怖がれない心
「あの子がぼんやりしてるうちに、とうとう2年経っちゃったわ…………どうしましょう」
「遠山さん、どうしたの?」
相変わらず珈琲店の常連である30代男性の佐川は今日もカウンター席に座ると、目の前で深く悩む店主の遠山をとりあえず心配する。
「……佐川さん、いらっしゃい」
「めずらしいね。遠山さんが元気なくすほど悩んでるなんて」
「最近男の予感がするのよ…………それもこれもあの子が2年もぼんやりしてるから」
「遠山さんの悩みも十分ぼやけてるよ。もっとはっきり悩んで。まずあの子って誰?」
「決まってるじゃない。うちの長男」
「遠山さんの長男が2年ぼんやりしたせいで、遠山さんはどうして男の予感がしたわけ?」
「だから決まってるじゃない! 秋生ちゃんが他の男に狙われたのよ!」
「あーそういうこと。つまり遠山さんの長男は2年経っても秋生ちゃんに全く近づけないってわけね」
佐川から不甲斐ない息子の現実をはっきり納得された遠山は、悩みを通り越しガックリと落胆した。
「でも遠山さん、まだ大丈夫なんじゃない? 秋生ちゃんは嫁目当ての男客に優しくしても、全くなびかないんでしょ? 俺にもそうだし」
「優しくしても全くなびかない秋生ちゃんは、長男にだって同じよ…………私のよしみで少しくらい依怙贔屓してくれてもいいのに」
「結局はそんなガードの固い秋生ちゃんに全く近づけない遠山さんの長男が、不甲斐ないってことだよ」
「そんなことわかってるわよ! 一々はっきり言葉にしないで!」
「あーあ、逆切れされた。いくら遠山さんに人を見る目があっても、息子に関して思うようにいかないのは普通の母親と一緒だね」
息子の恋が全く進展しないせいで遠山から八つ当たりされた佐川は、客席の片付けをする秋生に視線を向ける。
「ふーん……秋生ちゃんって地味だけど、色気は感じるんだよな。やっぱりもしかして……」
「ん? 佐川さん、秋生ちゃんが何だって?」
「何でもない何でもない。俺の気のせい」
佐川は小さい呟きも秋生に関してなら聞き逃そうとしない遠山に笑って誤魔化したが、男だから感じ取った秋生の色気に男の予感は拭えなかった。
「はあ……何でもう高校生の俺が、また小学生の遊び相手になんなきゃいけねえんだ」
「光の初カノ、サッカー好きじゃん」
「……そうだ。よし勝、真剣に遊ぶぞ」
休日の午後、珈琲店店主の次男坊である光は弟の勝に無理やり遊びに駆り出されたが、最近初めて出来た彼女のお陰で一変する。
光と勝は庭で真剣にサッカー勝負を始めた。
「光の下手くそ!」
「うるせえ、俺はサッカー初心者だから普通だ!」
「光は普通じゃねえ、絶対下手くそだ!」
「そこまで言うなら証拠見せてみろ!」
光のサッカー技術は普通か下手か低レベルの言い争いをしながらボールを奪い合う兄弟は、光の一言で動きを止めた。
「光が下手くそな証拠…………そうだ! 光、陽大君と勝負しろよ」
勝は光のサッカー下手を証明するため、同じサッカー初心者の陽大と勝負するよう提案する。
それまで兄弟のサッカー勝負を庭に座り眺めてた陽大は、光に視線を向けられた。
「はあ……面倒くせぇ。じゃあ俺は下手くそでいいよ」
「おい光、小4の陽大君に負けたくないからって逃げるつもりだろ」
「そうじゃねえよ。やる気ねえ陽大とやったって面倒なだけだろ」
「いいからやれ!」
「おい勝、いい加減気付いてやれ。陽大はサッカーしたくねえんだ」
この2年陽大といつも一緒に遊んでいたのは勝なのに、たまに遊びに付き合わされるだけの光はとっくに陽大の気持ちを悟っていた。
光に教えられた勝は確かに初めて気付き、ようやく黙った。
「光、俺と勝負して」
「……え?」
「サッカーやりたくなった」
しばし光の下手くそなサッカーを眺めていた陽大はなぜか初めて触発され、久しぶりにサッカーボールを手に持った。
今日も店主に届け物を頼まれ一時店を抜け出した秋生は、店主家の庭で立ち止まる。
目の前で陽大がサッカーをしていた。
相手の光からあっさりボールを奪い笑う陽大をそのまま見守る。
とうとう光をバテさせた陽大は見守る姉に気付き、サッカーボールと共に近寄った。
「秋ちゃん、今日もクッキー頼まれたの?」
「うん、優さんに持っていってくれる?」
「俺サッカーしてるから、秋ちゃん行って」
秋生は週末になると店主に頼まれ店主の長男にクッキーを届け続けたが、渡すのはいつも陽大に任せていた。
今日は陽大に断られ、再びサッカーを始めた陽大を再び見守る。
暫し庭に佇んでしまった秋生はようやく店主家へ向かった。
「おい陽大、今日は優の邪魔しねえのか?」
「うん、優は絶対無理だってわかったから」
再び陽大とサッカーをする光は、今までずっと陽大が姉と優を接触させないよう注意していた姿を知っていたが、陽大から諦めた理由を教えられる。
光はどうせ兄の恋は絶対に叶わないと陽大の注意から外されたことがわかり、今まで兄の恋を味方し続けたが納得もさせられてしまった。
兄を不憫に思いながらもせめて自分は初彼女の為にサッカーの上達を目指すため、再び陽大と真剣に向かい合った。
「戸倉さん、知ってました? 竹下さんと佐藤さん、結婚ですって」
夜7時のオフィスで残業する壮輔は隣のデスクに座る同僚の松田から耳打ちされ、ノートパソコンから目を離し背後に振り返る。
松田が突然教えてくれたのは、壮輔の遠く背後で笑って仕事のやりとりをしてる竹下と佐藤のせいに違いない。
「……あの2人、付き合ってたのか?」
「戸倉さん、知らなかったんですか? でも俺、前にこっそり教えましたよね」
「そうだっけ?」
「あの2人が2年前から内緒で付き合ってるのは、営業部では暗黙の了解です。うちは社内恋愛に厳しくないけど、とうとう結婚するんで佐藤さんは来年寿退社ですって」
「退社? 部署移動じゃなくて?」
「はい…………ここだけの話、2人の結婚は女性の佐藤さんが張りきったそうですよ。さっさと仕事辞めて専業主婦になりたかったんじゃないですか? 佐藤さんに手綱引かれてる竹下さんは何も気付かず幸せそうだけど、俺は無理かなぁ……」
松田が計算高い女性は勘弁と曖昧に毒づくと、壮輔は再びノートパソコンを見つめた。
「竹下さんは手綱引かれてることに気付かず幸せなんだろ? だったらいいじゃないか」
「まあそうですけどね」
「でも結婚したあと気付けば、後悔するかもしれないけど」
「……戸倉さんが初めて毒づいた」
「俺だって陰では毒づくよ」
松田は初めて毒づいた壮輔に驚いたが、ノートパソコンを見つめる壮輔の横顔にすぐ納得させられた。
「戸倉さん、苛立ってますね」
「腹減ってるから」
「最近ずっとですよ」
「最近ずっと腹減ってる」
「何が食べたいんですか? 彼女さん?」
「いや、毎晩食べてる」
「毎晩食べる彼女さんじゃ、もう満足できないんでしょ? だから戸倉さんの腹は減る一方」
壮輔とすでに2年一番親しい同僚である松田は、今では壮輔のプライベートにも平気で首を突っ込める。
そして最近の壮輔が彼女に対してとても苛立ってることもよくわかっていた。
「もうすぐ結婚する幸せそうな竹下さんに毒づくんだから、彼女さんはまだ結婚に踏み切れないんですね…………うーん、どうして?」
ただ苛立つだけの壮輔に代わって悩み始めた松田は、1年半前壮輔が彼女との結婚を望んでも叶わなかったことを知っている。
それから壮輔は彼女の気持ちが変わることを待ち続けているが、松田も今だに気持ちが変わらない壮輔の彼女にさすがに疑問を覚える。
「弟だよ」
「……ん? 弟?」
「彼女の弟。俺と彼女を引き合わせてくれたのに、今では俺の最大のネックだ」
壮輔はノートパソコンを見つめながら初めて本音を零した。
彼女の弟によって生じた苛立ちを松田相手に八つ当たりした。
「……彼女さんの弟が結婚を嫌がってるってことですか?」
「ああ、おそらく」
「なるほど…………それじゃどうにもなりませんね。彼女さんには弟しか家族がいないんなら、弟の気持ちを蔑ろにできません。戸倉さんは不憫だけど、彼女さんの弟がもう少し成長するまで待つしかありませんよ」
「……成長?」
「心の成長です。彼女さんの弟は戸倉さんに母親代わりの姉を取られたくないんですよ。まだ小学生でしょ? そんなの当たり前です。彼女さんも当然弟の気持ちを優先しますよ」
「じゃあ俺はいつまで待てばいいんだ。俺はもう1年半待った」
2年間壮輔のプライベートに首を突っ込んできたからこそ言える松田のはっきりした発言に対し、壮輔は松田ではなくノートパソコンに怒りをぶつけた。
壮輔の手で思い切り閉じられたノートパソコンを見つめた松田は自分の発言に後悔するよりも、壮輔の限界を痛感させられた。
「……あの」
今夜も10時半に自宅アパートを抜け出した秋生は、隣の部屋の前で困ってる様子の男性にそっと声を掛けた。
スーツを纏ったその男性は壮輔を抱えていたからだ。
「あ……戸倉さんの彼女さん」
「……はい」
「俺は戸倉さんの同僚の松田と言います。残業した帰りに戸倉さんと一杯だけ飲むつもりだったんですけど…………すみません、あっという間に潰れちゃいました」
秋生は自分を認識してたらしい壮輔の同僚を、同じく壮輔の話からよく知っていた。
松田が詳しく事情を教えてくれ、酔い潰れた壮輔に視線を向け直す。
「すみません松田さん。今鍵を開けるので、部屋の中までお願いできますか?」
松田にすぐお願いした秋生は壮輔のスーツから鍵を取り出し、部屋を開けた。
「俺は今日戸倉さんの味方になれなかったけど…………戸倉さんが潰れた理由だけ知ってもらえますか?」
「……はい」
「戸倉さんはもう結婚を待てない状態です」
「……はい」
「じゃあ俺、帰ります」
「松田さん、本当にお世話になりました」
最後に秋生と向き合った松田は今の壮輔の状態を秋生も理解していたことがわかり、少しばかり安心して帰った。
松田を見送った秋生は再び壮輔が眠るベットに戻る。
今は穏やかな壮輔を見下ろしながら、秋生の頭は最近の弟を思い浮かべる。
壮輔の頬に手を伸ばしながら、秋生の心は初めて壮輔との結婚を怖がれなかった。




