孤 独
商品の品出しをするため棚の前で腰を下ろしていると、突然視界に影が差した。
店員に尋ねる客に近付かれたと思い、そのまま立ち上がる。
横に立っていた客は秋生の知ってる顔だった。
「戸倉さん!」
「こんにちは、水本さん」
秋生は突然自分の働くドラックストアに現れ、いつもと変わらない人懐こい笑顔を浮かべた壮輔に驚く。
「びっくりした……どうしたんですか?」
「実は、水本さんの監視に来たんだ」
壮輔の言葉にキョトンと目を丸くすると、今度はおかしそうに笑われた。
「冗談、ほら」
彼が手に持っていた買い物袋を持ち上げて見せた。
「お買い物だったんですね。バスで?」
「いや、歩いて」
「え!?」
再び驚いた声を上げた秋生は、思わず壮輔の足を確認してしまった。
松葉杖姿の壮輔は特にいつもと変わった様子は見られない。
「歩きだと、かなり大変だったじゃないですか」
秋生がこの店から壮輔のアパートに通うのに、自転車を利用しておよそ15分かかる。
徒歩はもちろん、松葉杖の壮輔ならそれなりに時間が掛かったはずだ。
「家で暇してたから、突然思い立ってここに来てみたんだ。今日、水本さんが仕事でよかったよ」
そう言って壮輔はほっとした表情を浮かべ、彼を心配した秋生もようやく笑顔を浮かべる。
「戸倉さん、帰りは?」
「……うーん、本当は歩きと言いたいんだけど、荷物もあるしバスで帰るよ」
「そうしてください。私も一緒に帰ります」
壮輔は一緒に帰ると言う秋生に驚いたのか、戸惑った表情を浮かべた。
「いや、それじゃあ水本さんに悪いよ。それに仕事中だろ?」
「あと10分くらい待ってくれますか? 定時で上がれるんで」
「……大丈夫なの?」
「はい」
秋生が笑って頷くと、壮輔もようやく笑顔を戻した。
秋生は壮輔から荷物を預かり店から近いバス停留所で待つと、5分程でバスが到着した。
座席の1つにゆっくり腰を下ろした壮輔を見届けて、その前の席まで移動する。
「水本さん、隣空いてるよ」
窓際に寄った壮輔が自分の隣をぽんぽんと叩いた。
秋生はわずかに迷いを生じたが表情には出さず、すみませんと謝ってから壮輔の隣に座った。
バスが動き出すと、振動で互いの肩が微かに触れ合った。
「……今日は陽大君の迎えはいいの?」
「大丈夫ですよ。十分間に合いますから、心配しないでください」
秋生の時間を気にした壮輔に大きく頷き、すぐ安心してもらう。
今日は定時上がりなので、これから壮輔を送って小学校に直行すれば十分間に合うはずだ。
「戸倉さん、今日は何をしてました?」
到着まで暫しの時間、壮輔にいつもと同じ質問をすると、彼はわざわざ隣の秋生に向き直った。
「今日は水本さんに会いに行ったよ」
「……それだけですか?」
「うん、それだけだ」
秋生はいつもの笑顔で答えた壮輔にただ頷き返す。
壮輔が前に向き直ったので、秋生も彼の横顔から視線を離した。
2人はバスを降りた後、壮輔のアパートまで5分程の距離を歩いた。
彼の退院後こうして2人並んで外を歩くのも初めてだった。
途中わずかのあいだ松葉杖を外した壮輔の歩行は、退院前と比べてはるかに安定を見せていた。
「水本さん、入って」
壮輔の部屋へ促された秋生は今日も挨拶し足を踏み入れると、すぐ美味しそうな香りが鼻に届いた。
「……もしかして気付いた?」
「はい、シチューですね」
秋生に気付かれ照れた笑みを浮かべた壮輔は、そのままシンクに近付いた。
「さっき出掛ける前に、もう一度作ってみたんだ」
ガステーブルに置かれた鍋の蓋を開けた壮輔は、背後の秋生に振り返る。
秋生も壮輔の隣に並び鍋をのぞき込んでみると、まだほのかに温かそうなシチューがあった。
「すごく美味しそうですね」
「うん、今日は上手く出来たと思うよ」
秋生は満足そうに笑う壮輔に同じく笑い返すと、さっき預かっていた彼の買い物袋を持ち上げた。
「じゃあ、これは冷蔵庫に入れときますね。悪くなってしまうんで」
壮輔の許可を取り冷蔵庫の中を開け、買い物袋から取り出した食材を入れた。
「戸倉さん、今度私が来たら、またシチュー作ってくださいね」
秋生はそのまま玄関に戻り靴を履き直すと、もう一度壮輔に振り返った。
「……ええと、今度は明後日の約束でしたね。大丈夫ですか?」
「うん、今日はありがとう」
「いいえ、それじゃあもう帰りますね」
最後壮輔に次回の訪問日を確認すると、帰るため玄関のドアノブを回した。
「水本さん」
秋生は壮輔に呼び掛けられとっさに振り向こうとしたが、結局できなかった。
「戸倉さん」
いまだ壮輔に背中を向ける秋生は無意識に彼の名を呟く。
声にわずかな震えが交ったことに、秋生自身も気が付いた。
壮輔の手が、秋生の手に触れていた。
強く握り締められていた。
「帰らないでくれ」
背後から秋生の耳に届く壮輔の声は、彼のものではなかった。
秋生はこんな声を知らない。
身体がピクリとも動かないように、心臓も凍り付いた。
「お願いだ……一緒にいてくれないか」
今まで一度だって耳にしたことがなかった壮輔の声は、確かに秋生の心に訴えていた。
そして誰よりも、秋生自身がそれを知っている。
「ずっと、俺の傍にいてくれないか」
壮輔の声が再び秋生の心に訴える。
寂しい、
寂しい、
もう1人は嫌だ。
助けてくれ
秋生の心の奥深くまで訴える彼の孤独が、秋生を決して逃がしてくれないことを知っている。
彼と繋がった手を振りきれないほど、強く握られたわけじゃない。
振り切らなかったのは秋生だ。
繋がった手を離したのは壮輔だった。
静かに離された彼の手が、秋生の身体を解放した。
確かにすでに離されたはずなのに今だ秋生が動けないのは、ちゃんと知っているからだ。
決して解放されたわけじゃないことを、秋生の心は知っているからだ。
「……陽大君が待ってる。もう帰って」
諦めたように息を吐いた壮輔は、今度こそ秋生を解放した。
それは確かに以前の壮輔の声なのに、秋生にとってすでに知らない声になってしまった。
さようならとボソリ呟いた秋生はもう一度ドアノブを握り締めた。
手が震えていた。
それでもドアノブを回して外へ踏み出し、前だけを向いてここから消え去ればいい。
秋生はそうするだけでよかったのだ。
どうにか玄関ドアから出た瞬間、秋生は初めて振り返ってしまった。
脅えるように、壮輔の顔を探してしまった。
「待ってる」
玄関ドアが壮輔の声だけ残し、静かに閉まった。




