白の朝
カーテンの隙間から差し込む朝の光に照らされ、ベットの上で目を覚ました。
重い瞼を開き最初に見つめたのは、何もない白だった。
ベットから上体を起こした秋生はようやく朝が来たことを実感する。
1日の始まりは、染み1つない真っ白なシーツを見つめることだ。
それが白くても、そうでなくても、始まりはいつも同じだ。
今日は白。
暖房の効いてない部屋は目覚めたばかりの身体に堪え、無意識に縮こまりながらベットを降りる。
パジャマの上にカーディガンを羽織ると、寝室を抜け出した。
キッチンに立つ秋生の耳に、廊下を無造作に歩く足音が響いた。
「おはよう」
リビングに顔を出した陽大に挨拶すると、小さい呟きが返ってきた。
まだ半分しか開いてない瞼は完全に目覚めてないらしい。
すでにジャージ姿の弟の朝はいつも早い。
秋生も弟に付き合うため、時計の針はまだ6時過ぎだ。
「早く食べて、遅刻するよ」
朝食を前にしていつまでも欠伸する陽大をそろそろ急がせ始める。
のんびり食べ始めたのを確認して、とりあえず息を吐いた。
「いないの?」
ようやくはっきり目覚めた陽大は傍に佇む秋生を見ることなく尋ねた。
表情の見えない横顔は最近多いので、姉の秋生も慣れっこだ。
「忙しいみたいだね」
秋生が明るく答えると、陽大はそれ以上何も言わなかった。
「今日も部活、いつも通り?」
秋生も陽大の隣に座り、寝癖ではねた陽大の髪を優しく撫でながら尋ねる。
「うん、いつも通り。何で?」
姉のお節介を特に嫌がることもない陽大はようやく表情も和らげた。
「特に何もないんだけど…………今日は多分早く帰ると思うから、皆でご飯食べられると思って」
「……別にいつもと同じでいいよ。戸倉さん忙しいんでしょ」
秋生の言葉に再び無表情を戻した陽大は素っ気なく答え、秋生から視線も外した。
「陽大、いつも言ってるよね」
「……何?」
秋生がわずかに声を尖らせると、陽大も渋々答える。
「戸倉さんって何? どうしてそんな言い方するの」
静かな口調で咎め始めた秋生にようやく視線も戻した陽大は、子供らしくない冷めた目を向けた。
「……じゃあ何て言えばいいわけ? 壮輔さん?」
秋生が結局口を噤むと、陽大はそのまま椅子から立ち上がった。
行ってきますと挨拶し学校へ出掛けた陽大を見送った後、秋生の口から今日も大きな溜息が零れた。
姉の秋生がよくわかってる。
弟は今一番敏感な年頃だ。
13歳になった陽大は今春中学校へ進学した。
今年に入ってぐんと伸びた身長は、姉の秋生をとうとう超してしまった。
顔つきもずいぶん大人びたように思う。
元々母親似の陽大は目鼻立ちが整っていて中性的だが、ここ最近ぐっと男の子らしくなった。
そして身体と同じように心も成長を見せている。
普段は姉に優しい陽大でも、秋生が彼の気に触ることを零すと一日口を閉ざしてしまうことも珍しくない。
不安定で多感な年頃の陽大に、一番近くにいる秋生は最近ため息の連続だった。
「反抗期なんてそんなもんよ。陽大君なんて可愛い方じゃない」
店主の遠山は愉快そうに笑いながら秋生の愚痴を吹き飛ばした。
「うちなんて息子3人でしょ? 次男と三男は私に似て気が強いもんだから、反抗期真っ盛りの頃は毎日取っ組み合いの喧嘩だったわよ」
「光君は高校卒業してもう社会人、勝君は中学3年生か……」
「ついでにうちの長男は大学院卒業して研究者になったけど、男の巣窟で全く女性との出会いがないし…………はあ」
遠山には3人の息子がいるが、去年まで小学生だった陽大は三男の勝と休日仲良く遊んでいた。
息子3人をすでに大きく育てた遠山だが長男に対する悩みは昔と変わらず、今日も秋生に負けじと大きな溜息を吐いた。
「とにかく秋生ちゃんはね、陽大君に対してもう少し肩の力抜けばいいのよ。子供が反抗するのは当たり前」
「そうですね、わかってはいるんですけど……」
「いつか自分の子供ができれば陽大君の経験が役に立つ時が必ず来るわよ。予行演習だと思えばいいの」
サバサバした遠山の意見はおそらく正論だろう。
弟に対していつも後ろ向きになりがちな秋生は、そのくらい開き直る必要があるかもしれない。
「うーん…………でも子供が中学生になる前に忘れちゃうんじゃないでしょうか」
「確かにその通りね。秋生ちゃん! 忘れる前に今すぐ子供作りなさい」
もう3年近く言われ続けている遠山の口癖もとっくに慣れている。
それが決してお節介とは言い難いのも、明るく気さくな遠山の人柄のせいだ。
勢いよく鳴ったベル音で遠山との会話を中断させた秋生は、今日初めて訪れた客を笑顔で迎え入れた。
中心市街地から離れた場所にある珈琲店は、客のほとんどが町内の常連客だ。
秋生はもう5年前からこの店で働いている。
それまで飲食店で働いた経験はなかったが、以前の仕事も接客業だったので戸惑うことも少なかった。
長年世話になっている店主の遠山もそんな秋生に優しく、良好な関係を築いている。
つい先月26歳になった秋生は21歳手前からこの店で働き始め、今から3年前に結婚した。
今はマンションを借り、弟の陽大と共に3人で暮らしている。
新山の口癖通り子供はまだいない。
陽大の部活が始まり、朝早く始まる生活はそれなりに忙しいものだが、十分ゆとりがある。
陽大も中学生になり手が掛からなくなった為、余計にゆとりのある自分を実感するのかもしれない。
思えば10代の頃が一番忙しかったのだから、今の生活は贅沢にも感じるものだ。
年頃の弟に対する悩みを遠山に愚痴れるのも、穏やかに過ぎていく日常故かもしれない。
すべてが完璧とは言えない。完璧な人生など世の中にそうないように、これが秋生の普通で、これからも続く日常なのかもしれない。
「おかえり」
たった今帰宅した壮輔は、玄関先で迎えた秋生に済まなそうな笑顔を浮かべた。
「ただいま、昨日はごめん」
「ううん……忙しそうだね」
壮輔は秋生の心配に再び謝ると、家の中へ入った。
「ご飯食べるでしょ?」
「うん」
背広だけ脱いだ壮輔がそのまま食卓テーブルに座り、秋生は壮輔の夕食を温め直し始める。
「陽大君は?」
「今、お風呂入ってる」
秋生に教えられ浴室のドアに視線を向けた壮輔は、改めて済まなそうな息を漏らした。
「結局、今日も遅くなったからな……」
「あんまり気にしないでよ。仕事なんだから仕方ないじゃない」
遅い帰りを気にする壮輔に慰めの言葉を掛けた秋生は、急いで準備した夕食を勧める。
すでに時計は10時半を回っていた。
「あ、そうだ。着替え間に合った?」
「うん、大丈夫。あとで洗濯お願いしてもいい?」
「……ねえ、本当に大丈夫? ちゃんと寝てるんだよね?」
ようやく夕食を食べ始めた壮輔を向かいの席から再び心配するが、結局今日も笑って頷かれた。
ここ最近―――すでに1カ月以上、壮輔はその日によっては家に帰らず、会社で仮眠を取る生活が続いている。
今日のように帰りが遅いのは以前もあったが、帰れないまでの状況は初めてのことだった。
秋生が心配なのは壮輔の身体だ。
過労で倒れるんじゃないかと思うほど仕事が忙しい最近の壮輔に、どうしても気が休まらない。
帰れないといっても3、4日に一度程度だが、それでも十分過労だ。
「大丈夫、そんなやわじゃないよ。秋生の方は?」
「特に何もないよ。いつも通り」
今度は秋生が笑って安心させると、壮輔は一度箸を止める。
「なあ秋生、今度の土曜日は? 夜、何かある?」
「土曜日の夜は何もないけど……どうして?」
「ほら、俺のせいで最近なかなか慌ただしいからさ。3人で食事でもどう?」
「……でも、大丈夫なの?」
「よし、じゃあ決まりだ」
土曜日の約束を取り付けた壮輔は楽しそうに笑い、再び箸を動かし始めた。
秋生はそんな壮輔に再び心配の目を向ける。
秋生達に気遣ってくれる壮輔の気持ちは十分嬉しいが、無理をしてほしいなど少しも思わない。
たまの休日くらい家でゆっくり休めばいいのに、彼はどんなに忙しくても疲れた表情を見せてくれない。
いつも秋生に気遣い、おおらかに笑ってる本当に優しい人だ。
「お帰りなさい」
風呂から上がったばかりの陽大は壮輔の存在に気づき、食卓の傍まで近付いた。
「ただいま、昨日は帰れなくてごめんな」
「ううん」
壮輔が申し訳なさそうに謝ると、陽大は首を振り笑顔を浮かべる。
「学校は? 何か困ったことはない?」
「何もないよ。秋ちゃんがいるから大丈夫」
陽大は気遣う壮輔を安心させると、そうだよね?と秋生にも確認した。
秋生も壮輔に頷く。
「じゃあ宿題あるからもう行くね。おやすみなさい」
壮輔に向かって最後挨拶した陽大は踵を返し、自分の部屋へ向かった。
秋生は弟の姿を見送りながら、心の中で安堵の息を吐く。
朝から不機嫌だった陽大が今日初めて笑顔を見せたこともそうだが、壮輔に対しいつもと変わりない態度だったことに今日も胸を撫で下ろした。
戸倉 壮輔――――彼と結婚してすでに3年になる。
弟の陽大を庇い負傷した彼は、その不幸な事故がきっかけとなり出会った。
彼が入院している時から手助けさせてもらった秋生は出会いから1年半経て彼の恋人となり、秋生が23歳となった秋に結婚した。
あの事故の怪我により後遺症が残った壮輔の右足は、今も完治に至らない。
歩行にはまったく支障はないが、激しい運動は避けなければならない状態だ。
1年間のリハビリ通院を経てようやく社会人となった彼は、中小企業の営業職に就き毎日精力的に働いている。
すでに知り合って6年以上そして結婚して3年、秋生と壮輔は出会った頃と変わらず常に互いを気遣い、穏やかな関係を築いていた。




