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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
第三章 変  移
34/119

店主の期待




「いやーもう9月も終わるのに暑い暑い。今日もお邪魔するよー」


 先週も珈琲店に来てくれた常連客が汗をかきながら入店し、秋生はすぐに近付いた。


「いらっしゃいませ。今日もありがとうございます、佐川さん」

「え? 秋生ちゃん、俺の名前覚えてくれたの?」

「はい、この前教えていただけたので。佐川さん、これからもよろしくお願いします」

「……嬉しい」


 秋生から2度も名前付きで挨拶された佐川は、秋生の優しい笑顔に呆然と喜んだ。



「遠山さん、秋生ちゃん雇って正解だったね」

「もちろんよ。でも佐川さん、何で?」 


 さっき訪れた常連客の佐川は秋生が客席で接客に励む姿をカウンター席から眺め、向かいに立つ店主の遠山と声顰めて話し始めた。


「今の世知辛い世の中、寂しい独身男が求めるのは美人じゃなくて癒しだよ。優しさが滲み出た秋生ちゃんの笑顔は男の癒しそのもの」

「あら失礼ねえ。秋生ちゃんはあんなに可愛いじゃない」

「遠山さんにとって仕事ができて性格もいい秋生ちゃんはそりゃあ可愛くて仕方ないだろうけど、男は女以上にシビアだからね。中身より見た目が大事…………正直、秋生ちゃんって地味でしょ?」

「佐川さん、だから? 今の男は癒し好きなんじゃないの?」


 決して客席にいる秋生に聞こえないよう更に声顰めた佐川に対し、遠山はさすがに苛立った声を返した。


「要するに男は美人なら3日で飽きるけど、秋生ちゃんは嫁にしたいタイプ。俺は毎日秋生ちゃんの笑顔で癒されたら、美人は我慢できるかも」

「まったく、勝手なことばっかり言って…………でも佐川さんの目は確かね。秋生ちゃんが働いてくれてひと月経ったけど、佐川さんみたいな30代独身男性のお客様が少し増えたから。きっと秋生ちゃんを嫁に狙ってるのね」

「遠山さん、マジで? 気のせいじゃなく?」

「うちの店は50代以降のお客様がほとんどだけど、きっと気立てのいい秋生ちゃんを気に入ったお客様が独身の息子さんや、独身男性のいるご近所さんに勧めてるんじゃないかしら。この店には優しい子がいるから一度行ってみろって。実際に来る30代男性のお客様は揃って癒しを求めるタイプだから、秋生ちゃんの笑顔に見事癒されて無事常連というわけ」

「くそー……俺だけじゃなかったんだ」


 秋生の笑顔に癒される30代独身男性客の1人である佐川は見事に悔しがる。

 遠山はせせら笑ったが、すぐ憂い顔を浮かべた。


「あーあ、このまま秋生ちゃん、うちの息子の嫁になってくれないかしら」

「え? 遠山さんの息子さんってまだ学生でしょ? 中学生と小学生」

「次男と三男はいずれ勝手に彼女作るわよ。問題は大学生の長男」

「遠山さん、息子3人いたの?」


 遠山がよく嘆いてる息子2人の存在は知っていた佐川は、更に上の息子までいると初めて知った。


「長男は小さい頃から全く手が掛からない大人しい性格だけど、それが恋愛にはネックなのよねぇ…………あの子、一生結婚できないんじゃないかしら」

「大学生なら遠山さんに隠してる彼女くらい、いるんじゃない?」

「まさか、あの子は彼女どころか女の子と喋った経験すらないわよ。まったく積極性がない男なんて、女の子に敬遠されるだけだしね…………優しい秋生ちゃんがあの子を救ってくれないかしら」

「ちょっとやめなよ遠山さん、秋生ちゃんにだって男を選ぶ権利があるんだから。あ! 秋生ちゃん!」


 大変消極的な息子の嫁に秋生を狙ってる遠山を焦って止めさせた佐川は、傍に戻ってきた秋生にさっそく声を掛け始めた。




「よーいどん」


 今日も姉が珈琲店で仕事してるあいだ店主の家で待つ陽大は、勝と一緒に庭で競争する。

 しかし2歳年上で足が速い勝にまったく太刀打ちできず、正午前ですでに9度も負け続けた。

 

「ゴール! また俺の勝ち! イエイ! 10連勝!」

「……小4の勝君は小2の俺に手加減した方がいいと思う」


 あっさり10連勝した勝が素直に勝ち誇る姿に、とうとう陽大は静かに文句をつける。


「てかげん? 何それ?」

「わかんないならいいよ…………勝君、今度は池の前ゴールね。よーいどん」

「俺、腹減った。陽大君、ご飯食べ行こ」

「ずるいよ勝君、そういうの勝ち逃げって言うんだよ」


 気まぐれな勝に勝ち逃げされ、10連敗の陽大はとうとう怒りながら家の中に戻る勝を追い掛けた。



「あれ? 今日はご飯なーい」


 陽大と共にキッチンへ入った勝は母の作り置き昼食が見当たらず、今度は茶の間へ急ぐ。


「おい光! 俺達のご飯食っただろ!」

「はあ? 何言ってんだお前、俺だって何も食ってねえよ!」


 勝は茶の間でテレビを観る兄の光を真っ先に昼飯泥棒と疑い、すぐさま否定される。


「嘘吐くんじゃねえ! 代りに金よこせ!」

「金なんて持ってるわけねえだろ! 俺の小遣い2千円だぞ!」

「ずるいぞ光! 俺は500円だぞ!」

「当たり前だ! お前は小学生で俺は中学生だ!」

「……光、勝、陽大君が見てるのに喧嘩しちゃだめだよ。陽大君ごめんね」


 今日もさっそく取っ組み合いの喧嘩を始める弟達をやんわり止めた長男の優は、ぼんやりと喧嘩を眺める陽大にも謝る。


「ねえ優、お金ちょうだい。俺と陽大君カップラーメン食べるから」

「カップラーメンは身体に悪いから駄目だよ。お母さんに怒られるだろ?」

「じゃあ俺達、何食べればいいの?」

「皆で店に行こう」

「面倒くせえ! 俺はいい。自分でカップラーメン買う」


 すっかり腹を空かせた勝は兄の優から最終的に母の店へ誘われるが、1人拒否したのは光だった。 


「おい光! 小遣いないんじゃなかったのかよ!」

「うるせえ! お前はさっさと鬼ババの店行って飯食え!」

「光、カップラーメンは駄目だよ。皆で店行こう」


 昼飯を巡って再び光と勝の喧嘩が始まりかけると、再び優は母の店に誘い直した。


「……へえ、なーんか今日の優ってずいぶん鬼ババの店行きたがるね? 一体何でかなぁ?」

「そんなことないよ」

「あ! そういえば優、あのお姉さんと同い年じゃん。この前鬼ババの店で飯食った時、優あのお姉さんと初めて喋ったよね! もしかして同い年だから気が合っちゃった?」

「別に喋ってないよ。ただ俺は挨拶されただけ」


 優は先週母の店で久しぶりに昼食を食べた際、先月入った従業員女性に初対面の挨拶をされただけなのに、光からわざとらしくからかわれる。


「ヤバ! 優、顔真っ赤! そういえばこの前お姉さんと会った時も真っ赤だった! あ! もしかして優、お姉さんのこと……」

「もうやめてくれ、俺はそんなんじゃないよ。勝、陽大君、今日はカップラーメン食べよう」


 しつこくからかう光をとうとうはっきり嫌がった優は茶の間から立ち上がり、今日はカップラーメンを買うことにする。

 勝と陽大を誘って玄関に向かうと、偶然玄関チャイムが鳴った。


「こんにちは、お昼ご飯を届けに来ました」


 店から抜け出し店主の3人息子と陽大に昼食を届けに来た秋生は、すぐ玄関を開けてくれた優に笑顔で挨拶する。


「…………」

「わーい! ありがとうございまーす! 優、早く受け取りなよ」


 突然向かい合った秋生に呆然とした優は、勝の声で我に返る。


「……あ、ありがとうございます」

「いえ、中身はサンドイッチです。はいどうぞ」


 優が秋生から差し出されたサンドイッチの入った紙袋をようやく受け取ろうとすると、秋生の手から紙袋が突然消えた。


「陽大」

「秋ちゃん、早く帰って」


 サンドイッチを盗んだ陽大はせっかく昼食を届けに来た秋生をそっけなく追い返し、しっかり玄関ドアまで閉めてしまう。


「……あ」


 サンドイッチを受け取れず秋生も目の前からいなくなった優は明らかに落胆の呟きを零すと、いつの間にかじっと見上げる陽大と目を合わせた。


「秋ちゃんを見ないで」

「…………」

「勝君、サンドイッチ食べよ」

「イエイ! サンドイッチGET!」


 今日も姉に目をつけた害虫を一匹やっつけた陽大は勝と共に家の中へ戻った。




「戻りました」

「秋生ちゃん、ありがとう」

「いえ、こちらこそいつも陽大のお昼ご飯まで用意してくれて、ありがとうございます」


 さっき店主の自宅へ昼食を届けた秋生は再び店に戻り、店主の遠山に改めて礼を伝える。


「今日のサンドイッチは秋生ちゃんが作ってくれたんじゃない。私は朝寝坊して得したわ」

「私もサンドイッチいっぱい作れて楽しかったです」


 遠山は土日も店を営業してるため毎週末子供達の昼食を朝作り置きするのだが、今日は代りにサンドイッチを作った秋生から喜ばれる。


「……私が店を引退したら、秋生ちゃんに任せたいわねえ」

「え?」

「秋生ちゃんは私よりずっとこの商売が向いてるわ。料理もできるし接客も上手、何より気が利くもの。ほら、一を聞いて十を知るって言うでしょ? 秋生ちゃんはそれが自然とできる子。そんな若い子中々いないわよ」


 秋生は遠山に気が利くと褒められたが一を聞いて十を知るの意味が分からぬまま、たった今客席から立ち上がった常連客に気付く。


「高梨さん、もしかしてスポーツ新聞ですか?」

「ああ、そうそう」


 秋生は立ち上がった常連客を一歩も歩かせず、いつも店で愛読してるスポーツ新聞を届ける。

 今度はさっき遠山と喋っていた暑がりの佐川を見送ると、高齢客だけになった客席の空調温度をわずかに上げた。


「一を聞いて十を知るを無意識にやってるから、気が利く自覚がまったくないのよねえ……」

「あ、そういえば店長、今日はおそらく吉本さんが華道教室の帰りにいらっしゃいますよ」


 遠山が無自覚で気の利く秋生を眺めている内に、女性常連客のスケジュールまですでに把握してる秋生は花好きの女性常連客が必ず座る席の傍に花瓶を移動し始めた。


「秋生ちゃん! うちの後継者はやっぱり秋生ちゃんしかいないわ! 10年後に私が引退したらよろしく!」

「え?……店長、10年後の引退なんて早すぎですよ。店長は若いんだから、あと50年頑張ってください」

「あと50年頑張ったら、私は95歳よ。老後が楽しめなくなっちゃうじゃない」

「じゃあ息子さんのお嫁さんにお任せしてください。私はずっと従業員で十分です」

「息子の嫁…………ねえ秋生ちゃん、さっきうちの長男に会った?」


 秋生にぜひ将来店を継がせたい遠山は再び息子の嫁にも秋生を狙い、さり気なく秋生と息子の接触を確かめる。


「さっき玄関でお会いしましたよ」

「本当? 喋ったの?」

「はい、挨拶しましたけど」

「あとは?」

「いえ、特には」

「あ、そう…………ねえ秋生ちゃん、うちの長男に会った時はいっぱい喋りかけてあげて。あの子はシャイで女の子が苦手だから、私も心配なのよ。きっと優しい秋生ちゃんと喋れたら、あの子もシャイ克服できると思うの」

「……はあ、でも何を話していいのか」

「秋生ちゃんなら大丈夫! うちのお客様とは誰とでも気さくにお喋りできるじゃない。どんな年代の男性でもまったく物怖じしないんだから、うちの息子なんて可愛いものよ」

「わかりました、じゃあ今度会った時お喋りしてみます」

「……でもよく考えれば秋生ちゃんって意外よね。性格は基本控えめだから、男性は苦手そうなのに」


 遠山から息子とのお喋りを強引に勧められた後、今度は男性に物怖じしない性格を不思議がられ、秋生自身も首を傾げる。


「……そういえば私、中学までは男子が苦手でした」

「克服したの? どうやって」

「さあ……いつの間にか」

「……秋生ちゃん、もしかして恋人いる?」

「いえ」

「そう! でも大丈夫、良縁なんてすぐ近くにあるものよ!」


 恋人の存在を疑われた秋生が否定すると、遠山はあからさまに安心する。

 秋生は遠山を知らぬうちに期待させたまま再び接客に励み始めた。




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