逃げないで
「子供ってさ、見てないようでちゃんと見てるもんだよ」
扇風機を独占し涼み始めた真由は、秋生を見ることなく呟いた。
「つーかこの家、マジで暑いんだけど。いい加減引っ越したら?」
「……もう、真由まで同じこと言わないでよ」
秋生は目の前の真由を一睨みして、うんざりするように大きな溜息を吐いた。
日曜日の今日、親友の真由が久しぶりに遊びに来た。
真由は高校と同じく、地元から少し離れた大学に進学した。
今も月に一度のペースで実家に帰省し、大学では保育士の夢を叶えるべく勉強中だ。
そして今日も変わらず秋生の暮らす古びたアパートに文句をつけるのも忘れなかった。
「何? 引っ越すの?」
「……まだ決まってないけど」
秋生のはっきりしない答えに、真由は扇風機に向かってやや訝しげな表情を浮かべる。
「ふーん、まあいいけど…………で、陽大がどうだって?」
「……うん」
「さっきはいつも通り元気だったじゃん」
確かに真由が訪れたとき家にいた陽大は、いつもと変わらず笑っていた。
柊永に不安がった先週以降、特に変わった様子は見せていない。
「……あの子、昔から柊永のことにはすごく敏感なんだよね」
秋生がテーブル前で膝を抱え込み思案顔を浮かべると、真由も扇風機から離れ秋生に向き直った。
「秋生、木野君と喧嘩でもしたの?」
「……喧嘩じゃないけど」
喧嘩じゃない、すれ違っている。
未来に向かって先を急ぐ柊永に対し、今にしがみついて動こうとしない自分。
どっちかが折れなければ、結局いつまでも平行線のままだ。
「ねえ真由…………今のままでいたいと思うのは間違ってるのかな」
できることなら今のままでいたいのは、ただ現実から逃げているのと同じかもしれない。
自分は今、柊永から逃げたいのだろうか。
「……どうかな、秋生がそうしたくても木野君の性格じゃ難しいかも」
「…………」
「いつも流される秋生と強引な木野君は正反対だけど、相性はばっちりなんだよね。あのくらいグイグイ引っ張ってくれる人じゃなきゃ、いつも逃げ腰なあんたの相手は務まらないよ」
秋生の思案顔をのぞき込むように近付いた真由は、意味深に笑った。
「めずらしいじゃない。あんたが木野君に抵抗するなんて」
抵抗じゃない、ただ動かないだけだ。
理由も言わず動こうとしないから、柊永は決して納得してくれない。
「陽大を心配する前に秋生がすることは、木野君と向き合うことなんじゃない?」
真由の言う通りだ。
いくら陽大を心配しても、結局自分と柊永が向き合わなければ何も解決しない。
今柊永に何を求めてるのかわかってもらうには、ちゃんと言葉にしなければ駄目なのだ。
けれど、どうしても柊永に言えないことがある。
それに触れず彼に納得してもらうことなんて、できるはずがなかった。
あの日の事故のことを、目の前の親友は何も知らない。
陽大はあの日、真由の家に向かう途中で事故に遭った。
何も知らない陽大に何も教えることをしなかった秋生は病院から陽大を連れ、何食わぬ顔で真由の家を訪問した。
陽大に知られることがないように、そして真由にも怪しまれないように平然と笑っていた。
元々あの日は3連休を利用し、真由の家に泊まる予定だった。
すぐに事故の事情聴取や壮輔のことがあり、適当な理由をつけ陽大を真由の家に預かってもらい、再び秋生1人で出掛けた。
秋生と陽大が自宅アパートに戻ったのは当初の予定通り、2日後である。
あの日陽大に何があったのかも、そして陽大を助けた壮輔の存在も、真由は何も知らない。
そして柊永も何も知らない。
秋生は柊永にさえ、すべての事実を隠してしまった。
いや、柊永だからこそ決して知られるわけにはいかなかった。
正直、今まで彼に隠し通せてきたことは奇跡に近いかもしれない。
知られることを怖れ陽大に普通に振舞うことよりも、それ以上に気を付けなければならなかったのは柊永に対する態度だ。
小さい陽大には姉の些細な態度は誤魔化せても、柊永にはそうはいかない。
誰よりも秋生に対し敏感な柊永がこれまで気付くことがなかったのは、それだけ秋生が細心の注意を払ったからだ。
柊永を前に、自分の心情を徹底的に押し隠してきた。
壮輔を訪ねる際、休憩時間を利用するのもその為だった。
柊永のスケジュールを把握し、彼が絶対に動けない時間を壮輔への訪問にあて、壮輔の存在を決して知られないように行動した。
そこまでしなければ柊永に気付かれるのなんて、おそらく容易だった。
柊永は何も知らない。
あの事故と壮輔の存在はこれから先も絶対に明かすわけにはいかなかった。
「真由ちゃん、もう帰っちゃった?」
真由がいる途中から遊びに出掛けていた陽大は、帰ってくるなり家中をきょろきょろと見回した。
「また夏休みになったら遊びに来るって言ってたよ」
秋生はつまらなそうに口を尖らせた陽大を慰めると、共に帰ってきた柊永に視線を向けた。
「おかえり、遅かったね」
真由の訪問に気を利かせた柊永は、途中陽大を連れて外へ出掛けてくれた。
秋生の声に短く返事した柊永は壁に寄り掛かり腰を下ろした。
「公園に行ってたの?」
柊永に向かって尋ねた言葉に反応した陽大が、テーブルに座る秋生の傍に近付いた。
「秋ちゃん、どこ行ってたと思う?」
「うーん……わかんないなぁ」
嬉しそうに目を輝かせる陽大に覗き込まれた秋生は、思わず笑いながら首を傾げた。
「あのね、柊君のお家に行ってきたんだよ!」
「え?」
笑顔で答えた陽大にとっさに問い返すと、陽大は再び嬉しそうに話し始めた。
「おじさんとおばさんがいたよ。みんなで一緒に遊んだり、おやつ食べたりしたんだよ」
浮かれた様子の陽大の言葉をようやく理解した秋生は、柊永に振り返った。
柊永は明らかに顔色を失くした秋生を表情一つ変えず見つめ返した。
「秋ちゃん、おじさんたちがまたおいでって言ってたよ」
「……そうなんだ、よかったね」
陽大に再び視線を戻した秋生は、わずかに震える言葉と共に無理やり笑顔を返した。
隣で寝息を立て始めた陽大を確認すると、そっと布団から抜け出し寝室を後にした。
「秋生、ほら」
部屋に戻った秋生に気付いた柊永はテーブル前に促し、目の前にお茶の入ったマグカップを置いた。
秋生はマグカップに口をつけることなく暫くじっと見つめていると、隣りに座る柊永が持っていたマグカップをテーブルに置いた。
「……どうして陽大を連れていくの?」
自分でも驚くほど低く発した声は、静かな怒りが籠っていた。
「秋生が嫌がる理由がわからない」
「柊永」
秋生はようやくマグカップから目を離し、険しい表情で柊永を見つめた。
「どうして私を置いて先を急ごうとするの? そんなの柊永らしくないよ」
どんなに強引でも、勝手にどんどん先に行ってしまうのも、それはいつも秋生の為の行動だった。
苦労を共に背負う為に、楽をさせたい為に、そんな柊永の思いを秋生はちゃんと理解していたし、だから最後まで抵抗しなかった。
今まで決して嫌がることはしなかった柊永が、完全に秋生を無視した。
引っ越しを急ぐのも、そして結婚も、秋生が躊躇してることを誰よりも知っていたはずだ。
「じゃあ、何で俺から逃げる?」
今までずっと前を向いていた柊永が静かに振り向き、秋生に問い返した。
秋生を食い入るように見つめる柊永の目には、怒りと苦しみの葛藤が滲んでいた。
初めて見る彼の目にわずかに躊躇いを見せた秋生は、さっきまで確かに籠っていた怒りを失くした。
口を閉ざしてしまったのは、柊永の言葉が確実に秋生の心を表わしていたからだ。
「秋生」
柊永の手が伸び、静かに秋生の頬に触れる。
その瞬間、彼の顔が痛みに震え歪んだ。
それは今まで決して秋生が離れることを許されなかった、彼の弱さだった。
「何もいらない、いらないんだ」
秋生がいれば、何もいらない。
秋生じゃなければ、何もいらない。
秋生、逃げないで。
弱かったのは秋生だったはずだ。
かつて柊永によって引き出された弱さを自分だけのものと勘違いして、彼の手を取ってしまった。
秋生の存在が、すでに柊永の弱さであったことに気付かずに。
互いを弱くする2人は、交わってはいけなかったことに気付けなかった。




