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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
第三章 変  移
49/119

赦 罪




「遅れてごめん」


 たった今店に到着した壮輔は、すでに席で待っていた秋生に一言謝った。

 笑顔で首を振った秋生はすぐ向かいの席に座るよう促す。


「……なあ、この店でよかったの?」 

「うん、何で?」

「もう少し高い店でもよかったのに…………もしかして遠慮した?」

「かしこまったお店は疲れちゃうんだよ。服装だって気を遣うじゃない」


 秋生が困り顔で否定すると、壮輔も納得したのか笑って頷いた。

 

 秋生は数日前壮輔と約束した通り、土曜日の今夜彼と食事をするため店を訪れた。

 今日は互いに仕事があったため直接店で待ち合わせたのだが、約束時間の7時ちょうどに到着した秋生に対し、壮輔は10分程遅れた。


「……もしかして仕事、途中だった?」


 秋生は傍に来た店員に料理を注文してから、壮輔が遅れた事情をとりあえず確認する。


「いや、7時ちょうどに着いたんだけど、店の駐車場が空いてなくて近くのパーキングに止めてきたんだ。秋生は何で来たの?」

「バス」

「また? 本当貧乏性だなぁ。たまにはタクシーでも使えばいいのに」


 壮輔から呆れたように笑われた秋生は不満の表情を浮かべる。


「ここまで近いのに、タクシーなんてもったいないじゃない」

「この店もそうだけど、秋生はもう少し贅沢を覚えたほうがいいよ。着る服がないなら、この際買えばいいじゃないか」


 秋生は壮輔からもう少しの贅沢を勧められただけなのに、まるで説教されてるかのような気持ちになり、思わず自分の姿を振り返ってしまう。


 今日秋生が指定した店は値段も手頃なイタリアンレストランで、秋生にとっては敷居が低いお気に入りの店だ。

 以前デートで壮輔に連れて来てもらい、それ以降たまにある外食の際は利用することが多い。

 いつもこの店を訪れる時は多少気を遣い、普段は履くことの少ないスカートを着用するくらいで、ほぼ普段着といってもよい恰好で来ていた。

 そして今日の秋生も然りだ。


「もしかして、私の恰好気になる?」

「……まあ秋生らしくていいと思うよ。うん、今日も可愛い」


 壮輔から見て自分の恰好はどう感じるのか若干不安になったが、結局は笑って認められる。

 妻を励ますために褒め始める壮輔らしい態度に、秋生も再び表情を緩ませた。

 

 その後暫くとりとめのない話をしていると、注文したコース料理が運ばれ始めた。


「本当は乾杯したいところだけど、今日は車だからなぁ。秋生は? 本当に飲まなくてもいいの?」

「うん、やめとく…………私が運転できたら、壮輔も気兼ねなく飲めたのにね」

「もしかして秋生も車欲しくなった?」

「車?」

「今から免許取って、車通勤もすればいいよ」

「免許取って、車通勤…………全然想像つかない」

「ほら、やっぱり秋生は貧乏性だ」

「……そうだね、私も自覚した」

「だったら秋生は一生運転なんて出来なくていいよ。俺がいるんだから」


 最後に壮輔から優しい目を向けられた秋生はわずかに照れた笑みを返した。


「今日は本当にごめんね。せっかく誘ってくれたのに」

「いや、仕方ないよ。練習試合だったんだろ?」

「……うん」


 昨日外食を拒否した陽大は、今頃1人で留守番してるだろう。

 せっかく誘ってくれた壮輔の為にも秋生1人で約束を守ったが、彼に対しどうしても気まずい思いが生じる。


「陽大君がレギュラー取ったらさ、また改めて3人で来ればいいよ」


 壮輔は気にするなと明るい口調で秋生を慰めた。

 ただ弱々しい笑顔を浮かべた秋生は昨日の陽大を思い返し、目の前の壮輔を複雑な思いで見つめるしかなかった。


 こういう時、改めて感じる。

 壮輔は本当に優しい人だ。

 常に秋生を励まし、いつも明るい気持ちにさせてくれる。

 陽大のこともこうやって気に掛け、大切にしてくれる。

 自分にはもったいないほど出来た人だ。

 そう、秋生にとって壮輔は贅沢すぎる人だ。

 最初こそ助ける立場にいたのは秋生だったが、それは結局形にすぎない些細な程度のものだ。

 秋生の心を救ってくれたのも、そして常に明るく笑ってくれるのも、すべて彼の優しさだ。

 常に優しい彼に甘えきっていた自分は、いつの間にかそれを当たり前に思っていたのかもしれない。

 もし彼の普通に慣れ過ぎて、何かを見落としていたらどうだろう。

 思えば彼が何を考え思っているのか、結婚後の自分は深く考えたことがあっただろうか。


「……壮輔」

「ん?」

「……ううん、今日は誘ってくれてありがとう。嬉しかった」


 振り絞った勇気は結局躊躇いに変わり、あっけなく消えてしまった。

 秋生が壮輔に少しでも尋ねることを怖れてしまうのは、彼の優しさをいつまでも信じたいせいに違いなかった。





 食事を終え店の外へ出ると、12月も半ばに入った凍えるような夜の寒さに一瞬身震いする。

 しっかりとコートを着込み両腕をさすりながら、壮輔と共に歩き始めた。

 駅前の人並みは土曜日の夜ということもあってカップルや家族連れの姿が目立ち、それぞれ浮かれた雰囲気が漂っている。


「すぐそこだから」

「うん」


 車を取りに店から少し離れたコインパーキングまで行くため、交差点で青信号を待った。


「なあ、陽大君のお土産でも買って帰ろうか? 今日は結局2人だけで楽しんじゃったからさ」

「うん、そうしようか」

「えーと、陽大君の好物は…………あ、饅頭?」

「お饅頭は昨日真由が持ってきてくれたから…………コンビニでチョコでも買う?」

「コンビニチョコ? おい秋生、陽大君にまで貧乏性押し付けるな」

「だって陽大、コンビニチョコ好きなんだもん」

「じゃあコンビニチョコと一緒にポテトチップスも買おう」

「うん、ありがとう壮輔」


 壮輔の気遣いに笑顔で感謝し、どこのコンビニに寄ろうか考え始めた。


 再び赤信号の交差点を見つめた秋生は、惹きつけられるような感覚を覚えた。

 その妙とも言える感覚を無意識に訝しがり、目を凝らすように前を探す。

 秋生がすぐに気付いたのは向かいからの視線であり、そして間違いなく秋生に向けられていた。

 

「……秋生、どうした?」


 突然秋生は固まったように動きを失くし、気付いた壮輔が顔を覗き込み心配し始める。


 けれど秋生には何も聞こえなかった。

 隣に立つ壮輔の声も存在も、すべて失くした。



 交差点の向かい側、信号待ちをする人並みの中、黒いコート姿の男が1人佇んでいる。

 

 秋生はただその男を見ていた。

 

 すべての音を失くし、感覚を失くし、色を失くした。


 秋生の目はただその男だけを見つめた。


 すべてを失くした秋生の世界にただ1人存在する男は、静かに秋生を見つめていた。


 その男に表情はなく、ただ男の目だけが秋生のすべてを取り上げた。


 

 柊 永


 秋生の心がぽつりと呟く。

 声を失くした秋生の唇はわずかも反応せず、ただその形を覚えてる。

 音を失くした秋生の耳は、その響きだけを忘れていない。



 秋生の隣で壮輔が必死に何かを問いかけている。

 けれど秋生にはわからない。

 すべてを失くした秋生には、唯一その男だけしか存在しない。


 凍りついた秋生の心がかつての居場所に叫びを上げ、震えていた。



 交差点が青信号に変わり、周りがそれに合わせようやく動き始めた。


 止まったままの秋生の目に、男の姿が動くのが見えた。


 感情のない男の目が静かに秋生だけを見つめ、互いの距離を失くす。

 

 徐々に、徐々に、視界を埋める男の姿が、男の目が、微かにあった秋生の息さえも止めた。


   

 互いの姿だけを映した目がすれ違う瞬間、表情のない男が笑った。


 秋生に笑った。


 ただ静かに秋生の背後へ姿を消した男は、それだけを残した。



 柊永が秋生を許した瞬間だった。

 



 

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