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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
第三章 変  移
30/119

秘 密




 秋生の秘密は1年半前に遡る。


 秋生の監督不行き届きが原因で、弟は車の追突事故に遭った。

 負傷したのは弟ではなく、弟を庇った見知らぬ青年だった。

 青年はただ偶然弟の隣で横断歩道の信号待ちをしていただけで、事故に巻き込まれた。


 そして青年に庇われた弟は事故そのものを覚えていない。

 正確に言えば、弟は車の追突事故に遭ったことすら知らなかった。

 青信号になったばかりの横断歩道を走った弟は、横断歩道の向かいにいる姉の秋生を見つめていたからだ。

 秋生だけを見つめた弟は信号無視の車が横断歩道を走る自分に向かったことも、結局青年に庇われたことも知らず、運ばれた病院で無傷のまま目覚めた。


 そして何も知らない弟に何も教えなかったのが秋生だった。

 弟の心を守るため―――それが当時弟に何も教えなかった秋生の言い訳だ。

 弟が知らないなら一生知らないままでいてほしかったのは、結局弟が無傷で済んだあの事故ではない。

 確かにあの事故で弟を庇い、おぞましい血を流した青年だった。


 弟が何も知らないと知った時の秋生は、弟の傍で大量の血を流した青年の状態を詳しく知らなかった。

 幸い生死にかかわらないが、それでも限りなく重症であることしか知らない。

 そんな秋生が何も知らない弟を目の前にして、怖気づいた。

 あの血を流した青年と同じく弟の心を傷つけることに怖れ、迷いなく逃げた。

 あの時の秋生は弟の心を守る以外はすべて失くした。

 大切な弟以外に無情となった秋生には、弟の代りに負傷した青年さえ非情にも失くした。

 あの時だけ弟の心を守るために青年の存在を失くした秋生は、その後青年への償いを始める。


 秋生の償いは2つだった。

 1つは自分の代りに弟を守り、自分のせいで負傷した壮輔への償い。

 そしてもう1つは弟の心を守るためにあの時失くした壮輔への償いだった。

 秋生にとって壮輔への2つの償いは大きな後悔と痛みが伴うものでしかなく、重傷を負った壮輔に謝罪してから見舞い始めた秋生にとってその2つとの戦いでもあった。


 秋生にとってどうしても捨ててはいけない戦いを取り上げたのは、秋生が償う当の壮輔だった。

 彼は秋生に戦うことを望まず、一緒に笑うことを望んだ。


 彼が笑うせいで、秋生は無理して笑い始めた。

 彼がいつも笑うので、秋生は笑うことに慣れ始めた。

 彼がずっと笑い続けたので、秋生は自然と笑い始めた。

 

 1年半前の事故後、秋生から後悔と痛みを取り上げてしまった彼は、同時に秋生に笑顔を取り戻させた。 


 




「戸倉さん、こんにちは」


 土曜日の正午過ぎ、いつものアパートを訪ねた秋生は、玄関ドアを開けてくれた壮輔に笑って挨拶する。


「いらっしゃい」

「ん?……何かありました?」

「え? 何で?」

「顔が慌ててるから」


 首を傾げる秋生から指摘された壮輔は、表情と同じく慌てて頬を押さえる。


「とりあえず入って」

「はい、お邪魔します」


 彼の慌てた理由を教えられず招き入れられ、いつもと変わらない彼の部屋に自然と安堵した。


「ん?……何か違う」

「え? 何が?」

「クンクン」


 壮輔の部屋に違和感を覚えた秋生が突然鼻を鳴らす。

 キッチンに向かってふらりと歩み寄ると、壮輔に慌てて立ち塞がれた。


「見ないで」

「どうして?」

「いいから、もう座って」

「わかりました………………えい!」

「あ!」


 壮輔に止められた秋生が諦めたフリをして、鍋の蓋を開けてしまう。


「茶色いシチュー」

「だから見ないでって言ったのに……」


 今日壮輔が作ったシチューは失敗したらしい。

 さっき慌てて隠そうとしたらしいが結局秋生に匂いで気付かれ、今の壮輔はがっくりと肩を落とした。

 

「ふふ」

「……俺の茶色いシチューを笑ったな?」

「だって、私も同じだから」

「ん?」

「焦げ茶メロンパン」


 彼の失敗シチューに笑った秋生は、さっき家で作り焦がしたメロンパンを見せる。

 今度は壮輔が秋生の失敗メロンパンに笑った。

  



「いただきます」

「今日の昼食は斬新だね。シチューにメロンパン」

「しかもどっちも茶色い」

「もう言うなって」


 再び笑い合った2人は、失敗したシチューとメロンパンを今日の昼食にして食べ始めた。


「うん、今日のシチューはいつもより香ばしい感じ。戸倉さん、今日も美味しいですよ」

「……本当だ、意外に美味しい」

「ね?」


 壮輔が安心してくれた通り、今日の茶色いシチューはいつも彼が作ってくれる白いシチューに負けてはいない。


「うーん……でも美味しいじゃだめなんだ」

「え?」

「秋生ちゃんの美味しいは本当は普通で、すごく美味しいが本当の美味しいだから」

「……そんなことないですよ」

「あ! 今否定する前に間が空いた。じゃあやっぱり今日のシチューは普通か…………ガク」

「ねえねえ、じゃあ今度は戸倉さんが私のメロンパンを評価してみて」

「焦げ茶メロンパン…………よし」


 結局意外にも美味しかった失敗シチューが秋生の舌を満足させられなかった壮輔は、秋生から渡された失敗メロンパンに気をそらされ無事立ち直った。


「うん、この焦げ茶色の焼き目が香ばしさとカリカリ触感を生み出して、すごく美味しいよ。200点!」

「今日のメロンパンは200点か…………私がこの前作ったレーズンパンは1000点だったから、今一ってことですね」

「間違った! 今日も1000点!」

「ふふ」


 壮輔はいつも秋生が持ってくる手作りパンを毎回いっぱい褒めるせいで、秋生にからかわれる。

 今日も秋生と壮輔はシチューとパンの昼食を笑って食べ終えた。




「でも俺達はすごいね」

「何がですか?」

「毎週必ずシチューとパンを食べるのに、全然飽きない」


 秋生はシチュー皿を洗いながら感心した壮輔を隣で見つめ、今度は彼が洗い終えたシチュー皿を見つめる。


「戸倉さんはいつもシチューを作ってくれるから」

「俺がシチューを作ると、秋生ちゃんのパンが食べられるから」

「戸倉さんがカレーを作っても、私のパンを食べさせられますよ」

「……本当は俺がシチューじゃないと駄目なんだ」

「え?」

「1年前、秋生ちゃんが俺の作るシチューを望んでくれたから。願をかけたんだ。秋生ちゃんが俺も望んでくれるように」


 壮輔はこの1年間、秋生と一緒に昼食を食べる時は必ずシチューを作り続けた。

 理由は1年前壮輔に望まれた秋生が答えとして、それを望んだからだった。

 秋生は今彼に教えられたが、本当は最初からわかっていた。

 そして今彼に再び望まれもした秋生は答えずに彼の隣から離れる。

 壮輔は部屋に戻る秋生をすぐに追いかけた。


「秋生ちゃん、ごめん」

「違うんです…………戸倉さん、私は昨日から迷ってることがあります。でも今、迷ってる自分が悲しくなりました」


 部屋で佇んだ秋生は壮輔に背を向けながら、今の悲しみを告白した。

 壮輔は秋生の悲しい声に戸惑うことなく、静かに受け止め始めた。




「土日も仕事?」

「はい。友達が紹介してくれた仕事は、この町にある珈琲店の接客です」


 秋生と壮輔は再びテーブルで向かい合った。

 秋生は最初に昨日から迷ってる理由を詳しく伝え始める。


「その店の定休日は水曜日なので、陽大を理由に断ったんです。でも店長さんには陽大と年が近い息子さんがいて、店の裏にある店長さんの自宅で一緒に遊べばいいと言ってくれたんです」

「つまり秋生ちゃんは陽大君の傍にいながら、土日も働けるってことだね」

「そうなんですけど…………まだ店長さんに返事してません」

「どうして? せっかく良い店長さんの下で働けるのに。俺はこの前まで秋生ちゃんが働いてたコンビニより、断然安心できるよ」


 秋生は先週まで働いていたコンビニを辞めた理由を壮輔に伝えてないが、自ずと気付いたらしい彼の口ぶりに心配させていたことを実感する。


「……私がその店で働くことを迷ってるのは、もう戸倉さんとこうして会えなくなるからです」

「…………」

「私はこの1年、土日のどっちかここにお邪魔して、戸倉さんと一緒にお昼ご飯を食べさせてもらいました。曜日を決めてしまうのも、ここにお邪魔すれば2時間で帰るのも、私の都合です。戸倉さんはずっと私の都合に合わせてくれました。1年間申し訳ない思いをさせてしまったのに、これからはここに来ることもできなくなるなんて、私は最初考えられませんでした。でも昨日店長さんに少しの間悩んでほしいと言われたんです…………私はそれから本当に悩んでみて、迷いが生まれてしまいました」

「……俺とはもう会わないか迷ってる?」

「いえ……一緒にお昼ご飯を食べることだけ諦めるか、迷ってます」

「じゃあもし秋生ちゃんがその店で働いても、俺とは会いたいってこと?」


 壮輔から核心を突かれた質問をされ、初めて答えずに黙った。

 けれど壮輔はわざと言葉を失くした秋生をそのまま見逃してくれなかった。


「……戸倉さん、私は怖いです」

「俺が?」

「変わってしまうのが」


 壮輔は怖くない、けれど変化を怖がった秋生の手は壮輔に触れられた。

 彼に触れられたのは二度目だった。

 1年前初めて触れられた秋生は、壮輔の手から離れなかった。

 彼の孤独を教えられたからだ。

 1年前の秋生は彼の手を離してはいけなかった。


 そして再び触れられた今の秋生も、壮輔の手から離れなかった。

 1年間彼に望まれ応えなかった秋生はただ変化だけを怖れ、彼を離したくはなかったからだ。



「変わりたいんだ」

「…………」

「俺は変わりたい。秋生ちゃんに迷いを捨ててほしい」

「……これからは会いに来ることができなくなります」

「うん、俺が会いに行く」

「……どこに?」

「秋生ちゃんが呼べば、どこにでも行く。会えればいいんだ。1分だっていい」

「1分…………本当に?」

「うん、毎日会えれば」

「…………」

「毎日会いたい。本当はもう週に一度なんて耐えられないんだ」


 秋生の手が離れなかった壮輔は、初めて秋生に望まれたとわかった。

 この1年間、週に一度だけ秋生が会いに来るのを待ち続けた彼は、初めて切ない声で秋生に不満をぶつけた。

 彼に愛しがられる目が秋生の怖れさえも溶かす。

 秋生は変化を怖れなくなった代わりに、最初彼に告白した悲しみを思い出した。


「……戸倉さん、私はさっき迷った自分が悲しくなりました」

「うん……どうして?」

「私がそもそも迷ったのは、戸倉さんに甘えてしまったからです…………いえ、戸倉さんを甘く見てしまったんです。本当はこれからも戸倉さんに会いに来るために、珈琲店で働くことをやめるつもりでした。でも私は戸倉さんだから迷ってしまったんです…………戸倉さんは私が会いに行けなくなっても、きっと許してくれるって。私の代りに会う努力をしてくれるって、心のどこかで傲慢になってしまったんです。さっき私はこんな情けなくなった自分に気付いて、悲しくなりました」


 秋生は1年前、壮輔に望まれた。

 この1年ずっと壮輔に望まれ続けた。

 そして1年経て、壮輔に望まれることが自然となっていた。

 秋生は1年前と違い、壮輔の努力を望むほど驕ってしまった自分を悲しむ。



「秋生ちゃん、いっぱい悲しんで開き直ってしまえ」

「……嫌です」

「じゃあいっぱい笑って開き直ってしまえ」

「……はい」


 壮輔の望みをわかってる秋生は悲しむことをもう諦める。

 彼の手に触れられながら、彼の望む笑顔を浮かべた。

 



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