約束のキス
10時半前になり陽大の寝顔を一度確認すると、そっと襖を閉め直す。
今夜も自宅アパートを抜け出し、隣の公園へ向かった。
秋生は夜の公園で待つことなく、今夜も壮輔を待たせた。
「こんばんは」
傍に近付き挨拶したが、今夜の壮輔はとうとう秋生に最初から不機嫌な表情を浮かべる。
最近の秋生はなぜか壮輔の機嫌を損ねるのが得意になってしまった。
週に一度の昼に会ったひと月前までの彼はいつも笑ってくれたのに、毎夜公園で30分会うようになった彼は簡単に笑顔を浮かべてくれない。
「遅かったですか?」
「敬語、挨拶も他人行儀」
「ごめんね」
遅刻はしなかったがさっそく2つの不満をぶつけられ、納得しながら謝る。
彼の望み通りに謝ったのに、わざと不機嫌な顔は変わらない。
もうとっくにわざとと気付いた秋生は、今夜も彼の望みを更に叶え始めた。
「壮輔、ごめんね」
「許す」
「よかった……今日はあっさり許された」
「いつも俺はしつこいから」
「今日はどうしてあっさり?」
「いつもより余裕がない。秋生、もっと傍に」
いつもより余裕がないらしい彼があっさり笑顔を浮かべ直す。
今夜はいつもより早く彼の傍にもっと近づいた秋生は、そのまま彼の手に掴まった。
夜の公園で2人は静かに抱き合い、優しいキスを交し始める。
「秋生、まだ離れないで」
「ブランコでお喋りは?」
「今日はいいよ。ずっとこうしてたい」
「無理だよ、見つかっちゃう」
「見つかってもいい。ずっとこうする」
「……今日の壮輔はあっさりなのに」
結局今夜もしつこかった彼は秋生を中々離さず、今夜もキスだけで10分失くした。
ひと月前、秋生は壮輔と毎夜公園で30分会うようになってから、最初はとても緊張していた壮輔にあっという間に飲み込まれてしまった。
毎夜会うようになったせいで秋生への恋情が抑えられなくなった壮輔は、同じく秋生を強く求め始めた。
ブランコのお喋りから始まった彼との30分はすぐに抱きしめ合うようになり、軽いキスを重ね合い、ひと月経った今は彼の深いキスから中々逃がしてもらえない。
毎夜彼の恋情に飲み込まれる秋生は、それでも彼に自制を強いていることを大いに自覚していた。
夜の30分しか会えない秋生は彼と一線を超えることだけ叶えなかった。
今夜も深いキスを交わしながら秋生の身体も愛し始める彼の手を合図に、彼から無理やり離れブランコへ歩いた。
「今日も10分か…………もっとキスしたかった」
秋生と並んでブランコに座った壮輔は自分の手が悪いのに、まるで秋生のせいと言わんばかりに嘆く。
「私は10分が嬉しい」
「嬉しい? たった10分で?」
「10分も嬉しかったよ」
「秋生はいつまで経っても贅沢じゃない。すっかり贅沢な俺とは雲泥の差だ」
「……キスは贅沢?」
「今の俺にはね。でも最高の贅沢は近いうち必ず」
壮輔にとって最高の贅沢が何であるかなど、秋生はもう考える必要もない。
彼は近いうち必ず叶えるとあえて口にし、秋生にプレッシャーを与える。
最近の彼の頭は最高の贅沢でいっぱいなので、秋生の心は溜息でいっぱいだ。
彼の優しい心は以前とまったく変わってないのに最近彼の頭だけ変わってしまったのは、彼の恋情のせいだ。
彼の恋情を生んだ秋生が変わってしまった彼の頭を嘆けるはずもない。
「……最近仕事が手につかない」
最初はとても心配した壮輔の呟きも、毎夜聞かされれば心配も忘れる。
じゃあ会うのは控えようかと気遣った過去の秋生は、壮輔を初めて怒らせた。
ひと月前まで笑ってる彼とばかり会っていたせいで、彼がこんなにも感情表現豊かだと知ったこのひと月、秋生の心は彼にすっかり翻弄されている。
ふと、今日の昼間顔を合わせた店主の息子を思い出した。
長男の優は店主が心配するほど大人しくて穏やかだが、壮輔のように恋をすれば変わるのだろうか。
過去に秋生は男性がキスまでの恋ではいつまでも耐えられないことを実感している。
恋した男性が皆同じなら、唯一叶えなかった壮輔の望みをいつまでも無視するわけにもいかないと、すでに秋生は痛感していた。
「……壮輔」
「何?」
「…………」
「秋生、もしかして初めて迷ってる?」
「ううん、そうじゃなくて……」
壮輔は秋生の躊躇いにとてつもなく期待したらしく、否定された途端頭を抱えるほど落胆した。
もはや秋生の話を聞く気も失せたらしい。
「壮輔、ちゃんと最後まで聞いて」
「……ごめん、何?」
「壮輔の最高の贅沢は近いうち必ずなんでしょ?……でもどうやって?」
期待が外れた秋生の話をつい投げやりにしてしまった壮輔はすぐ笑顔で反省してくれたので、ようやく躊躇いを捨てて質問した。
落胆したばかりの壮輔が案の定ポカンと秋生に驚く。
「……秋生、いいの?」
「これ以上仕事が手に付かないと、クビになっちゃうから」
「うん、俺も困ってたんだ。クビになったら秋生に嫌われてしまう」
「……ねえ、それでどうやって最高の贅沢するの?」
壮輔は再び最初の質問をおずおずと戻した秋生を見つめ、なぜか再び頭を抱えてしまった。
「……やばい」
「え? 何が?」
「秋生」
「私? 何で?」
「煽られた」
無意識に煽ってしまった秋生は壮輔をすっかり参らせ、降参の溜息まで吐かせる。
「ごめん秋生、俺は煽る秋生を好きになったんじゃないのに」
「……壮輔ごめん、私は意味がよくわからない」
「俺は所詮男ってことだよ」
「うん、壮輔が男なのは知ってるけど……」
「要するに俺は秋生の色気にやられたってこと…………今俺はただ女の秋生に欲情したんだ」
「……それはだめなの?」
「だめだよ。俺はただ秋生が好きだから最高の贅沢をしたい」
彼は最高の贅沢を求めるのにポリシーがあると知った秋生は、とてもおかしくなった。
「ふふ」
「おかしい? 俺は本気なのに」
「おかしい……私は男じゃないから。でも壮輔の苦労が初めてよくわかったよ」
「苦労?」
「男の人は好きな人じゃなくても最高の贅沢ができるのに、壮輔は私にこだわってくれた。最高の贅沢を我慢させてしまった私は壮輔の苦労がやっと骨身に染みたの」
「……秋生は最高の贅沢を履き違えてる」
「え?」
壮輔の最高の贅沢を理解していたとすっかり思い込んでいたのに、どうやら違ったらしい。
今度は秋生がポカンと壮輔を見つめた。
「俺の最高の贅沢は好きな人から生まれた。俺は好きな人がいるから最高の贅沢を求めた…………つまり俺の最高の贅沢は秋生ってこと。わかった?」
「……うん、わかった」
「じゃあ秋生、今度の水曜日、前みたいに俺に会いに来て」
「え?」
「俺は水曜日の昼間、休憩を2時間取る。水曜日が仕事休みの秋生は俺の部屋に来て」
「…………」
「秋生、今度の水曜日、俺達最高の贅沢しよう」
「……うん」
今夜初めて2人はブランコに乗りながら約束のキスをした。




