悲痛の声
「何だ、今日もてっきり陽大のことかと思った」
ソファに腰を下ろした真由は向かい合う秋生を意外そうに見つめた。
「今日、陽大は? まだ部活?」
「うん、そう」
「あーあ、せっかく真由ちゃんが遊びに来てやったのに。あいつはついてないね」
真由がいつもの調子でからかうように笑うので、秋生も思わず一緒に笑ってしまった。
真由が秋生の自宅を訪れたのは夕方6時過ぎだ。
今日一日中家にいた秋生と違い仕事帰りの真由は、保育士として地元の幼稚園に勤務している。
秋生は結婚前と変わらず真由と頻繁に顔を合わせ、やはり以前と変わらず会うのは夕方過ぎがほとんどだ。
「最近のあんたの話題は陽大一色だったからね…………あ、もしかして落ち着いたとか?」
「まだ反抗期始まったばっかりだよ。これで済むならこんなに悩まないって」
本当に、小さい頃から陽大の悩みは尽きないと実感する。
弟に対してもこうなのに、自分の子供ができたらどうなるのか想像すらつかない。
「それで? 今日は壮輔さん?」
真由から突然切り出されたので、思わず姿勢を正した。
「あのね……大したことではないんだけど」
「うん」
「……男の人が家に帰りたくない理由って、何だと思う?」
真剣な面持ちで尋ねると、つい今まで笑っていた真由も表情を変えた。
「壮輔さん、帰ってこないの?」
「……毎日じゃないよ。最近忙しくて、帰れない日もあって」
「でも仕事なんでしょ?」
真由の確認に黙った秋生は、そのまま考え込み始めた。
確かに仕事なのだ。
けれど今、それが帰らない理由にはならなくなってしまった。
昨日教えられた松田の話が本当なら今の壮輔の多忙な状況はやむを得ないのではなく、彼自ら多忙な状況に追い込んでいるのだ。
仕事のことは詳しく話してくれないが、壮輔の態度からそんな風に感じたことはなかった。
仕事に関して愚痴を言う人ではなく、遅くなれば申し訳なさそうに詫び気遣ってくれるので、秋生はてっきり会社自体が多忙な時期だと勝手に判断していた。
昨日松田に聞くまで、松田や他の同僚も壮輔程度でなくとも同様の状況だと思い込んでいた。
「……他に何か理由があるってこと?」
「仕事だっていうのはわかってるの…………けど、多分本当の理由は別にあると思う」
普段から秋生が心配してることをわかっているのだから、そんな無茶をする人ではないはずだ。
いくら心配されても壮輔が今の状況を変えないのは、それだけの理由があるということだ。
もし仮に何らかの不満があって帰宅を拒否してるのだとしたら、原因は秋生も無関係ではないはずだった。
「うーん……壮輔さんはそんな人じゃないと思うけどな。家族第一で、陽大にも良くしてくれてるしね」
「家では普段と変わらないの…………でも私に言えないことがあるのかもしれない」
秋生は深刻な表情を浮かべ悩み始め、しばらく一緒に考えていた真由は諦めたように息を吐いた。
「壮輔さんの気持ちは、結局本人にしかわからないからね。そんなに心配なら、もう直接聞いてみるのもいいんじゃない? 壮輔さんならすぐに白状してくるかもよ」
「……うん」
真由の言う通りだ。
結局壮輔の気持ちは彼のもので、たとえ妻であっても自分にはわからない。
過信していたのかもしれない。
壮輔のすべてをわかってるとは言わないが、それでも知り合って6年以上だ。
彼の考えや性格はちゃんと理解してると思っていたし、そうだと信じていた。
「……私が聞いたら、ちゃんと教えてくれるかな」
「秋生、壮輔さんの気持ちを聞くのが怖い?」
「…………」
「でもあんたがここでウダウダ悩んでたって、何も解決しないよ。壮輔さんにどんな悩みがあったとしても、結局壮輔さん自身が解決しなきゃいけないんだから。あんたは壮輔さんの気持ちを確かめるのも怖いなら、とりあえず壮輔さんの悩み解決を手助けできるか、さりげなく確認してみな」
「そうだね…………わかった。ありがとう真由」
秋生は壮輔の気持ちを確かめる勇気はまだなくとも、ようやく今の壮輔に一歩近付く勇気は生まれる。
勇気を出させてくれた真由に最後感謝すると、なぜか真由は秋生を観察するように見つめ始めた。
「何?」
「……秋生ってさ、壮輔さんのことに関してはよく話してくるよね」
「え? どういう意味?」
「あんた、陽大のことはよく愚痴るけど、そういうことは基本黙ってるからさ」
「……そうかな。お茶淹れてくる」
秋生はいつも的確に心情を突いてくる親友の言葉に今ようやく自覚させられ、誤魔化すようにソファから立ち上がった。
「あ、今日真由ちゃん来たんだ」
学校から帰った陽大がリビングに入って早々、真由の来訪に気が付いた。
「よくわかったね。何で?」
「これ、いつも持ってきてくれるじゃん」
秋生が不思議に思い尋ねると、陽大はテーブルにある真由の土産を1つ取り上げた。
陽大の好物である地元菓子店の饅頭は、真由も知っていて買ってきてくれる。
「あーあ、寄り道しないで帰ればよかった。もう少し居ればいいのに」
陽大はさっそく饅頭を食べながら既に帰ってしまった真由に残念がったので、秋生は傍で笑顔を浮かべた。
「陽大って真由ちゃん好きだよね」
「うーん?」
秋生にからかい混じりで尋ねられた陽大は思いきり首を傾げてしまった。
「そりゃ好きだけど……なんか定期的に会わないと落ち着かない感じかも」
曖昧な口調は、本人も今一ピンとこないらしい。
小さい頃から可愛がってくれた真由は、やはり陽大にとって大切な姉のような存在なのだろう。
「……あ、そうだ。言うの忘れてた」
キッチンで夕食の準備を始めた秋生はすっかり失念していたことに気付き、再びソファに座る陽大に近寄った。
「ねえ陽大、明日の夜なんだけど、外でご飯食べようよ」
「え? 何かあったっけ」
普段滅多に外食しない我が家では、たまに行くとすれば特別な記念日くらいであり、秋生から突然外食に誘われた陽大も不思議そうに理由を尋ねた。
「お義兄さんがね、最近忙しくしてるからお詫びだって。お店も陽大に決めてほしいって言ってたよ」
「……2人で行ってくれば? 俺、土曜日は練習試合あるし」
結局陽大は素っ気なく外食を断り、傍に立つ秋生からも視線をそらした。
「でも夕方には帰れるんでしょ?」
「今度の練習試合は1年生でも出してくれるんだって。きっと疲れるし……行きたくない」
陽大の口調は明らかに言い訳にしか聞こえず、秋生もこのまま素直に信じることはできなかった。
「……ねえ陽大、どうしてそんなにお義兄さんに頑ななの? いつも陽大のこと考えてくれてるのは知ってるよね?」
ソファに座る陽大の前にしゃがんだ秋生はあえて冷静を心掛け尋ねると、陽大も不満気ではありながら視線を戻した。
「……だから、戸倉さんの前ではちゃんと笑ってるじゃん。あと何をすればいいの?」
「陽大」
秋生は陽大の言葉に思わず声を高める。
姉に咎められた陽大は突然表情に怒りを滲ませた。
「じゃあ、戸倉さんって何なの?」
「……え?」
「いきなり家に連れてきて秋ちゃんと結婚するって言われたって、意味わかんないよ。一体あの人、秋ちゃんの何なの?」
秋生が責めるような弟の言葉に思わず口を噤んでしまうと、陽大の表情は怒りより悔しさを滲ませた。
「オレが子供で弟だから、平気だって思ってた? 今までずっと我慢してただけだよ」
「……陽大」
「お願いだから、これからも普通に笑ってるから、これ以上あの人を押し付けるのやめてよ」
急に立ち上がった陽大は目の前の秋生を押しのけ、リビングから去った。
弟に置いていかれた秋生は呆然と床に座り込み、動くことが出来なかった。
頭の中でさっきの弟の悲痛とも言える声が止むことなく木霊される。
姉のせいで苦しむ姿を目の当たりにした衝撃と、それ以上に弟に対する自分の愚かさに、秋生はやがて張り裂けそうな痛みを胸に抱え込んだ。
本当は弟の思いに気付いてなかったわけではない。
陽大が壮輔に対して戸惑っていることも、はっきりと拒絶していることもわかっていた。
それは決して壮輔自身の問題ではなく、誰に対しても弟の態度は同じだろう。
姉の身勝手な行動に巻き込まれた弟の苦しみをわかっていながら、それでも気付かないフリをしていたのは秋生だ。
いつかわかってくれる、許してくれると思っていた傲慢さがここまで自分の心を鈍らせ、麻痺させ、そして弟の心を縛りつけていた。
過去、弟の心を守るために吐いた嘘のせいで、弟の中から壮輔の存在を消したのは秋生だった。
秋生自身の身勝手な思いが、弟のためと信じ込んでいた。
そして今、その事実を弟に押し付けていたのも秋生だった。
知らないままでいさせようとして、それでも秋生自身は決して忘れなかったせいで、弟を傷つけていた。
弟の恩人である壮輔だからと、秋生の頭に確実に存在する事実が、弟に壮輔を押し付けていた。
すべての罪の責任は秋生にあるはずなのに、いつのまにか弟を巻き込み苦しめていた。
呆然と床に座るだけだった秋生の頬に、ようやく弟への罪の涙が零れ落ちた。




