崩 落
「もしかして電話じゃない?」
レジで仕事をしていた秋生は、偶然傍を通り掛かったパート店員の吉田に教えられる。
慌ててエプロンに入れた携帯電話を探すと、確かに着信音を鳴らしていた。
すぐに着信表示も確認するが、秋生の知らない携帯番号だった。
「裏で出てきたら? 水本さん、もう休憩でしょ?」
気を利かせてレジを変わってくれた吉田に礼を言い、足早にその場を離れた。
バックヤードに入った秋生は知らない番号に躊躇いながらも通話ボタンを押した。
「……はい」
わずかに戸惑いを含んだ声で応えると、見えない相手の声を待った。
仕事場の近くにあるファミレスに到着した秋生はすぐ彼の後ろ姿に気付き、ゆっくりと客席に近付いた。
「こんにちは」
目の前に佇んだ秋生を見上げた瀬名は、軽く会釈した。
座ってと促され向かいの席に腰を下ろした秋生は、瀬名と向き合う。
「急に呼び出してごめんね」
「ううん、大丈夫」
申し訳なげに謝る瀬名に首を振ると、次の言葉を待つため彼を見つめた。
電話の相手――――瀬名に呼び出された秋生は、休憩時間の今ファミレスで彼と待ち合わせた。
以前秋生が働く店で会って以来、およそ半年ぶりの再会だった。
柊永の友人である彼は今日も優しい笑みを浮かべ、向かいの秋生を見つめた。
注文したコーヒーがすぐに運ばれると、瀬名は改めて話を切り出した。
「久しぶりだよね。半年近い?」
「うん、多分」
「水本さんは相変わらず?」
「変わってないよ……瀬名君、今日大学は?」
大学に通ってる瀬名は平日の今日、通常ならおそらくは授業があったはずだ。
「今日は午前中だけなんだ。もしかしたら水本さんの休憩時間に間に合うかと思って、電話してみた」
「ちょうど休憩に入る所だったから…………もしかして、何か用事でもあった?」
瀬名は柊永の友人だが、秋生と瀬名はそうではない。
用事がない限り、わざわざ2人で会う機会など作るはずもなかった。
瀬名は変わらず笑顔を浮かべコーヒーを一口飲むと、もう一度秋生に向き直った。
「水本さん、正直に答えて」
再び視線を合わせた瀬名の顔は笑ってなかった。
瀬名の表情は以前から彼の目だけにあった冷やかさを滲ませ、そしてわずかばかりの怒気が含まれていた。
「あの人は誰?」
低く問いかけられた瀬名の声に、秋生の身体は一瞬揺れた。
言葉の意味がわからなかったのではない。
すべてわかっていて、確かに動揺した。
表情だけ変わらない秋生は瀬名の言葉を否定しなかった。
そして確かに目の前の瀬名はそんな秋生の心を受け取った。
「……知ってた? このあいだ水本さんとあの人が一緒にいた時、俺も近くにいたんだよ。悪いけど、水本さんの跡付けさせてもらった」
わずかに目を細め怒りを露わにする瀬名は、決して秋生を逃がしてはくれなかった。
秋生の唇がわななくように震えた。
「俺にはどう見てもただの知り合いには思えなかったよ。一体どんな関係なの?」
問い詰める瀬名の言葉にも、凍りついたように固まった秋生の表情はそのままだった。
何も返すことはなかった。
何も言えない、それが瀬名に対する答えだった。
「……あいつを裏切ったの?」
再び秋生に問うた彼の声に、とうとう怒りの震えが混じっている。
秋生の心にも彼の怒りが伝わり、震えた。
裏切った、裏切り、柊永を裏切った。
「水本さん、気付いてたんじゃないの? あいつはね、あんたの傍にいるだけの為にあの高校に入ったんだよ。大学もそう。全部、全部、あいつはいつだってあんたの為だけなんだよ」
気付いていた。
ちゃんと知っていた。
知っていて、固く目を閉じていた。
見てしまったら、2人は終わってしまうから。
「もういい加減、手離してやってくれないか」
「眠れないの?」
じっと見つめる2つの瞳に優しく問いかける。
ううん、と小さい口が答えると、秋生の胸にすり寄った。
「大丈夫、眠るまでちゃんといるよ」
小さい耳に囁きながら、柔らかい背中をぽんぽんと叩く。
「おそいね」
小さい声の響きに微かな不安を見つける。
「すぐに帰ってくるよ」
「朝になったらいる?」
「うん、ちゃんといるよ」
大きく頷いた秋生は眠りに就くまで離れないよう、愛しい身体をぎゅっと抱きしめた。
睡魔に身を委ねていた秋生は、確かに自分の肌に添う感触のせいで重い瞼を開いた。
薄暗さの中、穏やかに眠る弟の顔が目の前にある。
自然と滲み出た安堵に再び身体を緩めた。
途端、秋生の心臓がギクリと大きく固まった。
重く冷たく響いた鼓動は一瞬で秋生の全身を凍りつかせた。
「柊永」
唇を震わせ押し出した秋生の声は驚くほど掠れていた。
背後にいる見えない存在は、今確かに秋生を脅えさせている。
「柊永」
見えない背後に再び呼びかける。
秋生の声はすでに掠れすぎて言葉にならない。
けれど確かに背後の耳には届いたはずだった。
秋生の首が大きく脈を打つのは、秋生の首筋を這うように撫でる背後の手のせいだ。
いつも温かい手が温度なく撫で上げ、止まることなく繰り返す。
力の感じない滑らかな動きは、確実に秋生の脈に痛みを与えてくる。
秋生は見えない背後に耐えきれず、怖ろしくも静かに振り返った。
流れ落ちた一筋の髪が影を作る彼の顔は、秋生を見下ろしている。
ピクリとも動かない彼の身体から伸びる手だけが、なだらかに動きを止めない。
秋生の首筋を撫で続けた彼の手がとうとう秋生の喉まで流れついた時、秋生は一瞬息を止めた。
瞬きすら許されない秋生が見上げた怖ろしく美しい彼の顔は、作り物のように熱がなく色がない。
すべての感情を失くしてしまった彼の目は、ただ秋生だけを鮮やかに映していた。
柊永
とうとう声を失くした秋生の目だけが彼に呼び掛ける。
「秋生」
動いたはずの彼の唇がそう見えなかったのは、彼の目と同じくわずかな感情すら見えない声のせいか。
彼の手にわずかな力が加わるたび怯えの悲鳴を上げる秋生の身体は、もはや感覚さえ凍りかけている。
秋生を撫でる彼の手がとうとう喉を過ぎ下へ落ちていくと、唯一動きを止めない秋生の心臓に止まった。
「ここに、誰がいる」
不気味なほど静かな彼の声に初めて侵食した狂気はじわじわと滲み湧き、彼のすべてを犯していく。
「誰がいる、秋生」
すべての感情を失くした彼の目もとうとう見えない相手への狂気に囚われ、ついに壊れ始めた。




