終 末
秋生と壮輔の静かな始まりは、同時にもう1つの終わりを意味していた。
2人が店の前で再会した翌朝、秋生は柊永の友人――瀬名に電話をした。
柊永の家族と面識がない秋生には、瀬名にしか頼める相手がいなかった。
最後よろしくお願いしますと静かに伝えると、瀬名は短い返事で受け入れた。
見つめる先の陽大が、同じく秋生を見上げた。
弟に笑みを浮かべた秋生は、その小さな手を離さぬよう握りしめた。
目の前に続く道を見つめた姉弟はその日、今まで暮らしていたアパートに背を向け、静かに去った。
あの夜、柊永が秋生の心臓に手で触れたあの夜、秋生は静かに終わらせた。
柊永とのすべてを、ようやく彼を離すことで終わらせた。
自分の喉に触れた彼を、ただ目を閉じることで突き放した。
たとえこのまま彼の手に掛かっても、あの時の秋生はそれでも構わなかった。
彼が触れたあの時だけは陽大の姉ではなく、ただ1人の女でしかなかった。
言葉にはならなかった秋生と柊永の終わりは、秋生が壮輔の存在を否定しないことで終わらせた。
秋生にとって柊永との終わりは、決して突然のことではなかった。
あの事故により壮輔を自分の中に受け入れた時から、彼のこれからの苦境を共に背負う覚悟をした時から、柊永との終わりはやがてくるものだと悟った。
大切な弟を守るために吐いた嘘を柊永と共有しなかったのは、秋生の心が許さなかったからだ。
秋生の罪だけは、秋生自身が償わなければいけなかった。
壮輔に背負わせてしまった苦境を、これから共に支えると決めたのは秋生だ。
それをしなければ、秋生は自分自身が許せなかった。
柊永に知られることは、秋生の罪をすべて柊永に背負わせることを意味していた。
秋生の苦しみを取り上げ、彼が代わりに償うことをわかっていた。
壮輔への罪の償いは、秋生だけじゃなければいけなかった。
弟を守るために吐いた嘘は同時に、柊永を秋生の罪から逃がすことでもあった。
そして近いうちにやってくる柊永との終わりを静かに受け入れた。
柊永がいつから秋生の中にいる壮輔の存在に気付いたのかはわからない。
どんなに秋生が押し隠し注意を払っても、柊永にとっては意味のないものだったのかもしれない。
そして秋生自身もそれをわかっていたから、そう遠くない日にやってくる柊永との終わりを覚悟するしかなかった。
たとえどんな理由であっても、秋生の中に柊永と壮輔、2人の存在が同時にいることを柊永は許さない。
それを認めるということは、秋生にとって2人の終わりでしかなかった。
秋生は柊永に罪を押し付け2人で生きていくよりも、2人の終わりを望んだ。
ようやく柊永を手離すことは、秋生にとって彼にできる唯一のことだった。
今まで柊永が自らを犠牲にして与え続けた秋生への愛に、唯一返すことができる秋生の愛だった。
先に進むことを怖れ今にしがみつき、この一時だけは柊永と共に生きたかった。
柊永を感じ、触れ、愛することが、秋生に残された時間の中で唯一の幸せだった。
あの夜、秋生は静かに終わらせた。
柊永は終わらなかった。終わることを知らなかった。
秋生に手を離され、去っていく秋生の手に追いすがり、脅えた。
終わりを受け入れず、突き放した秋生に脅えた。
たとえ秋生の中にいる男の存在に気付いても、それがたとえ2人一緒に滅びることになっても、最後まで互いが離れることなど彼には存在しなかった。
すでに終わった秋生と最後まで終わることを知らなかった柊永は、秋生と陽大がアパートから姿を消した日、ようやくすべてを終わらせた。
昨日まで続いた雨がようやく晴れ上がり、澄んだ空と爽やかな風が気持ちの良い日だった。
小学校の校庭では放課後、大勢の子供達が元気に遊び始めた。
校庭の右端では、まだ幼い数人の児童がサッカーボールを転がし遊んでいる。
傍にある鉄棒に手を掛けた陽大は、目の前で転がるボールの行方を目で追いかけた。
友達の蹴ったボールが偶然陽大の足元近くに転がった。
「陽君、こっち!」
気付いた友達が手を振り、陽大に合図を送った。
足元に落ちたボールを見る陽大は、友達の声に反応することはない。
ただじっと落ちているボールを見つめている。
諦めた友達がボールを拾いに陽大の傍へ近付いた。
「サッカーしないの?」
友達に尋ねられた陽大は首を横に振った。
「どうしてしないの?」
もう一度尋ねられたが、今度は首も振らなかった。
そんな陽大を不思議そうに見つめた友達は、ようやく駆けて行く。
陽大は友達の手にあるサッカーボールをただじっと目で追いかけた。
サッカーはしない。
サッカーなんてしたくない。
サッカーなど何も楽しくない。
だからあのボールにも触りたくなかった。
背後から陽大を呼ぶ声が聞こえた。
すぐにわかった。
あれは彼の声だ。
やはり振り向いた背後に陽大の大好きな彼の姿があった。
会いに来てくれた!やっと、やっと会いに来てくれた!
わかっていた。
彼は絶対会いに来てくれる。
待っていれば、彼が会いに来てくれることをちゃんと知っていた。
思いきり駆け出し、校庭の外で待ってる彼に飛びついた。
彼のお腹を抱きしめるのは陽大だけの特別だ。
嬉しいのに、すごくすごく嬉しいのに、涙がぽろぽろ零れ落ち止まらない。
彼はそんな陽大を見下ろしながら、いつものように頭を撫でてくれた。
陽大の大好きな彼の大きい手だ。
いつまでも泣いてると彼が笑ったので、陽大も泣きながら笑った。
彼のお腹から離れたくなくてギュッと抱きしめると、彼は陽大を持ち上げ腕に抱えた。
目の前にいる彼がいつものように笑っていた。
大好きな彼だ。
陽大がずっと待っていた彼だ。もうずっとずっと一緒だ。
喋りたいことがいっぱいある。
彼の首に手を回し、陽大の口は止まらない。
彼はずっと優しく頷いてくれた。
陽大の大好きな彼だ。
彼がいれば何も怖くない、いつだって元気になれる。
彼が笑ってくれれば、すごく嬉しいんだ。
陽大の特別で、憧れで、大好きな彼だ。
サッカーをしないのかと聞かれて、しないと答えた。
サッカーなどどうでもいい。
全然楽しくない。
大好きな彼が陽大の特別だ。
でも彼に見せてくれと言われて、少しだけ嬉しくなった。
「ここで見ててくれる?」
何度も聞くと、彼は笑って頷いた。
彼が見ててくれるなら、サッカーをしてもいい。
彼の腕から降り校庭へ駆け出した陽大は、途中で振り返り彼に手を振った。
ちゃんと見てて、そこにいて。
彼も手を振り返したので、もう一度走り出し友達の追うボールを一緒に追い掛けた。
陽大の好きなサッカーだ。
彼がいれば、大好きなサッカーだ。
これからはずっと一緒だ。
彼が教えてくれたサッカーは、陽大の宝物だ。




