夫婦の朝
曇り空の今朝はカーテンの隙間から陽が差し込まず、携帯のアラーム音で目を覚ます。
重い瞼を開けた瞬間見えたのは真っ白なシーツではなく、今朝は眠る夫の姿だった。
急いでアラーム音を消した秋生は、変わらず寝顔を浮かべる夫に少しホッとする。
そのまま夫を起こさぬよう、ベットからそっと抜け出した。
「やべ、寝坊した」
「おはよう、まだ6時15分だよ」
朝食を作り終えたばかりの秋生は、今朝10分遅くリビングへ駆け込んだジャージ姿の陽大を笑って安心させる。
今朝の陽大は姉に時間を教えられても安心することなく、すぐにバックを背負い始めた。
「陽大、大丈夫だよ。朝ご飯食べる時間はある」
「今日はいいよ。行ってきます」
秋生が再び安心させても急ぐ陽大は朝食も遠慮し、玄関に向かってしまった。
「陽大、待って」
「何?」
「どうして今日は急ぐの?」
「別に今日だけじゃないよ。一昨日も急いだし、確か5日前も急いだ」
「…………」
「今日の朝練は先生も来るんだよ。時々先生が来る日は絶対遅刻できないの」
「そう……じゃあ早く行って」
「うん、行ってきます」
陽大は急ぐ理由をようやく納得してくれた姉に最後笑顔で挨拶し、朝練のある学校へ出掛けた。
「おはよう。そんな所で何やってるの?」
「……おはよう」
陽大が出掛けた後も玄関に残り続けた秋生は起床した夫に見つけられ、再びリビングへ戻った。
「はい、朝ご飯」
「……ん? おにぎり」
テーブルに座り新聞を読み始めた壮輔の前におにぎりの朝食を置くと、やはり不思議がられた。
「おにぎりじゃだめ?」
「いや、全然大丈夫だけど、朝におにぎりは初めてだね」
「実は陽大が寝坊して、朝ご飯食べずに行っちゃったの」
「そっか……じゃあこのおにぎりは陽大君の朝ご飯だったわけか」
「陽大はおにぎりが好きだから。朝ご飯は食べたがらないけど、おにぎりなら大丈夫なの」
朝はパンを好む壮輔には申し訳ないが、今朝は陽大が食べ損ねたおにぎりを壮輔の朝食にさせてもらう。
「……じゃあ秋生は陽大君と俺の好みに合わせるため、毎日わざわざ2種類の朝ご飯を作ってくれてたのか」
「簡単だよ。おにぎりは握るだけ、パンは焼くだけ」
「おにぎりに添えられてるのは卵焼きとキンピラだけど、俺が毎朝パンを食べる時はスクランブルエッグか目玉焼き、あとは野菜サラダ…………俺は今日初めて秋生が作ってくれる朝ご飯の有難味を痛感した」
「壮輔は大袈裟だなぁ」
「秋生、明日から俺も早起きする。一緒に朝ご飯作ろう」
「それはだめ」
「……どうして?」
「壮輔は今仕事が忙しいんだから、ギリギリまで寝てて」
「何だ……秋生にはっきり拒否されたから、朝早くから俺と一緒は嫌がられたのかと思った」
「そんなわけないでしょ」
「……あ、じゃあもしかして俺、陽大君に嫌がられてる? 今日も俺を避けるために朝ご飯抜きで出掛けちゃったとか?」
「もうしつこい! 陽大は壮輔を嫌がったことなんて一度もないでしょ? 最近は壮輔の帰りが遅いから、陽大も心配してるよ」
「そっか…………ホッ」
陽大に嫌われてないと教えられた壮輔は大袈裟に安心する。
秋生はおにぎりを食べ始めた壮輔を見守りながら、今朝は明らかに壮輔を避けた陽大に心の中で大きな溜息を吐いた。
「ねえ陽君、朝練って一体何なんだろうね」
「卓君、今まで知らないまま朝練してたの? 朝練っていうのは、朝の練習を略したんだよ」
校庭で朝練のウォーミングアップを始めた陽大は友達の卓巳にとぼけられ、わざと真面目に答える。
「……そっか。だから俺は先生に毎朝7時から朝練って命令されて、朝からサッカー練習してたのか」
「え?…………卓君、マジで朝練が朝の練習って知らなかったの?」
「うん。陽君、教えてくれてありがとう」
陽大は卓巳から全くとぼけていなかったと教えられ、最後唖然とする。
「……俺、卓君と小1から友達だけど、初めて気付いたかも」
「え? 陽君、俺の何に気付いたの?」
「卓君……正直に教えてもいい?」
「うん、教えて」
「多分だけど、卓君ってバ……」
「バ?」
「……やっぱ俺言えない。卓君、中途半端に教えてごめんね」
「バ?」
陽大にとって小学生時代から一番仲良しの友達で同じサッカー部の卓巳は、頭が弱かったらしい。
今日初めて実感させられた陽大はようやくウォーミングアップに本腰を入れ、その場で勢いよく足上げする。
「ねえ、陽君ってバカだよね」
「バ…………卓君にだけは言われたくないんだけど。それに俺、本当にバカじゃないし」
「授業中の陽君はけっこう頭いいけど、朝練中の陽君は断トツバカだよ。多分ここにいる皆、陽君はバカだと思ってる」
「何で!?」
陽大は頭の弱い卓巳だけでなく、サッカー部の全員に愚か者だと誤解されてるらしい。
とうとう初めてムキになり、誤解された理由を尋ねる。
「朝練は先生いないのに、1人だけ頑張ってる陽君はバカだから」
「……グウ」
周りの部員が顧問不在の朝練を堂々とサボる中、1人足上げする自分を顧みた陽大は腹の虫が鳴った。
途端にやる気を失くし校庭に尻をつくと、卓巳も隣に座る。
「陽君、お腹空いたの?」
「うん」
「俺も」
「めずらしいね、卓君も今日朝ご飯抜き?」
「ううん、今日もいっぱい食べたよ」
「あっそ」
「でもいっぱい食べたらお母さんに怒られた。何でだろ……」
「いいんじゃない? きっと怒るのは嬉しい気持ちの裏返しだよ」
「ふーん?」
「俺は朝ご飯食べないと秋ちゃんがガッカリするから、仕方なく食べる…………でも今日は食べなかったから、秋ちゃんガッカリした」
「秋ちゃん…………秋ちゃんガッカリ…………だめだよ陽君! 今から朝ご飯食べに家帰って!」
「やだよ、めんどくさい」
「陽君、最低だ。秋ちゃんが可哀想」
今朝は朝食を食べず家から逃げたせいで姉を少し落胆させた陽大は、昔から常に姉の味方である卓巳に本気で睨まれる。
今度は責める卓巳から逃げるため仕方なく立ち上がり、1人校庭を走り始めた。
「あ、すっかり忘れてた」
出勤前の壮輔は玄関先で一度足を止めると、背後にいる秋生に振り向いた。
「秋生、土曜日の食事のこと陽大君に伝えておいて」
「うん、わかった」
壮輔に頷いた秋生自身も今朝陽大に伝え忘れたことに気付く。
結局今朝は急いで出掛けた陽大を思い出し、陽大の帰宅後伝えることに少しばかり気が重くなった。
「今日も遅い?」
「どうかな……もし遅くなるようなら電話するよ」
「もう、あんまり無理しないでよ。身体が一番なんだからね」
秋生は今日もいつ帰れるかわからない壮輔に文句を言いながら心配し始める。
「秋生」
そんな秋生を愛しそうに見つめた壮輔は突然深い口づけを始める。
一瞬驚いた秋生もすぐ応えるため、壮輔の背中に手を回した。
「……壮輔、もう行かなきゃ」
秋生がようやく壮輔の出勤を気にし唇を離すと、残念そうな息を吐かれる。
「あーあ、今日は会社行くのやめようかなぁ」
「ふふ、今日も頑張ってね。旦那様」
ふざけて労った秋生は無事壮輔にも明るく笑われ、もう一度おでこにキスされた。
「じゃあ行ってきます」
「うん、気をつけて」
壮輔をしっかり見送った後、秋生も仕事に行くため身支度に取り掛かった。




