残された2人
「……これ、水本さんの手作り?」
壮輔は目の前に置かれたクッキーをじっと眺めたあと、傍に座る秋生に視線を向けた。
見つめられた秋生はわずかに照れた表情を浮かべる。
「戸倉さんのリクエストだったじゃないですか」
「まさか本当に持ってきてくれるとは思わなかったから…………いや、冗談のつもりだったんだけど」
壮輔から困ったように笑われた秋生はわざと怒った表情を向ける。
「私、クッキーなんて初めて作ったんですよ。責任持って、不味くてもちゃんと食べてくださいね」
「ありがとう水本さん、大事に食べるよ」
壮輔はさっそく包装からクッキーを1枚取り出し、1口で食べてしまった。
美味しいと嬉しそうに笑ってくれたので、秋生もようやく安心した笑顔を浮かべた。
秋生が事故後初めて壮輔と会ったのは、事故から5日が経過していた。
幸い生死に至らなかった壮輔は、昏睡状態から2日経てようやく意識を回復した。
秋生は医師から面会の許可をもらい、壮輔の病室を訪ねた。
壮輔の頭部と右足は白い包帯で覆われ、その時目覚めていた壮輔は目の前に佇んだ秋生を生気ない虚ろな目で見つめた。
そんな壮輔の姿に、秋生が出来ることなんて1つしかなかった。
土下座をしながら何度も謝罪の言葉を繰り返すしか、出来ることなど何もなかった。
壮輔は何も言わなかった。
ベットの上でただぼんやりと秋生の姿を眺めていた。
その虚ろな目には怒りも苦しみも、悲しみも存在していなかった。
壮輔が初めて声を発したのは、秋生が3度目に訪問した時だった。
「大丈夫」
ベットの上から目の前の秋生を目に映し、掠れた声で一言そう言った。
優しい声だった。
今まで泣くことさえ許されなかった秋生は、壮輔の前で初めて涙を零した。
壮輔は謝ることしかできない秋生にそれを望まなかった。
震えながら自分を見つめる目の前の少女ほどに若い女性に、もういいから、気にするなと言っているかのように、壮輔の目は優しかった。
すべてを許し、そして諦めた、穏やかな目だった。
「また何かリクエストがあれば、言ってくださいね。挑戦してみます」
「いや、水本さんが作ってくれるなら、それだけで嬉しいけど…………いいの?」
「私の手作りでよければ。あと何か必要なものはありますか? 持ってきますよ」
秋生の問いかけに、ベットに座る壮輔はただ優しい眼差しを向けた。
「……水本さんは、いつも俺のことばかりだね」
「え?」
「考えてみれば、俺は水本さんのこと何も知らないんだな。知り合ってずいぶん経つのに」
壮輔は傍に座る秋生を見つめながら、今度は普段の彼らしくないわずかに寂しそうな表情を浮かべた。
「質問したら答えてくれるけど、さすがに女の子のプライベートにはあんまり踏み込めないから遠慮してたんだ」
「戸倉さん、気にしないで何でも聞いてください」
「……いいの?」
「でも私のプライベートなんて地味すぎて、聞いても退屈するかもしれませんよ」
秋生がわざと明るく返すと、壮輔はほっとした表情を浮かべてくれた。
秋生がこうして壮輔と会って一緒に話すようになり、ずいぶん経った。
そして壮輔が言うように、彼は秋生のことをほとんど知らないだろう。
今まで秋生が積極的に話さなかったことが原因だが、壮輔も特に秋生に深入りすることはなかった。
壮輔の言う通り、遠慮していたのかもしれない。
普段2人が話すことといえば、その日の壮輔の様子や出来事そして世間話が主で、そこに冗談を交えて互いに笑い合う。
壮輔が秋生を許し、受け入れ、それ以降は話相手として望んでくれた。
徐々に壮輔の表情に生気が戻り笑みが出ると、自分の前では硬い表情しか見せない秋生に笑いかけ、冗談を言いながら気さくに話してくれた。
そして秋生に普通に接する壮輔の態度は、秋生にもそうしてほしいと教えてくれた。
秋生は壮輔の望みに気付いてから、壮輔と一緒に笑えるようになった。
すべて壮輔が望んだ通りにしようと心に決めた。
壮輔は互いの関係に深さなど求めなかった。
秋生のことも決して詮索しなかった。
それが秋生と壮輔の在り方だと思った。
壮輔は秋生を知らないと言った。
それは同時に、秋生も壮輔を知らないと言うことだった。
壮輔はあの事故により、頭部負傷、鎖骨、肋骨、右足の骨折という大怪我を負った。
特に足の損傷はひどく神経麻痺の後遺症が残ると診断され、退院後も長期に渡りリハビリ通院が必要だ。
壮輔の足がいつ完治するのか、もしくは一生完治しないのか、医師でも判断できない。
壮輔は今春大学を卒業し、就職も内定していた。
入社目前であの事故に遭い、結局内定も取り消された。
あの事故のせいで、秋生のせいで、壮輔のこれからの人生はすべて変わってしまった。
そんな秋生を壮輔は許した。
決して憎むことをせず、静かに、穏やかに、秋生に笑いかけた。
「実は、このベットとやっとおさらばできることになったんだ」
壮輔はそう言いながら、自分の座るベットをポンポンと叩いてみせた。
「……退院ですか?」
「さすがにこの生活には飽き飽きしてたから、助かったよ。これでやっと美味い飯が食える」
壮輔から明るく退院を報告された秋生は胸に込み上げるものを抑えるのに必死だった。
ここで泣いてはいけない。
終わりではない、壮輔の人生はここから始まる。
「退院はいつになりますか?」
「来週の月曜日」
「私でよかったら、お手伝いさせてください」
懇願にも似た秋生の願いに、壮輔は笑って頷いた。
同じく6時上がりのパート店員にお先に失礼しますと挨拶し、裏口ドアから外に出た。
昼間の暑さが和らぎ徐々に日が落ちてきた中、足早に帰り始める。
店の正面入口前を通り掛かると、ちょうど店から出てきた2人組が秋生に向かって手を振った。
「どうしたの?」
秋生が慌てて尋ねながら正面入口に向かうと、柊永と共にいた陽大も走り出した。
「秋ちゃん迎えに来たんだよ!」
秋生の傍まで近付いた陽大が嬉しそうに教えてくれる。
そんな陽大は胸に買い物袋も抱えていた。
「うちで買ったの?」
後から近づいてきた柊永に確認すると、彼も陽大に視線を向けながら頷いた。
「あのね、柊君が花火やってくれるって」
興奮した様子の陽大は手に持っていた買い物袋を持ち上げた。
「今日の夜?」
まだ花火の時期には少し早いと思うが、おそらく花火好きの陽大がやりたいと駄々をこねたのだろう。
「違うよ。これから公園行くんだよ」
「え? でもまだ明るいよ」
最近初夏に入り更に日が伸びたので、まだ十分明るい空は花火には早すぎる。
「どこかで飯食おう。それからやればちょうどいい」
今日はこれから外で夕食を食べてから花火をするつもりだったらしい。
柊永に希望の飲食店も尋ねられた秋生はとっさに思い浮かばず、とりあえず陽大を見た。
「ファミレスにしようか? 陽大がいるし」
小さい子供がいると店は限られるし、陽大が食べられるものも限られている。
3人でたまに外食する時もファミレスかフードコート辺りを利用していた。
陽大もそれでいいと言うので、帰り道にあるファミレスへ寄ることにした。
夕食時には少し早く、ファミレス内もそれほど混雑してはいなかった。
これから花火をする時間も考えて、手軽に食べられるものを注文する。
生まれつき食が細く外食を好まない陽大も、今日はこれから花火をするので始終機嫌が良かった。
土曜日の今日秋生は仕事が入っていて、陽大は柊永と一緒だった。
秋生が仕事に出た後、2人は午前中公園に行き、午後は暑くなったので家で過ごしたそうだ。
陽大は柊永と1日中一緒にいられたので、今もずっと笑顔だ。
手早く食事を済ませファミレスを出ると、陽大は花火を抱えながら1人先を走り出した。
「陽大、こっちだよ」
反対方向に走る陽大に慌てて声を掛ける。
「違うよ。お家の公園じゃなくて、小さい公園だよ」
秋生の声に否定した陽大は、早く行こうと先を急がせた。
以前通っていた保育園の帰り道にある小さい公園は、保育園の帰りによく遊んだ場所だ。
普段は家の近くにある大きい公園を利用してる陽大も、時々思い出したように小さい公園で遊びたがる。
最近は柊永に任せきりであまり外で遊ばなくなった秋生も、小さい公園に行く時は必ず付いていく。
今ではなかなか遊ぶ機会がなくなったからでもあるが、やはり特別な場所だからだ。
柊永と初めて小さい公園で出会った日のことを、秋生だけではなく当時まだ3才に満たなかった陽大もちゃんと覚えている。
おそらくこれからも弟の中に残り続けるだろう。
3人が小さい公園に着いた時、辺りはちょうど暗くなり始めた。
「陽大、ほら」
柊永が静かに火を向けると、陽大は手に持っていた花火をそっと近付けた。
勢いよく散った花火に陽大は少しだけ驚き、すぐに笑顔を輝かせる。
そんな陽大を見守りながら、秋生も一本火をつけた。
毎年3人でやる花火は陽大が何度もせがむので、その度に柊永が公園に連れて行ってくれる。
今年は待ちきれなくて、少しばかり早く始めてしまった。
「柊君、夏いっぱいやろうね」
陽大は期待して笑い、柊永もいっぱいやろうなと笑う。
秋生は花火越しに2人を見つめ、同じく笑みを浮かべた。
「陽大、そろそろ帰るぞ」
帰り際ブランコに乗って遊ぶ陽大に、遠くから柊永が手を差し出した。
勢いよく揺れるブランコからジャンプして降りた陽大はそのまま走り出し、柊永の手に思いきり抱きつく。
家路に着き始めた2人の後を歩く秋生は、陽大と手を繋ぐ柊永のもう片方の手を見つめた。
勢いよく胸にせり上げた感情のまま手を伸ばし彼の手に触れ、ぎゅっと握りしめる。
今どうしても彼の温もりが恋しくて、欲しくて、抑えることができなかった。
秋生に優しい目を向ける柊永を、同じように見上げる。
柊永――――この人に向ける感情ほど単純なものはない。
ただ好きなのだ。
この人が好きで、好きで仕方ないんだ。
柊永の目も、その手も、髪も、温度も、すべてがたまらなく愛しいんだ。
愛しい彼の手を握りしめることでしか想いの伝え方がわからない、伝えられない。
今この時だけは決して離れることがないよう、繋がった彼の手にぎゅっと力を込めた。




