孤独の涙
静寂した部屋のなか、クローゼットの扉を音なく開き、奥の隅にひっそりと落ちている小さい箱に触れる。
蓋を開け、そこに入ってる無数の中から、1つだけ形の違うそれを指で拾い上げた。
小さく薄い1枚は今も色褪せることなく、秋生の目に鮮明に映り始める。
力なく床に座り込み虚ろな目でそれを見つめると、この時だけは現実ではなく、すでに遠くなった日を彷徨った。
「……それを、捨てられなかったんだろう?」
部屋に響いた低い声でようやく現実を取り戻した秋生は、背後に振り返った。
「壮輔……」
今ここにいるはずがない夫の姿に驚き、夫の名を呟く。
ただじっと秋生の姿を眺めている壮輔にいつもの笑顔はない。
壮輔の顔に感情の色はなく、壮輔の目は震えさえ感じるほど寒々しかった。
秋生が今まで一度も見たことのない壮輔はドアの前に佇みながら、床に座る秋生をただ静かに見下ろしている。
「壮輔」
今までにない夫に狼狽した秋生は再び夫の名を呟き、おそるおそる床から立ち上がろうとした。
力を入れた瞬間、背後に向かってぐらりと傾いた秋生の身体は、再び床に落ちた。
じわりと背中に広がった酷い痛みと共に、気が付けば間近に壮輔の顔がある。
ようやく壮輔に押し倒されたことに気付いた秋生はピクリとも動けず、ひやりと冷たい床に縛り付けられた。
「……俺が何も知らないと思ってたのか」
重く低く、奥底から震い上がらせた壮輔の声は、確かにさっきまでなかった怒りの感情が籠っている。
秋生は初めて夫が見せた底知れない怒りをただ見上げることで受け取った。
「君の中にいるあの男を、一瞬だって手離そうとしないあの男を、俺が気付かないと思ったのか!」
怒りに震える壮輔の声に痛みが混じり出し、突き刺すように秋生を傷つける。
「いつだって、君の心はあの男のものだった。そのわずかな隙間さえ、俺を入れようとはしなかった。どうしてあの男なんだ! どうして!」
とうとう怒りを失くし痛みだけを残した壮輔の叫びは悲しく響き、秋生を支配した。
項垂れるように力を失くした壮輔は、秋生の腕に痕が付くほどきつく握りしめた手を緩めた。
その瞬間、秋生の両手が壮輔の胸を力任せに押し上げ、這い出るように壮輔から逃げ出した。
耳に響く微かな足音は自分のものだった。
けれど秋生にはわからない。
ただ床に触れながら、目の前の窓を開けた。
「……秋生!」
壮輔の叫び声が寒々しい冬の空に響き、儚く消えた。
今再びすべてを失くした秋生はベランダの手摺に身を預け、ここではない遥か遠くを見つめた。
虚ろな目は焦点さえ定まらず、自分さえ失った。
その姿は儚く、危うく、熱もない。
浮遊するような足元は、秋生が今を生きていないことを表わしていた。
壮輔に初めて見せた秋生の抵抗は、壮輔の姿を失くすことだった。
今の秋生には現実の壮輔も、そして自分もいらなかった。
薄暗い闇に囚われた視界が1つの影をようやく映し出した。
朦朧とした思考がそれでも動き始めた時、現実に戻った秋生がいた。
痛みを感じる身体がベットに横たわってることに気付き、そしてわずかな明かりしかない部屋はすでに夜の訪れを教えてくれた。
傍に寄り添う男の姿が確かに自分の夫と認識した時、秋生の意識はすでに今を取り戻していた。
秋生は自分を見下ろす夫の頬へ静かに手を伸ばした。
「……泣かないで」
夫に触れた秋生の指先が涙で濡れ、止めどなく秋生の手首に流れ伝う。
秋生は夫の涙をすべて吸い取るように、夫の頬に手を這わせた。
そして夫を見つめる瞳にも同じものが溢れ返った時、秋生の唇は震えるように呟いた。
「ごめん」
あの日、この手をとってしまってごめんなさい。
振り切らなくて、ごめんなさい。
見上げる先の夫の瞳に、今も色濃く残る孤独に気付いてあげられなかった。
昔確かに見つけた夫の孤独が、秋生の目にはいつの間にか見えなくなっていた。
夫の傍にいる秋生が孤独から救い上げなければいけなかったのに、秋生自身がより深く夫を孤独の底に落としてしまった。
愛せなくて、ごめんなさい。
秋生には最初から無理だった。
愛する者に愛されない悲しみを、痛みを、誰よりも知っていたはずなのに、夫が切望した愛をあげられなかった。
昔夫に初めて手を取られ、傍にいてほしいと願われた時、秋生は夫の手を振り切らなければいけなかった。
掠れた嗚咽と共に秋生の名を呟いた夫の頬が、細かく震えていた。
夫の悲痛の叫びを聞かなければ何も気付かなかった秋生は、この優しい人を泣かせてしまった。
愛を返すことをせず、ただ夫の優しさを疑い、心の中で夫を責めた。
背を向けた夫を、帰らない夫を、ただその事実だけを受け入れ嘆いた。
秋生に背を向けなければ、避けなければいられない夫のやるせなさと苦しみに、夫の優しさに守られていた愚かな自分は気付けなかった。
せめて夫の限界が来る前に、秋生が気付かなければいけなかった。
夫の手を離さなければいけなかった。
気付くのが遅すぎた現実が夫を追い詰め、悲痛の叫びを上げさせ、孤独の涙を流させた。
してはいけなかった後悔は涙と共にこの優しい心に染み入り、跡を残した。




