不 信
「こんにちは」
「松田君、いらっしゃい」
たった今店を訪れた松田から挨拶された秋生は、気さくな笑顔で迎え入れた。
「ランチ、まだやってる?」
「うん、大丈夫。好きな席座って」
松田は空いてる客席を選ぶことなく、いつも通りカウンター席に座る。
秋生は厨房にいる遠山にランチの注文を入れてから、松田の前に水を差し出した。
「仕事周り? 今日は特に寒いのに大変だね」
「いや、マジで寒かった。ここが店の近くで助かったよ」
やはり営業の途中だったらしい松田はコートを脱ぎながら、秋生にほっとした表情を浮かべる。
今秋生が働く珈琲店を訪れた松田は壮輔の同僚だ。
壮輔より3才年下の彼だが高校卒業後入社した為、会社では壮輔より先輩である。
壮輔の入社時に世話してくれたのも松田で、2人はそれ以降特別仲良くなった。
プライベートで自宅にやってくることもある松田は壮輔に似て気さくな性格で、秋生も同い年ということもあり親しく話せる仲でもあった。
営業マンの彼は時々こうして店にも立ち寄ってくれる。
「松田君、昼食摂る時間もなかったの?」
時計を確認すると、すでに2時を回っていた。
「そういうわけじゃないんだけど、得意先を何件か周ってたら食べ損ねた。さすがに腹減ったよ」
「大変だったね、お疲れ様」
ちょうど厨房の遠山から声が掛かり、出来上がったランチを松田の前に差し出した。
「秋生ちゃん、もしかして最近マイホームとか考えてたりする?」
松田は箸を動かしながら、カウンター席越しに向かい合う秋生に尋ねた。
突然マイホームの話を切り出された秋生は内心驚いたが、松田の口調が普段通りだったのですぐ笑顔を戻す。
「特に今の所そんな話はないけど…………もしかして何か言ってた?」
おそらく壮輔が松田にそれとなく零したのかと思い、逆に尋ね返した。
「いや、戸倉さんは何も言ってないよ。俺が勝手に疑っただけ」
「え? どうして?」
秋生に不思議がられた松田は動かしていた箸を一度止める。
「ほら、最近戸倉さんすごく頑張ってるからさ、もしかして家でも建てるのかと思って」
松田の言葉にようやく納得した秋生は、松田相手にも心配顔を浮かべた。
「確かにすごく忙しいみたいだよね……あんまり話してくれないからわからないけど、そういう時期なの?」
「いや、会社自体はそんなことないよ。忙しいって言っても2、3時間残業程度だし。戸倉さんだけだよ、あんなに仕事抱えてるの」
松田は1つ溜息を吐くと、秋生に気遣わしげな表情を向けた。
「なんか無理やり仕事入れてる感じだからさ……見ててちょっと心配なんだよね」
「……ねえ松田君。それってあの人が自分で引き受けてるってこと?」
「うん。戸倉さん口では大丈夫って言ってるけど、相当な量こなしてるよ」
秋生は同情が混じる松田の言葉にそのまま何も返すことができなかった。
「まあ俺が言うのもおかしいけど、秋生ちゃんからも注意しといて。働き過ぎだってきつく怒ってやりなよ」
松田が最後はあえて明るい口調で心配してくれたので、とりあえず笑顔で頷き返した。
「秋生、どうした?」
夜7時過ぎ、自宅マンション前の道路に佇んだ秋生は、車を走らせる壮輔に見つけられる。
「壮輔を待ってた」
「何で?」
「……何となく」
秋生の前で車を停めた壮輔が秋生の曖昧な答えに首を傾げ、すぐに笑った。
「秋生、帰ってくる俺が待てなかった?」
「……最近壮輔がいつ帰ってくるかわからないから」
「でも今日は早く帰れただろ?」
秋生は今夜壮輔が早い時間に帰宅することを望むあまり、外に出て待ってしまった。
今夜は無事早く帰宅した壮輔に笑われ、素直に安心させられる。
「秋生、駐車場まで付き合って」
「うん」
壮輔に誘われ助手席に乗り込むと、壮輔の車はマンションの駐車場に向かい始めた。
「今日は仕事早く終われたの?」
「秋生に会いたくて早く終わらせた」
駐車場に停めた車の中で尋ねると、相変わらず忙しいながらも無理してくれたらしい。
秋生は壮輔の答えに笑うことなく、昼間店に訪れた壮輔の同僚を思い出す。
「……今日、松田君がランチ食べに来た」
「そうなんだ」
「壮輔は働き過ぎだって心配してたよ。マイホーム買うんじゃないかって疑われた」
「マイホーム? そこまで考えてなかったけど…………秋生、もうマイホーム欲しい?」
「ううん、まだ」
「何だ。秋生が欲しがってくれれば、俺はもっとがむしゃらに働くのに」
「壮輔、やめてよ」
「冗談。これ以上働いたら秋生に会えなくなって、ストレスが爆発する。秋生、マイホームはゆっくり考えよう」
秋生は再び壮輔の笑顔で安心させられ、しばし居座った助手席から降りた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
秋生と2人で家に入った壮輔はリビングのソファに座っていた陽大と挨拶を交わす。
「今日は早く帰ったと思ったのに、陽大君の方が早かったか」
「冬は部活が少し早く終わるんです。今日も仕事お疲れ様でした」
「陽大君も毎日部活お疲れ様」
壮輔と陽大がいつも通り笑顔で労い合う様子を眺めた秋生は今夜も心の中で胸を撫で下ろし、夕食の準備をするためキッチンへ向かった。
風呂から上がった秋生が寝室に入ると、すでに壮輔の姿があった。
ベットの片側で横向きになり、すでに穏やかな寝息も立てている。
秋生は壮輔を眺めながら近付き、ベットの端に静かに腰を下ろした。
起きる様子がない壮輔の横顔をしばらく見つめ、そっと手を伸ばした。
彼の頬に触れ、彼の温度を確かめる。
今日も、彼は何も変わらない。
この温度も、秋生に対する優しさも、穏やかな笑顔も、いつもと変わらなかった。
けれど目の前の優しい夫を見つめる自分はどうだろう。
夫の横顔に触れている自分は、変わってないと言えるだろうか。
直接聞くことを躊躇ってしまうのは、臆病な心のせいかもしれない。
このゆとりある日常を、穏やかに過ぎる平凡な毎日を、それなりに愛しているのかもしれない。
同じベットで眠る壮輔が、秋生に背を向けるようになったのはいつだろう。
妻を抱かなくなった夫は、今日もこうして先に眠りに就く。
思えば壮輔が仕事を理由に帰らない日が増えた頃から、ずっと続いている。
もう1カ月以上、壮輔は秋生に触れていない。
その事実をまったく意識していなかったと言えば嘘になる。
けれど確かに、昨日までの自分はそこまで深く考えてはいなかった。
忙しい夫を理解していたから、すぐ眠りに就いてしまう夫を逆に心配していたくらいだ。
仕事を理由に疲れをみせる夫を、妻の秋生がそっと労わるのは当然だった。
けれど理由を失くしかけた今日、心は確かに迷いが生じている。
この優しい夫を心の底から信じきれなくなっている自分は、やはり変わってしまったのか。




