見えない不安
「戸倉さん、人参は皮を剥きましょう」
隣に立つ秋生の言葉に人参を握りしめた壮輔は一瞬沈黙すると、すぐに照れ笑いを浮かべた。
「……そうだった。すっかり忘れてた」
「ふふ……戸倉さん、本当は知らなかったんでしょ?」
慌ててピューラーを取り出し皮を剥き始めた壮輔に、思わず笑ってしまった。
「バレたか。実は料理自体ほとんど経験なくてさ。高校の調理実習以来かなぁ」
図星を突かれ明るく笑った壮輔は再び人参と格闘し始めた。
壮輔が退院して、すでにひと月近く経過した。
今はリハビリ通院で仕事に就けない彼は、通院以外ほとんどの時間を自宅で過ごしている。
秋生はそんな壮輔を手助けする為、以前と同じく週に二度、仕事の合間に彼のアパートを訪れている。
自宅で暇を持て余した壮輔が秋生に料理を習い始めたのは、退院して1週間後のことだった。
「俺があまりにも不器用だから、水本さんも驚いただろ?」
「いいえ、私なんてもっとずっと凄かったですから」
隣でじゃが芋を切っていた秋生は、一度壮輔に視線を向けた。
「そうなの?」
「きゅうり1本切るのに、10分苦戦しました。初めてカレーライスを作った時なんて具を大きく切り過ぎて、食べた時ジャリジャリ言ってましたよ」
「へえ、水本さんにもそんな時代あったんだ」
「はい。料理なんて、最初は皆そんなもんです」
秋生が自信を持って明るく答えると、壮輔もおかしそうに笑った。
「陽大君は水本さんみたいなお姉さんがいて、本当に幸せだと思うよ」
「……そうでしょうか」
壮輔から褒められてもさり気なく目をそらした秋生は、再び包丁を動かし始めた。
これまで壮輔が気さくに弟の話題を出す度どうしても目をそらしてしまうのは、自分でもどうしようもない。
そして壮輔も、そんな秋生の態度を気にする様子はなかった。
秋生は壮輔が退院した日訪れた彼の部屋で、初めて弟のことを打ち明けた。
壮輔が庇った弟があの事故の事も、そして壮輔の事も知らないこと。
自分があえて弟に教えなかったこと。
そして今も弟は知らずにいることを正直に告白した。
ただ黙って聞いていた壮輔は秋生がすべて話し終えると、一言だけ答えた。
「それでいいんだ」
そう言った壮輔は秋生に優しい目を向け、更に頷いた。
「毎日水本さんの料理が食べられるなんて羨ましいよ。なんなら俺が妹にしたいくらいだ」
「……じゃあ、いっぱいお替りしてくださいね」
「うん、もちろん」
秋生が落ち込む様子を見せると、壮輔はあえて明るく振舞ってくれる。
自然と笑顔を戻した秋生は壮輔と料理を続けた。
壮輔は両親の顔を知らないそうだ。
18歳まで施設で育った彼は、その後自力で働きながら大学を卒業した。
あの事故がなければ、今春晴れて社会人になる予定だった。
壮輔の退院後変わったとすれば、秋生と壮輔は以前よりも互いを知るようになったことかもしれない。
秋生にとって壮輔は弟の恩人である。
そしてこれからできる限りの思いで一生償っていく人だ。
彼のこれからの人生の苦境を共に背負っていかなければならない。
秋生自身がそれを決めた。
それほどまでに残酷な経験を彼にさせてしまった。
あの事故を、あの恐怖を目の前で見ていたのは秋生だ。
自分が守らなければならなかった弟をその身で守ってくれた壮輔を、今度は秋生が手助けする。
けれどそれが秋生にとって決して義務にならないのは、壮輔のせいに他ならない。
あの事故により秋生の心を救ってくれたのは、彼の優しさだ。
壮輔が秋生を許し、逆に秋生を励まし、自ら歩み寄ってくれたからだ。
そうでなければ今でも秋生はこんな風に笑っていないだろう。
弟を救ってくれた壮輔に、姉の秋生も救われた。
今もこうして会えば自分を明るく励ましてくれる彼に、できる限りのことをしようと決めたのは秋生自身だ。
テーブルに作ったばかりのシチューとサラダ、そしてパンも添え用意する。
こうして2人で昼食を共にするのも、すっかり定着してしまった。
「水本さん、どう?」
「うん、すごく美味しいです」
本当に美味しく出来たシチューに喜ぶと、壮輔も安心して食べ始めた。
「俺1人でも上手く作れるようになったら、水本さんにご馳走したいな」
「本当ですか? じゃあ今から楽しみに待ってますね」
「あんまりプレッシャーかけないで。気長に待ってくれる?」
「はい…………あ、でもその時はちゃんと人参の皮も剥いてくださいね」
秋生がからかうように笑うと、一瞬きょとんとした壮輔も一緒に笑い始めた。
長く降り続いた雨がようやく止み、差していた傘を閉じた。
肩が少し濡れていることに気付き、隣を歩く陽大を見下ろす。
「濡れなかった?」
1つの傘に一緒に入っていた陽大に尋ねると、大丈夫と頷かれた。
小学校からの帰り道、自宅近くの公園を通り掛かると、陽大が足を止めた。
「……今日は濡れてるから、明日の帰りに遊ぼうか」
「秋ちゃん、早く帰ろうよ」
暫く公園を見つめた陽大がようやく秋生に振り向き、今度は家路を急がせた。
「いいの?」
「うん」
てっきり公園で遊びたいのかと思ったら、違ったらしい。
秋生は家に向かって再び歩き始めた弟をそのまま追い掛けた。
先週まで明らかに秋生に対して不満を露わにしていた陽大も、ようやく落ち着いてくれた。
どうしても弟の顔色を窺ってしまうのは、確かに負い目があるからだ。
先週の日曜日も仕事に出掛けてしまった秋生に、陽大は怒っていた。
新しい家を見に行きたい弟の願いが、結局秋生のせいで叶わなくなったからだ。
仕事だから仕方ないなんて言い訳はできない。
日曜日にわざと仕事を入れたのは秋生自身だ。
弟の願いを当分叶えるつもりがないのに、余計な期待をさせるわけにはいかなかった。
先週まで明らかに不満気だった陽大もようやく諦めたのか、ここ数日はすっかり元に戻っている。
一番ほっとしたのはもちろん秋生だった。
夕食の準備をしてる間、陽大は部屋で1人テレビを観ていた。
秋生が再び部屋に入っても気付く様子はない。
出来上がった夕食をテーブルに並べ終えると、ようやく気付いた陽大もテーブルに座り直した。
「テレビ消すよ」
一言声を掛け、リモコンでテレビの電源を落とした。
「柊君、遅いの?」
「お風呂前にはきっと帰ってくるよ」
遅くてもそのくらいだろうと考え答えるが、陽大からの反応はなかった。
秋生は改めて陽大に視線を向けた。
「陽大、どうしたの?」
秋生に心配されても何も答えなかった陽大は、少し経ってようやく秋生を見た。
怒ってるようにも悲しそうにも見える弟の表情は、秋生でも今まで見たことがなかった。
「柊君、変だよ」
陽大は意味の見えない言葉をはっきり訴えると、まるで助けを求めるかのように秋生を見つめる。
「変って、何が?」
「……わかんない」
秋生に尋ねられても今度はぼそりと呟いた陽大は、落ち込むように俯いた。
陽大の表情は言葉で上手く説明できないもどかしさを感じてるようにも見えた。
しばらく様子を見つめた秋生は陽大の傍に寄り、後ろから抱きしめた。
俯いてしまった陽大はぎゅっと口を噤み、これ以上話す気はないらしい。
「きっと柊君も疲れてるんだよ」
「……お休みすれば、治る?」
「うん、ちゃんと治るよ。帰ったら、いっぱい休ませてあげようね」
秋生は心配顔を浮かべる陽大を安心させるように優しく抱きしめ続けた。
不安を取り除いてあげられる言葉など、口にするのは簡単かもしれない。
現に姉の言葉に少しは安堵し、さっきまでの表情が消えている。
今の秋生には不安を見せる弟に、そんな一時しのぎの言葉しか掛けてあげられなかった。




