アパートを捨てた日
「卓君は俺よりサッカーが好き」
「え?」
「だから俺と遊ばないで、サッカークラブ入るんでしょ?」
午後の公園で陽大が向かい合ったのは一番仲良しの友達で、サッカーが好きな卓巳だった。
卓巳は休日陽大と遊んでいたが、これからはサッカークラブに所属するので遊べないと残念がった末、向かい合う陽大から静かな口調で責められた。
「陽君、そうなんだ。俺はサッカー好きだから、サッカーの次に好きな陽君と遊ぶのは諦める」
「卓君、普通こういう時は遊べなくなってごめんねって謝るだけでいいんだよ」
「そうなの? ふーん…………陽君、遊べなくなってごめんね」
とても素直な性格の卓巳は陽大の責め言葉を正直に認めたせいで、陽大から逆に窘められる。
「俺、今度から1人で公園か」
「陽君もサッカークラブ入ればいいじゃん。そしたら俺達また一緒だよ」
「俺は1人で公園の方がいい」
「サッカーしたくないの?」
「今はしたくない」
「サッカー嫌いになったの?」
「今は好きじゃないだけ」
「ふーん? 陽君はよくわかんない。俺はサッカーずっと好き。陽君もずっと3番目に好きだよ」
「……俺3番? 卓君、さっき俺のことサッカーの次に好きって言ったよね?」
「うん、そうだよ。俺はサッカーが2番目に好きだから」
「じゃあ卓君の1番は?」
「俺が1番大好きなのはもちろん………………あ! 秋ちゃんだ!」
友達の卓巳からサッカーの次に好まれた陽大は、卓巳の1番を教えられる前に向かいから去られる。
気が付けば卓巳は公園の外で陽大の姉に飛びついていた。
「秋ちゃん!」
壮輔のアパートから帰宅途中に公園を通り掛かった秋生は、公園内から勢いよく走ってきた弟の友達に満面の笑顔で飛びつかれる。
「おっと…………こんにちは卓君」
どうにかしっかり受け止めた卓巳に挨拶すると、公園内で佇む弟の陽大も見つけた。
「卓君、今日も陽大と遊んでくれてありがとう」
「ねえ秋ちゃん、どっか行ってたの?」
「うん、少しね」
「仕事?」
「ううん、用事」
陽大とは小学校入学時から一番仲の良い卓巳は、同時にこうやって秋生にも懐いてくれている。
すでに陽大はお腹に抱きついてはくれなくなったが、素直に好意を表してくれる卓巳は秋生のお腹にしがみついたまま嬉しそうに話し掛けてくれた。
「秋ちゃん、俺今度からサッカークラブ入るんだよ」
「そうなんだ。じゃあ卓君は大好きなサッカーいっぱい練習できるんだね」
「うん、だから陽君と公園で遊べなくなった」
「そっか……」
「でも俺、秋ちゃんに会いに行く。サッカークラブは4時までだから。秋ちゃん、いつもみたいに休みの日、俺のこと家で待ってて」
「……卓君ごめんね。秋ちゃんもこれから休みの日、忙しくなるんだ。6時半まで帰れないの」
「秋ちゃん、仕事?」
「うん」
「わかった。じゃあ俺、お昼前に会いに行く」
「……卓君ごめんね。秋ちゃん朝から仕事なんだ」
卓巳に休日は会えなくなることを済まない思いで教えた秋生は、案の定大きなショックを与えてしまう。
「卓君、ごめんね」
「……秋ちゃん大丈夫。俺、今度会える時までサッカー頑張るから。秋ちゃんも仕事頑張って」
「ありがとう卓君」
「俺ブランコやる! 秋ちゃんバイバイ!」
素直な卓巳が最後無理やり笑って秋生から離れた。
秋生は公園のブランコめがけて走っていく卓巳を目で追い掛けた。
そのまま背を向けブランコを漕ぎ始めた卓巳を見守った後、今だ公園の真ん中で佇んでいる陽大に視線を向ける。
「陽大、私は先に帰るから卓君よろしくね」
「うん」
卓巳を悲しませた秋生の代りに、陽大はブランコへ近付く。
陽大と卓巳が共にブランコを漕ぎ始めると、秋生はすぐ隣にある自宅へ帰り始めた。
「卓君ってよくわかんない。何で泣くのは我慢するの?」
卓巳と一緒にブランコを漕ぐ陽大は、今とても悲しそうなのに絶対泣かない卓巳の横顔を不思議に思う。
「陽君いいんだ。俺は泣きたくない」
「何で?」
「秋ちゃんは仕事頑張るから」
「だから?」
「俺が泣くと、秋ちゃんは悲しくなる。秋ちゃんは仕事頑張るから、悲しくさせたくない」
「……やっぱ卓君はよくわかんない」
卓巳の気持ちがよくわかった陽大は、なぜかわからないフリをする。
姉の為にとても悲しい卓巳の横顔もなぜか見ないフリして、ブランコを一生懸命漕ぎ始めた。
「ナス5個、ピーマン8個、きゅうり10本、トマト7個。さあ陽大、全部合わせると何個だ」
「5+8+10+7=30」
「え? そうなの? ちょっと待って」
父親が作った大量の夏野菜をテーブルに並べた真由は陽大に夏野菜の合計数をあっさり答えられ、慌ててスマホを取り出した。
「陽大ビンゴ! 凄いじゃん」
「俺は小2だから掛け算も出来るよ。ねえ、真由ちゃんは大学生なのに足し算できないの?」
「え? 足し算くらい出来るよ」
「今スマホで計算してた」
「陽大、そういうこと。人は大人になれば足し算なんて出来なくたっていいんだよ。スマホがあるから」
「俺は大人になっても足し算くらい自分で計算する。真由ちゃんも頑張ったら?」
「ほら陽大、特別に真由ちゃんのスマホいじらせてあげる」
「俺はいい。スマホ興味ない」
真由は最近世間に普及したスマホをさっそく購入したが、考えの合わない陽大からは袖にされる。
仕方なく陽大は諦め、秋生にスマホを手渡した。
「真由、私もおじさんの野菜だけでいいよ。今日もありがとう」
「秋生、流行り嫌いの私が何であっさりスマホ持ち出したか、わかる?」
「さあ」
「あんたに見せびらかすためだよ。じゃなきゃあんたは一生ガラケーだからね」
「……ガラケー?」
「あんたが5年使ってる携帯電話のことだよ」
「へえ、そうなんだ」
「じゃあスマホは何の略?」
「……スマホはスマホでしょ?」
「陽大、無知な姉ちゃんに教えてあげな」
「スマートフォン」
秋生は最近の携帯電話知識より夏野菜に興味があるのだが、陽大から正式名称を教えられたスマホを初めてよく見つめた。
そういえば真由と同じく最近スマホを持ち始めた壮輔から、この前写真を撮られたことを思い出す。
「ねえ、真由のスマホも写真撮れるの?」
「写真? もちろん撮れるよ。秋生、ガラケーなのによくスマホで写真撮れるって知ってたね。すごい!」
「真由ちゃんは秋ちゃんを馬鹿にしすぎだと思う。秋ちゃんのガラケーだって写真撮れるよ」
「冗談冗談。じゃあ陽大、真由ちゃんが写真撮ってあげる。姉ちゃんとくっつきな」
「俺、写真嫌い」
さっそくスマホで写真撮影を張りきろうとする真由を拒否した陽大は、テーブルにあるトマトを掴む。
窓から狭いベランダに出ると、座りながらトマトを食べ始めた。
「トマト食べながら夜のベランダで黄昏てる…………あの子はもう大人みたいだね。去年はただの子供だったのに」
今日買ったばかりのスマホを既に面倒くさげにバックへ仕舞った真由は、ベランダの陽大を眺め始める。
秋生は真似せずテーブルの夏野菜を眺めた。
「真由、ごめんね」
「ん? 何が?」
「私も陽大も、おじさんの野菜しか喜べなくて」
昨日の夕方会った真由が今夜も秋生の家に来てくれたのは、父親の夏野菜と一緒にスマホを姉弟に見せるためだ。
真由の気持ちをわかってる秋生は、真由が興味のないスマホを購入したのも姉弟を喜ばせる為であることも自然と気付いた。
「私は今日親父の野菜を喜ばれただけで儲けもんだよ。あんた達を10回喜ばせて1回成功すれば、十分嬉しい」
「私は真由だけでいいよ。真由が会いに来てくれるだけで嬉しい」
「やめてよ。そんなこと言われたら私は大学寮に帰れなくなる」
大学の夏休みに入り帰省中の真由は夜しょっちゅう秋生の家に来続けたが、あとわずかで再び大学に戻る。
秋生はひと月しょっちゅう会いに来てくれた真由にただ喜び、真由はあとわずかでしょっちゅう会いに行けなくなる秋生を嫌がった。
「そうだ。私が大学卒業したら、3人でいい所住もうか」
「いい所?」
「マンション借りよう」
大学卒業後は地元の幼稚園に就職することを決めている真由から突拍子もない誘いを掛けられ、秋生は苦笑した。
「まだ若い私達じゃ、マンションの家賃は払えないよ」
「じゃあ妥協して綺麗なアパート。私が家賃も生活費も払うから、秋生は食費切り詰めて。ほら、秋生は貧乏料理得意じゃん。親父の野菜もあるし、けっこう頭いい陽大は大学行けるよ」
「ふふ、真由は頼りがいがあるお父さんみたいだね。でも私と陽大はこのアパートで大丈夫だよ。家賃は安いのに部屋が2つもあるし、快適」
「家賃払ってボロ部屋住むなら、ずっと私の部屋で暮らしてりゃよかったんだ」
「真由、ありがとう」
久しぶりに真由に怒られた秋生は今日も笑って感謝し、再び1年前を思い出した。
秋生は1年前、生まれた時からずっと暮らしたアパートを捨てた。
理由は当時恋人だった柊永を同じく捨てるためだった。
1年半前に起きた弟の事故により壮輔を受け入れた秋生は、その代り恋人だった柊永を捨てなければいけなかった。
1年前、弟の知らない壮輔を、そして柊永の知らない壮輔を、秋生はただ1人静かに受け入れた。
あの事故により壮輔に怪我の後遺症を残させてしまったからではない。
ただ最後は秋生の中に残り続けた過去の小さな孤独が、壮輔の大きな孤独を放ってはおけなかったからだ。
最後まであの事故を知らなかった柊永は、秋生の中にいる壮輔だけを最後自ら見つけた。
秋生は柊永に追い詰められた夜、共に失くなることを望んだ彼から逃げなかった。
秋生が逃げなかったから、柊永は秋生を失くすことに初めて脅えた。
仕方なく共に生き続けることを望んだ柊永は、秋生にやはり脅えた。
秋生に突き放されないために脅え始めた。
秋生は脅える柊永を突き放した。
2週間、脅える柊永を突き放し続けた。
秋生は2週間の間に彼と暮らしたアパートを捨てる準備を済ませた。
彼に決して気付かれてはいけなかったから、アパートを捨てる当日もすべての物をそのまま残した。
たった1枚の置手紙と共に彼をアパートに1人残し、何も知らない陽大を連れ、静かにアパートを去った。
1年前、秋生は彼と暮らしたアパートを捨て、彼を捨てた。
当時も遠い大学の寮で暮らしていた真由には、柊永と別れる決断だけを前もって伝えておいた。
アパートを捨てた後、秋生と陽大はそのまま真由の家で居候させてもらい、新たな職が決まるまで真由の部屋で生活した。
1週間後どうにかアルバイトが決まると、真由の両親に頭を下げ新たに暮らすアパートの保証人になってもらえるよう頼んだ。
真由の両親は昔から秋生と陽大にとても良くしてくれたので渋ってくれたが、結局真由の家で10日間お世話になった末、新たに借りた家賃の低いアパートで姉弟2人の生活を始めた。
同時に秋生は10日経て、再び捨てたアパートに戻った。
すでに元恋人がいなくなった部屋をようやく綺麗に片付け、少しばかりの家具類はすでに連絡を済ませていた親切な大家がトラックで新たなアパートに移してくれた。
秋生はそれ以降捨てたアパートに近寄ることなく、陽大と一緒に1年暮らした今のアパートでこれからも暮らし続ける。
「真由、ありがとう」
「もうさっき聞いたよ。どうせあんたは私を振って、一生このボロ家で暮らすつもりなんでしょ」
「一生ではないけど…………そうじゃなくて、今のありがとうは仕事のこと」
共に暮らそうと誘ってくれた真由を確かに感謝で振ってしまった秋生が再び別の感謝をすると、テーブルに伏せ拗ねていた真由が勢いよく顔を上げた。
「秋生、やっぱ珈琲店で働くの?」
「うん、明日店長さんにお世話になりますってお願いしてくる」
「私も行くよ! 秋生おめでとう」
喜んだ真由に抱きつかれて祝福され、ただ大袈裟だと笑った秋生も心の中では素直に喜んだ。




