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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
第二章 始まりと終わり
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静かな始まり




 休憩室のドアを開けると、すでにそこにいたパート店員の吉田が椅子から立ち上がった。


「水本さん、辞めるって?」


 心配げな表情を浮かべる吉田に確認された秋生は、頷いて肯定した。


「さっき店長に聞いたんだけど…………何かあったの?」

「ご迷惑かけてすみません。急な事情ができて、居られなくなったんです」

「せっかく正社員になれたのに、もったいないよ。ねえ、どうしても辞めなきゃいけないの?」


 秋生は残念がる吉田に引き止められても、ただ寂しげに笑った。


「……もしかして、遠くに行くとか?」

「いえ、遠くではないですけど。弟も小学校に通ってますし」

「水本さん、まだ若いのにしっかりしてるから、期待されてたんだよ。店長もがっかりしてた」

「……吉田さん、今まで本当にお世話になりました」


 秋生が吉田に頭を下げ感謝すると同時に、休憩室のドアが勢いよく開いた。


「水本さん、お客さん」

「……私にですか?」


 休憩室をのぞき込んだパート店員に教えられた秋生は突然の来客に思い当たる人物が浮かばず、やや戸惑いながら確認した。


「うん、確かに水本さんのお客さん。水本さんはもう上がりましたって言ったら帰ろうとしたんだけど、私が勝手に引き止めちゃったんだ。よかった?」

「はい、大丈夫です」

「店の前にいるから、すぐわかると思うよ」


 パート店員は早口で伝えると店に戻り、秋生もすぐに休憩室から離れた。





 遠目に彼の姿を見つめた秋生は、思いのほか穏やかな自分でいられたことに安堵した。

 ゆっくり近付いた秋生の姿に気付いた壮輔は、いつものように優しい眼差しを向けた。

 秋生と壮輔は店の前で静かに向かい合った。


「……こんにちは、戸倉さん」


 最初に挨拶したのは秋生だった。

 わずかに固さを含む声はそれでも落ち着いていて、動揺の気配はない。


「こんにちは、水本さん」


 笑みを浮かべた壮輔も秋生を前にして何も変わらなかった。


 

 2人は店の隅にあるベンチまで移動すると、並んで腰を下ろした。

 以前よりも距離がある2人の間に流れる空気は、以前と変わらず穏やかなものだった。


「久しぶり」


 壮輔はまるで懐かしむように目を細め、隣りの秋生を見つめた。

 およそ2週間ぶりの再会だった。


「変わりはなかった?」

「はい」


 秋生も壮輔の問いに答えると共に視線を向ける。


「戸倉さんは?」

「……うん」


 秋生から視線を離した壮輔は、ゆっくりと空を仰いだ。


「俺は、ただ水本さんに会いたかったよ」


 秋生に聞かせるわけでもない壮輔の呟きは、そのまま空へと消えていった。


 

 あの日、壮輔の孤独に触れたあの日から、秋生は彼のアパートを訪問することはなかった。

 次の日、壮輔の携帯電話にメールを送り、しばらく会わないことを伝えた。

 壮輔からの返信はなかった。

 それでも秋生は壮輔が待ってることをわかっていた。

 そして壮輔も、おそらくそれを知っていた。


 

「……俺は我慢がきかないな」


 壮輔はいまだ空を仰いだまま、大きく息を吐いた。


「君の顔が見たくて、自分から会いにきてしまった」


 ようやく振り向いた壮輔は困ったように秋生を見つめた。

 そして秋生も、そんな壮輔を静かに見つめ返した。


「……1人でも平気だったんだ」


 ぽつりと呟かれた彼の言葉は、おそらく秋生に対してのものではない。

 過去の彼が、過ぎてしまった自分に語りかけた。


「それでも俺は、水本さんに会ってしまった」


 もう戻ることはできないと、壮輔の目は言った。

 その目には以前見つけることがなかった壮輔の孤独が存在していた。

 今の秋生にはそれがわかった。


 そして1人という彼の孤独に、寂しさに、確かに救いの手を差し伸べたのは秋生だった。


 秋生は知っていたのかもしれない。

 初めて病室で壮輔と会ったあの時から、壮輔の目を見たあの瞬間から、何も存在しない彼の目に、すでに彼の孤独を知っていたのかもしれない。


 彼の手を振りきれなかったのは、その痛みを、悲しみを、誰よりも秋生自身が知っていたからだ。

 秋生の心が拒否したからだ。



「……戸倉さん」


 秋生の静かな呼びかけに、壮輔はただ頷いた。


「今度、戸倉さんのシチューを食べさせてくれますか?」


 壮輔に問う秋生の顔に、いつもの笑顔はまだ見つけられない。

 けれどそう遠くない日、秋生は彼に笑うだろう。


「もちろん」


 彼の微かに切なさを交じえた笑顔が今の秋生を優しく見守り、包んだ。



 大切なものを守るために吐いた小さな嘘はやがて大きな罪となり、秋生を苦しめた。


 けれど秋生の罪はやがて壮輔を救うことになる。

 あの嘘がなければ、秋生と壮輔は今こうしてはいないだろう。


 遠い昔、秋生が持っていた孤独を彼に見つけたあの日から、逃げることをやめてしまった。

 彼の手を離さないことは、遠い昔の自分を救うことでもあった。


 壮輔に対する感情がどこから来るものなのか、秋生の心はすでに知っていた。

 秋生と壮輔を繋ぐ罪と責任は秋生が逃げることをやめた時、別な形となり生まれ出た。

 

 秋生と壮輔の静かな始まりだった。


  

 

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