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零れ落ち、流れるまま息を吐く  作者: 柊月エミ
第二章 始まりと終わり
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小さな嘘




「今日はお仕事、長い日だったの?」


 帰り道の途中、陽大は隣を歩く秋生に尋ねた。

 まだ小さい陽大には大きすぎるランドセルは、黄色いカバーがつけられている。

 秋生もそんな陽大に視線を向け、ただ頷いて答えた。


 学童保育に入っている陽大は秋生が迎えに行くまで小学校で過ごし、そのあいだ学童で出来た友達と遊んだり宿題を済ませる。

 入学してからすでに3か月以上過ぎ、姉弟共に新たな帰り道にもすっかり慣れた。

 小学校は自宅アパートまで200mと近く秋生の勤務先の通り道にあるので、保育園時代よりもずっと迎えが楽になった。


「あのさ、卓君のお兄ちゃんサッカークラブ入ってるんだって」

「卓君、お兄ちゃんいたんだね」

「それでね、卓君も2年生になったら入るって言ってたよ」


 期待に目を輝かせる陽大に見上げられた秋生は、思わず苦笑を浮かべた。


「陽大も、卓君と一緒に入りたいんだね」

「いいの!? クラブ入ってもいい?」

「ちゃんと先生の言うこと聞いて練習頑張るなら、いいと思うよ」


 姉から了承された陽大はランドセルを揺らしながら、やったぁと飛び跳ねた。


「秋ちゃん、大好き!」


 陽大が姉のお腹に抱きつき、秋生もそんな弟の肩に手を回すと、姉弟はくっついて歩いた。


 お腹に感じる弟の温もりを意識した秋生は、思わず込み上げた涙を誤魔化すために上を向く。

 秋生の様子に気付かない陽大はただ嬉しそうに笑い、家に着くまで姉のお腹から離れることはなかった。


 

 秋生は怖かった。

 こうやって弟の温もりに触れる度、あの日のことが脳裏に蘇る。

 あの時壮輔に助けられなければ、おそらく弟は今ここにいない。

 この小さい身体では一溜りもなかっただろう。

 あの日を思い出す度、陽大を失ってしまったかもしれない恐怖に心は脅え、凍りつく。

 息ができなくなる。


 すべて秋生のせいで起きた事故だ。

 あの時、まだ小さい弟を置いていった姉の軽率な行動が弟を、そして1人の青年の人生を変えてしまった。

 あまりに大きすぎる罪は、一生かかっても償いきれない。

 自分が許せない。


 姉にくっつきながら無邪気に笑う陽大は、そんな姉に気付かない。

 弟に触れるたび心が震えてしまうことを、息の仕方を忘れてしまうことを、何も知らずに笑ってる。


 けれどそれは陽大が気付いてないのではなく、秋生が隠してるからだ。

 どんなに心が悲鳴を上げても、凍りついても、決して表面には見せない。

 いつものように弟に笑って、時々叱って、手を繋ぐ。抱きしめる。

 絶対に悟らせない。


 この小さい弟はあの事故のことを何も知らないのだから。


 

 あの時、陽大は秋生めがけて横断歩道を駆け走った。

 秋生しか見ていなかった陽大は、信号無視で脇から走ってきた車に最後まで気付くことはなかった。

 ただ最後まで秋生だけを見ていた。

 そして、とっさに陽大の手を掴み自分の胸に抱え込むようにして庇った青年が、偶然陽大の隣にいた壮輔だ。


 

 秋生は気が付けば、陽大を抱えていた。 

 青年からわずかに離れ倒れてる陽大を抱き上げ、震えながら泣いていた。

 目覚めない弟の名前を何度も呟いていた。

 弟の顔にこびりついたおぞましい血に手で触れることもできず、ただ恐怖していた。


 その時確かに秋生の視界に青年の姿は映っていた。

 弟を庇った青年だと頭では認識していた。

 すぐ傍で倒れる青年は弟の手だけを離さないまま、ピクリとも動かなかった。


 青年の下に溜まり続ける血を見た瞬間、初めて秋生の心が青年を受け付けた。

 弟の顔にこびりつくおぞましい血が青年のものだと気が付いた。


 陽大は何も知らない。

 陽大は秋生しか見てなかったから。

 その時自分に向かって走ってきた車も、そして青年に助けられた事実も、何も見てなかった。

 運ばれた病院で目を覚ました陽大はどうして自分が病院にいるのかわからず、不思議そうに秋生を見上げた。

 事故の衝撃で脳震とうを起こし意識を失っただけで、かすり傷1つない状態だった。


 あの青年が陽大のすべてを庇ったからだ。

 陽大のすべてを身一つで守ったからだ。

 

 その時、秋生はもうひとつ罪を犯した。

 目の前の大切な弟の心を守るために、小さな嘘を吐いた。

 そうすることが弟を守ることだと愚かな勘違いをしてしまった。

 だから陽大は何も知らない。

 あの日自分に何があったのか知らず、あの日自分を庇った青年のことも知らない。


 秋生が何も教えなかったから。

 

 あの事故を、そしてあの青年の存在を、弟が永遠に気付かないように口を閉ざし、隠してしまった。

 弟の心を守るためと勘違いしたあの時の秋生は、その為なら何をしてもよかった。何でもした。

 そして秋生は弟だけじゃなく周りにも決して知られないように、今まで静かに隠し通した。


 すべての事実を隠した後に残ったのが、秋生と壮輔だった。


 




「うーん……」


 テーブルに並べられた無数の紙を見つめ、頭を抱えた。

 就寝前の遅い時間、睡魔に襲われた頭では結局どれを比べても細かい違いはわからない。


「おい、寝るなよ」


 向かいからすかさず厳しい声が飛び、半分夢の世界に足を踏み入れていた秋生は慌てて現実に戻った。


「……だめだ、どれも同じに見える」


 結局秋生の睡魔は飛ばず弱音を吐き始めても、向かいの柊永は厳しい表情を緩めない。


「昨日もそう言ってさっさと寝ちまっただろ。そんなんじゃ、いつまで経っても決まらない」

「……ねえ、今すぐ決めなくてもいいんじゃない? まだ時間はあるんだからさ」

「この周辺のアパートなんて限られてるだろ。今から探しといて良い物件があれば、すぐ引っ越せばいい」

「まあ……そうだけど」


 最終的にいつだって秋生が柊永に言いくるめられるのは、結局彼の言い分が正しいからだ。

 危機が迫らない限りのんびり構えてる秋生と、決めたことは勝手にどんどん進めてしまう柊永は、基本合わない。

 そこに秋生の言い訳は一切通用しない。

 今回柊永が新しいアパートに越すことを決めたのも、彼が物件のコピーを持ってきて初めて聞かされたのだ。

 つまり柊永が秋生を無視し、勝手に引っ越しを決めてしまった。


「……この物件さ、どれも2LDKか3DKだよね」


 眠い目を擦りながら再び物件を見比べ始めた秋生は、今更そのことに気が付いた。


「もう少し狭くてもいいんじゃないかな。それに家賃も馬鹿にならないし」

「このアパートが狭すぎるんだ。それに3人で暮らすんだから、陽大も大きくなるし最低このくらい必要だろ」


 今でも3人で暮らしてるようなものだが、柊永が言ってるのは正式に3人で暮らし始めるということだ。

 これだって、秋生は引っ越すことを聞かされた時初めて知った。


 何も言い返せなくなり黙り始めると、柊永は秋生の隣に移動した。

 そのまま秋生の手を取り、自分の口元へ持っていく。

 秋生はただ自分の手にキスを繰り返す柊永を見つめた。


「引っ越したら、籍も入れる」

「……まだ早いよ」

「あと数か月だろ、変わらねえよ」


 ようやく秋生の手を離した柊永が、今度は秋生の頬を両手で包む。

 秋生と間近で見つめ合う柊永の目は逸らすことを許してくれない。

 覚悟を決めろと言っている。


「約束だ、秋生」


 約束。

 秋生と柊永の約束。


 まっさらに、ただ一途に柊永だけを見つめていられた遠い日に契りを交わした。

 互いに二十歳になった時と心に誓い合った、高校生だった2人の幼い口約束。


 秋生が二十歳になるまで、すでにあと少しだ。

 そしてただまっさらでいられなくなった秋生は、その日が来るのをずっと怖れていた。


 ただの高校生とは違う、今の秋生にとって結婚など現実ではない。


 2人は若すぎる。柊永はまだ学生だ。

 まだ会ったこともない柊永の両親と兄がいる。

 おそらく秋生は許してはもらえないだろう。

 

 そして今の秋生には、柊永との結婚を口にする資格すらなくなってしまった。

 互いに愛し合っていても、それだけでは決して許されない。

 それは自分の罪までも相手に背負わせることだからだ。




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