも秋生を明るく励まし、その笑顔で笑わせてくれた。
そして最後まで彼の望むままでいようと、あの時決めたのは秋生だった。
せめてこの時だけは彼の願いを叶えるために放った、秋生の本心だ。
秋生と壮輔を繋ぐ罪と責任は、壮輔の最後の一言で昇華した。
そして秋生も静かに受け入れた。
この日2人は新たに始まり、そして静かに終わった。
自分の痕跡を失くしたもの寂しい部屋に佇み、静かに見つめた。
少し前まであった部屋の温もりも静寂さと共に失われた。
すでに居場所ではなくなったこの家を過去に、そして今も愛した秋生は、胸に寂しさだけを残し、それでも前だけを見つめた。
たった1つだけテーブルに残された自分の痕跡に近づき、手で触れる。
少し前までクローゼットの隅にひっそりと置かれてあった小さな箱は今再び秋生の手に戻り、そして静かに開かれた。
行き場を失くした無数の小物にたった1枚混じり続けた小さな写真は、今も変わらずそこにある。
拾い上げた写真の中に、まだあどけなさが残る少女の秋生がいた。
そして秋生の隣にはまだ小さな弟と、かつて姉弟と共にいた少年の姿があった。
3才になった弟は、彼の希望であった少年に見守られ、幸せそうに笑っていた。
あの日の弟を思い、残してしまった1枚の後悔は、捨て去ることが出来なかった秋生の心でもあった。
この1枚だけは、この少年だけは、どうしても忘れたくなかった。
突然姉弟の前に現れた少年が、3人で笑ったあの日を初めて形にしてくれた。
この1枚だけは、傍に仕舞っておいても許されたかった。
秋生は再び箱の中に戻し、蓋を閉じる。
今度いつ会えるかわからない小さな箱を胸に抱きしめ、3年間壮輔と共にいた家を去った。




