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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
第三章 変  移
32/119

赤い帰り道




「うーん……」


 昼休憩中、オフィスのデスクで最近新規購入したらしいスマホに向かって苦悩する壮輔を目に留めた松田まつだ 幸史こうしは、わざわざ傍に近寄った。


「戸倉さん、どうしました?」

「……あ、松田さん」

「ちょっと戸倉さん、やめてくださいよ。俺のことは君付けでお願いします」

「いや、でも俺は入社したばかりですし……」

「確かに俺は戸倉さんより2年早く入社しましたけど、戸倉さんより3歳年下です。そんな俺には敬語も必要ありません。どうか気軽に接してください」


 先月中途採用され無事就職した壮輔は中小企業の営業部で働き始めたが、今日も2年先輩で3歳年下の松田から苦笑交じりで注意される。

 壮輔の世話役でもある同じ営業職の松田は卑屈になるわけではないが、自分より学歴がはるかに立派な壮輔から敬語で先輩扱いされる度、気恥ずかしい思いに駆られて仕方ない。


「じゃあ松田君」

「はい戸倉さん。それでどうしました? さっきスマホを見て悩んでたみたいですけど」

「いや、プライベートなことだから……」


 ようやく松田に対し気構えた口調を改めた壮輔は、さっき苦悩した表情で見つめたスマホをさりげなく隠す。

 松田は隣のデスクに腰を据え、壮輔と改めて向かい合った。


「戸倉さん、今は昼休憩中ですよ。仕事だけじゃなくプライベートの悩みだって、ぜひ気軽に世話役の俺に相談してください」

「松田君に……いや、でも」

「……戸倉さんって先月入社したばかりですっかり営業が板に付くほど怖れ知らずなのに、プライベート事では優柔不断なんですね」 


 松田は同じ中小企業に勤務してるのはもったいないほど有能な壮輔の初めて見せた躊躇い顔を、新鮮な気持ちで注視した。


「じゃあ無理して相談しなくてもいいですよ。俺の質問に答えてくれれば、俺は勝手に戸倉さんの悩みを当てますから」

「いや、でも……」

「戸倉さん、もしかして彼女できました?」

「……松田君、どうしてわかったの?」

「スマホを見て悩むってことは、誰かに連絡しようか迷ってるのかと思って。連絡するのを迷う相手は、付き合いたての彼女かなぁと」

「松田君ってすごいな。恋愛経験豊富なんだ」

「いえ、全然普通ですよ」

「俺はまったく駄目だ……メール1つできない」


 再びスマホを見つめた壮輔が今度は情けない表情を浮かべたので、松田はようやく首を傾げる。


「戸倉さん、どうして彼女にメールできないんですか?」

「……それは、やっぱり緊張して」

「え? 緊張? メールで?」

「ああ」

「……戸倉さん、もしかして初カノですか?」

「はつかの?…………ああ、初めての彼女か。そうだよ」


 松田に確認された言葉の意味に一瞬悩んだ壮輔は、理解した途端あっさり認めた。

 松田はそんな壮輔を改めてまじまじと見つめ、初めて驚かされる。


「そんな馬鹿な……」

「え?」

「立派な国立大出た戸倉さんがやっと初カノGETで、どうして高卒の俺が2人目の彼女とすでにマンネリ?」

「……松田君、彼女と学歴はまったく関係ないと思うけど」

「そんなわけないじゃないですか! 女はみんな頭の良い男が好きなんです。それか金」

「ふーん……あいにく俺は金持ってないよ」

「戸倉さんは頭良い上、見た目だって俺より全然恵まれてるじゃないですか」

「見た目? そう? 普通だと思うけど……」

「戸倉さんが普通だったら、俺はブサメンですよ…………自分に無頓着な戸倉さんって、マジで恋愛には縁遠かったんですね。学生の時とか彼女欲しくならなかったんですか?」

「彼女…………そんなこと考えたことなかったな。バイトばかりしてたし、そもそも好きな人もいなかったから」


 とうとう松田からずっと恋人がいなかった根本的理由を尋ねられた壮輔は若干上を見上げながら、学生時代の自分を振り返る。

 今まではいつも忙しい身の上のせいだと勝手に思い込んでいたが、恋愛自体に興味がなかった自分が今更ながら浮上した。


「告白されたことはあったんでしょ?」

「……まあ」

「何回?」

「そんなの覚えてないよ」

「え!? てことは覚えてないほど、今まで女の子からいっぱい告白されたってこと? すげえ……」


 壮輔は松田に感嘆されても特に否定しなかったせいで、自ずと認めてしまった。


「……でも戸倉さんがモテるの、男の俺もわかるかも」

「え? どうして?」

「頭が良くて見た目も上々だから普通にモテるとは思うけど、何ていうのかなぁ…………戸倉さんって掴みどころがないんですよね。ほら、女って謎のある男にも弱いじゃないですか」

「謎…………俺はこのまんまだよ。何も隠してる覚えがない」


 自分がミステリアスな男だと一度も勘違いしたことない壮輔にとって、松田に不思議がられても逆におかしいだけだった。


「松田君って面白いね」

「いや、俺は全然普通ですって。戸倉さんがおかしいんですよ。女の子にいっぱい告白されたなら、見た目可愛い子と付き合っちゃえばいいのに」

「……好きじゃないのに?」

「はい。とりあえず可愛い子と付き合ってから、好きになればいいんですよ」

「松田君、それはおかしいよ。順番が逆だ」

「順番なんて気にしてるから、戸倉さんはずっと彼女ができなかったんですよ」

「……そっか、じゃあ俺は彼女に会えなかったら、一生彼女がいないってことか。まあ当たり前だけど」


 松田に呆れられながら今まで彼女がいなかった理由を教えられ、壮輔自身も改めて深く納得する。


「は?……戸倉さん、今何て言いました?」

「え?」

「彼女に会えなかったら一生彼女なしが当たり前?」

「……うん、確かにそう言ったけど」

「そんなわけないじゃないですか! 戸倉さんは男ですよ!?」

「……うん、確かに俺は男だけど」

「だったら一生初カノだけで満足できるわけありませんって! そのうち必ずマンネリになって、新しい彼女が欲しくなりますよ!」

「ならないよ。俺は一生彼女だけ」

「……戸倉さん、自信満々なその根拠は?」

「彼女だから」


 付き合った女性にはいずれ飽きが来る松田の男としての正論をきっぱり否定した壮輔は、再びスマホを見つめる。


「……昨日、彼女はようやく恋人になってくれたんだ。どうしても彼女の写真が欲しくて、つい先走りしてスマホも買ってしまったけど、彼女は昨日恋人になった記念にちゃんと写真を撮らせてくれた」

「戸倉さんの心を一生GETした彼女…………戸倉さん、俺にも彼女さんの写真見せてください」

「うん、いいよ」


 彼女と恋人になれた昨日を振り返り松田相手につい惚けてしまった壮輔は、松田が彼女に興味を持つと照れながらもスマホの写真を見せる。


「……笑顔が可愛いですね」

「そうなんだ、彼女は笑顔が一番可愛い。でも困った顔もぼんやりした顔もすごく可愛いんだよ。あ、わざと怒った顔も」

「そうですか……」

「はあ……もっと彼女の写真が欲しいなぁ」


 まだたった1枚しかない彼女の照れた笑顔写真を切なく見つめながら不満を零す壮輔は、恋する男そのものだった。

 松田は正直彼女の笑顔しか褒められなかったが、普段掴みどころがない謎多し壮輔の初めて人間臭い幸せそうな姿を眺め、自然と笑顔を滲ませた。






「じゃあまさる君、陽大をよろしくね」

「はい! 僕に任せてください」


 土曜日の今日から珈琲店で働くことになった秋生は、一緒に連れてきた陽大を店主の三男に任せる。

 陽大より2歳年上の勝はしっかりした挨拶で引き受けてくれた。


「勝、まず陽大君にお家の中を案内してあげてね」

「お母さん、狭い家のどこを案内しろっていうんだよ。押し入れ? 物置? トイレ?」

「いいから家の隅々まで案内しな! 陽大君、勝はお喋りでうるさいけど、優しいお兄ちゃんだからいっぱい頼ってね」

「はい」


 今日姉の新たな仕事場に連れてこられた陽大は特に動揺した様子を見せることなく、店主の親切な言葉に返事する。


「じゃあ陽大君、家行こ」


 勝に連れられ店を出た陽大は、店の裏にある店主の自宅へ向かった。

 店の中で子供2人を見送った秋生と店主は共に顔を見合わせ、とりあえず安心し合う。


「陽大君、この店も勝も嫌そうではなかったわね」

「嫌だなんて…………ただ戸惑ってなかったので、とりあえず大丈夫だと思います。店長、今日から陽大共々よろしくお願いします」


 秋生は今日から姉弟で世話になる珈琲店店主の遠山に改めて頭を下げ挨拶する。

 明るい返事で受け入れた遠山はさっそく秋生にエプロンを差し出した。


「……ありがとうございます」

「秋生ちゃん、もしかして私がこの前準備したって言ったフリル付き白エプロンを渡されると思ってた?」

「はあ……」

「やっぱりあれはやめたの。秋生ちゃんにはこの優しい色が絶対似合うと思ったから」

「……十分可愛いから、私に合うかどうか」


 秋生はフリルレース付き白エプロンを免れて内心ホッとしたものの、シンプルな形の淡いピンクエプロンを自信なげに受け取った。


「秋生ちゃん、今までお洒落したことないでしょ? いつも動きやすいジーンズに、汚れても目立たない色のシャツばかり」

「はあ……」

「だったらエプロンくらいお洒落しなさいな。ほら、すごく可愛い」


 わざわざエプロンを着けてくれた遠山から自信のある笑顔で褒められた秋生は、淡いピンクの可愛いエプロン姿で恥ずかしげに俯いた。




「勝、誰その子」

「陽大君だよ。今日から休みの日はうちで遊ぶ子。お母さんが昨日から言ってたじゃん」

「知らね。誰?」

「だから陽大君だって! バカひかる!」


 珈琲店店主の三男である勝は陽大を自宅へ連れてきたが、茶の間でテレビを観ていた次男で中学生の光から二度もいい加減に尋ねられ、今日も兄に怒った。


「光、陽大君は今日から店で働いてくれる女性の弟さんだよ」


 いい加減な性格の次男に詳しく説明したのは、長男のすぐるだった。

 大学生で穏やかな性格の優は陽大に優しい目を向ける。


「陽大君、よろしくね。僕は優です。困ったことがあれば僕でもこの光でもいいから、遠慮なく頼って」

「はい」

「……あれ? 陽大君ってよく見れば可愛い顔してるね! もしかしてお姉ちゃんも可愛い?」

「うるせえ光! そういうことだけ食いついてくんな!」


 ようやく興味ない陽大の顔を確認した光は突然陽大の姉に興味を示し、弟の勝からさっそく蹴りを入れられる。


「いでえ! 勝! 今どこ蹴りやがった!?」

「光の股間」

「くそ、足だけ素早くなりやがって…………ねえ優、俺達も店覗きに行こうよ」

「え?」

「俺達も今日から店で働いてくれるお姉さんにちゃんと挨拶しなきゃ、鬼ババに怒られるじゃん」

「俺はいいよ」

「なに奥手になってんだよ。ほら、早く行くぞ」


 光はさっそく兄の優を付き合わせ、母親が雇った従業員女性の見学にはりきり始める。

 優を無理やり連れ茶の間から抜け出そうとすると、茶の間の入り口に陽大が立ち塞がった。


「秋ちゃんに近付かないで」

「……は?」

「そうだそうだ! 害虫光は茶の間で大人しくしてろ! 陽大君、俺の部屋行こ」

「うん」


 陽大から従業員女性の見学を妨害された光は弟の勝からも害虫扱いされ、茶の間にしっかり閉じ込められた。






 姉弟は赤い夕日で染まる帰り道を歩く。


「陽大、今日は一緒に行ってくれてありがとう」


 珈琲店の初仕事を終えた秋生は、同じく初めて店主の家で過ごした陽大に感謝を伝えた。

 陽大は隣の秋生を見上げる。


「明日も行く?」

「……うん」

「次の土曜日と日曜日も?」

「うん、休みはずっと」

「いいよ。もう卓君と遊べないから、勝君と遊ぶ」


 弟に尋ねられ若干緊張しながら答え、最後は思いもよらず弟に安心させられた。


「光」


 陽大は姉を見上げることをやめ、今日勝以外に覚えた名前を呟く。


「誰?」

「今日勝君と一緒にやっつけた」

「へえ、どんなゲーム?」

「害虫をやっつける」

「ふーん……ヒカルは害虫か。カッコいい名前なのにね」

「優」

「スグル? スグルも害虫?」

「わかんない」

「今日はゲームだけやったの?」

「トランプとオセロもやった。庭で木登りして、いっぱい競争した。勝君は足が速かったよ」

「庭でサッカーはしなかった? 店長さんが勝君はサッカーも好きだって言ってたよ」

「よーいどん」


 今日勝といっぱい走った陽大は突然赤い夕日に向かって走り出した。

 弟を突然走らせてしまった秋生は心の中で反省しながら赤い帰り道を歩いた。

 



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