執事エドガルの秘密――王女の竜がなぜ私と契約したんですか?
力ある国には竜がいる。
それは迷信ではなく、歴史が証明してきた揺るがぬ事実である。
竜と契約した王が現れれば、その国は周辺諸国から一目置かれた。
交易は活発になり、外交は優位に進み、それにより軍事力も強固になっていく。
しかし反対に、竜を持たぬ国は衰え、やがて力ある国の傘下に組み込まれていった。
竜の恩恵は絶大で、その存在は国の内外に争いをもたらすほどだった。
竜と契約した者は、どんな身分であろうと国で一番の権力を持つことになる。
だからかつての王は、国の統率を図るために竜を王家の所有とした。
竜と契約するのは、絶対に王族でなければいけないと定めたのだ。
ゆえに、契約前の竜の存在は王宮でもごく限られた者にしか明かされることはなかった。
——そのごく限られた、許された者として、私はソフィリア姫様と契約するであろう竜の卵を毎日見守っていた。
*
王宮内の秘匿された部屋。
そこに隠された卵は、険しい山間部で見つけられた黄金よりも価値ある国の宝だ。
見た目は鳥の卵のようで、大きさだけが既存の動物のものとかけ離れて特大だ。
繭のように繊細な白さを持つ卵はその見た目とは裏腹に、強靭な硬さを誇っていた。
その卵の内側から、コツコツコツコツと、生命の誕生を告げる音が続いている。
卵をつつく音に期待を寄せて、すでに三日は経っていた。
いつ誕生してもおかしくない、そんな卵の様子をいつも通りに見にいくと、そこには待望の姿があった。
「……!」
卵から孵っていたのは、薄氷のような鱗を持つ美しい竜だった。
透きとおる鱗に張りついた、卵の殻を身震いして落とすと、竜は無言で立ち尽くす私に気がついた。
「ギャウッ」
竜と、目が合う。
その瞳は、氷の下に広がる深い青の色。
奇しくも、それは姫様の紺青の瞳と同じ色で――。
本来なら、私は姫様を呼びに走るべきだった。
しかし、美しく愛らしくもある小さな竜に見つめられ、それも姫様と同じ色で、私はしばし時を忘れた。
「なんと、美しい……」
そんな感想が口をつくと、竜は孵ったばかりの小さな体に付いた、小さな翼を広げた。
おぼつかない動きで飛び始めようとした竜に、私は我に返って声をかけた。
「ま、待っていなさい。今、姫様を呼びに……」
竜はそこで、私に興味を持ったらしい。
はじめて見る動くもの、言葉を発するもの。
あるいは、私に何かを感じ取ったのか、前のめりに私に向けて羽ばたいた。
「ギュウ〜」
竜は私を確認するように、ふよふよと周囲を飛んだ。
生まれたばかりの竜を怯えさせてはならぬと、私は微動だにできず、そのまま竜の好きにさせた。
やがて満足したらしい竜は私の顔を覗き込み、「ギャア!」と笑ったように牙を見せた。
驚く私に、竜は目を細めると、竜の小さな額が私の額に触れた。
――感じる熱。
竜の体温ではなく、突如そこに発生した光。
光に集まる熱が額を通して、私に不思議な感覚を与える。
嫌な予感がした。
「お前、何をしている!?」
私は慌てて額を離すと、竜は嬉しそうに声を上げた。
「ギャア♪」
何が起きたのか瞬時に悟った私は、体中から血の気が引く冷たさを感じた。
もう後戻りできないと、私の賢い頭脳は己の置かれた状況を理解して警鐘を鳴らした。
「か、隠さねば……」
上機嫌な竜を捕まえて、私は人目を避けて自室へ猛ダッシュした。
*
「エドガル。あの卵はいつ孵るかしら?」
窓から入る日差しを受け、ホワイトシルバーの髪が柔らかに揺れてきらきらと輝く。
昼下がり、お茶の用意をしている私に、竜と同じ色の瞳が向いた。
ソフィリア姫がおっとりと笑って、私の返事を待つ。
「まだ、しばらく先でしょう」
私は冷静さを保って、穏やかに答えた。
その手元では、ちょうど傾けたティーポットがびっちゃびっちゃと紅茶を撒き散らしていた。
「エドガル?」
「いえ、なんでも」
顔だけは完璧に冷静を取り繕いながら、私はこぼした紅茶をこっそりと拭いた。
――落ち着け。落ち着くんだ、姫様は何も知らないじゃないか。
「カップがしっかりと温まっておりませんでした。シェフの焼き菓子をどうぞ、先に召し上がっていてください」
「そんな細かなこと、気にしなくていいのに」
微笑みながら焼き菓子に手を伸ばす姫様に、私は内心で不安を嘆いた。
竜の卵はとっくに孵ってしまっている。
薄氷の鱗を持つ、姫様と同じ瞳の色の竜だ。
姫様は竜の誕生をずっと心待ちにしていた。
美しい竜だ、同じ色なことも、姫様は喜ばれるだろう。
――だが、決して言えない。
竜は王族と契約するものなのに、あの竜は私を選んだ。
なぜだ? わからない。
姫様に秘密を持ったことが、とにかく心苦しい。
国王は将来を考えて姫様と竜の契約を望んでいる。
竜の卵が見つかって、国は安泰だと喜んだばかりだったのに。
これは、裏切りとなるのだろうか。
その考えにゾッと背筋が冷えて、改めてお茶を淹れようとした私の手が小刻みに震え始めた。
そんな私に、姫様が窺うような瞳を向けた。
「さっき、火傷しなかった?」
「え?」
「こぼしてしまっていたでしょう。エドガルの手にかからなかった?」
「あ、えぇ。大丈夫です」
「よかった」
ふわりと笑顔を見せる姫様に、強張った私の心が一瞬で解きほぐされた。
震えが止まった私は今度こそ普段通りにお茶を淹れて、姫様にお出しする。
――姫様のこの笑顔を、私が裏切るものか。
ひとまず、秘匿の部屋には竜の卵のレプリカを置いておいた。
見た目でだけで容易に本物と見分けがつくことはないだろう。
しばらくは、これで他の者を誤魔化せるはずだ。
だから、私がその間にやるべきことは……
すべての業務を終えた私は、ほとんど駆け足の速さで自室へ戻った。
一日空けていた自室は、盗人が入ったのかと思うほどに荒れ果て家具がひっくり返されていた。
「なんですか、この惨状は!」
あらゆる物が散乱した部屋を見まわし、小さな元凶を探した。
ガジガジと不穏な音を立てる、ベッドの足にかじりついている竜を見つけて、私は詰め寄った。
「私の部屋を荒らすんじゃありません!」
「ギャ?」
「ああ、もう、めちゃくちゃじゃないですか!」
「ンギャ」
バキッ、と嫌な音がした。
途端にベッドが傾き、下敷きになりそうになった竜を慌てて抱き上げた。
竜はかじり折ったベッドの足を抱えて、満足そうにしていた。
「あああ……」
あまりの惨状に、今すぐ思考を放棄して寝てしまいたかった。だが、寝床はたった今破壊されたばかりだ。
竜に言いたい山ほどのことを飲み込んで、私は最優先事項のみを突きつけた。
「私との契約を今すぐ解除しなさい。今すぐに」
「ギャウ〜ッ」
「誉れ高き竜とて、私は容赦しませんよ」
「ンギュ〜」
額をゴリゴリ押し当てたが、竜はなぜか喜ぶばかり。
気持ちは逸る私だが、あまりに竜が聞き耳を持たず、額だけが痛い。
やがて、そんな竜の反応に私の中でぷつりと糸が切れた。
しばらく粘ったのだ。時刻はもう日付を跨ぎそうだった。
今は何をしても無駄だと、私の賢い頭脳が諦めてしまった。
私は部屋の惨状から目を背けて、綿の飛び出すソファに転がった。
「疲れた……」
竜のせいで、疲労困憊であった。
*
竜とは、崇高で繊細で、人智を超えた存在だと信じて疑わなかった。
寝床は王族と同じく最高品質のものであしらわないといけないと学んでいたし、食べ物も人と違うからこそ気をつかわねばと教わっていた。
契約前の竜など、いつ気まぐれで他国へ飛んでしまうかわからないから。
人が竜を崇めてそうしていることも理由の一つだが、それ以上に竜の気を損ねたくないのが大きな理由だ。
竜に心地よく国に居着いてもらうために、誠心誠意、竜に尽くすことが掟となっていた。
「ぐ、重い……」
しかし、私にとってそれらは杞憂であった。
孵ったばかりの竜は私と勝手に契約するし、私の腹の上を寝床にした。
まだ小竜ではあるが、大きめの猫サイズである。その重さが一晩中腹の上にあっては、私の腰が死ぬ。
寝起きでとろんとしている竜を腹から下ろし、私は腰をさすりながら朝の身支度をした。
竜に与える食べ物をどうするか考えながら自分の朝食を簡単に用意していると、匂いに釣られた竜が、私の朝食を食器ごとバリバリと飲み込んでいった。
竜とは、繊細な生き物ではなかったのだと私は認識を改めた。
「今日のエドガルは、なんだか様子がおかしいわ」
朝のあいさつをしてすぐ、姫様は私の異変を察知した。
いつもはきっちり結っている髪が乱れていること。
いつもはきっちり磨いて曇りない眼鏡にヒビが入っていること。
いつもはきっちり睡眠をとって完璧に整えているのに、目の下にクマができていること。
まじまじと観察されて、いつもは柔和な姫様のお顔が怪訝な顔つきになっている。
すべての元凶はあの竜であるが、姫様はそんなことを知る由もない。
「私はお父様に呼ばれているから、あなたは今日はお休みを取りなさい」
疲れているのだろうと、結論づけられた。
これから姫様と国王陛下の朝食の時間だが、私が休息を取れるようにと付き人から外してくれたのだ。
「いい? 仕事はせず、ちゃんと休むのよ」
「はい。姫様のご厚意に感謝します」
姫様を見送ったあと、私は休息を――取るわけもなく、これ幸いとすぐに王宮図書室へ向かった。
「竜との契約を解除する方法を、見つけなくては」
竜に関する文献は多い。
だが、そのほとんどは王族が契約者であることを前提に書かれている。私のような例外について触れた記述は、驚くほど少なかった。
それでも、古い羊皮紙にまとめられた一冊の本に、私は指を止めた。
そこには、こう記されていた。
『竜との契約は、双方の合意をもって成立する。
契約者が自ら受諾せぬ限り、竜にとって完全契約とはならない。
完全契約が結ばれぬ竜は、力を制限されたまま成長も止まる』
私は、静かに本を閉じた。
――つまり。
私が今の一方的な契約を認めさえしなければ、竜との契約は不完全なまま終わるということだ。あの竜は本来の力を得られず、成長もしない。
「そう、か……」
私は安堵の息を吐いた。
では、どうやって契約を解除するのか。または、契約を解除した事例はあるのか。
さらに詳しく書かれた本を探そうと本棚を見回していると、私の後ろで、ベリッと紙の破れる音が聞こえた。
嫌な予感がして恐る恐る振り向くと、自室に閉じ込めてきたはずの竜が本にかじりついていた。
「ヒュッ……」
声にならない悲鳴をあげた私は、竜を捕まえて本を取り上げた。
「貴重な書物が!」
「ギャッ! ギャア!」
「本は食べ物ではありません! それに、お前はなぜここにいるんです!?」
まさか人の目に触れていないだろうな、と慌てて竜ごと本棚の影に隠れる。竜は本を返せと翼をばたつかせた。
飛ばれるのがとにかく厄介だ、と暴れる竜を押さえていると、透き通る声が耳に届いた。
「エドガル、いる?」
途端に心臓が跳ねて、私は慌てふためいた。
姫様の声だ。慌てふためいたついでに、反射で「はい!」と元気よく返事をしてしまった。
返事をしたのに隠れているわけにもいかず、私は本棚から覗くようにして頭だけ出した。
隠れた体のほうは、竜を抱えてなんとか押さえ込んでいる。
「あぁ、そこにいたのね」
「はっ、はい、姫様」
「……頭しか出てこないのね?」
「か、体のほうは、本を探すことに集中しておりまして」
「ふぅん……?」
竜の力が強い。
そのせいで、姫様の質問に自分がなんと返事しているのかわからない。竜は痺れを切らして、本格的に飛んでいこうとしている。
あぁ、まずい。せっかく打開策を見つけられそうなのに、このままではすべてが水の泡となってしまう……!
その時、不思議そうに小首を傾げた姫様の髪が揺れた。
結い上げた髪に華やかに差し込まれる装飾の玉が目に入り、そういえば飴を持っていたことを思い出す。
姫様からは見えない体がジャケットの内ポケットを探り、見つけた飴を竜に見せた。竜は飴に興味を示したらしく、大人しくなった。
「ひ、姫様。陛下とのお時間は、いかがでしたでしょうか」
「あっそうそう。そうなのよ、エドガル聞いて!」
姫様の興味が私の体から、国王陛下とのティータイムへ移り変わった。喜びに声が弾んでいる。
「お父様がね、海向こうの国へ招待されたの。ソフィも連れていってくれるんですって!」
海向こうの国とは、少し前に竜が現れ力を持った大国だ。
わざわざ竜持ちの国が竜なしの国を招待してくるなど、政治的な思惑を感じざるを得ない。有効的な国であればいいが、我が国を従属国にしようと目論んでいる可能性は大いにある。それに、何より……。
素直に喜ぶ姫様の前で、私は冷静に考えた。
もし、もしもだ。
妙齢の姫様が、相手国の王族に気に入られてしまえば――
「うっ!?」
そんな不吉なことを考え始めた私の指に、生温かい柔らかな何かが触れた。
べろべろべろべろと、飴を舐め終わったらしい竜が私の指を舐め始めたのだ。私の指から飴の残り香がしたのかもしれない。
潔癖な私は、容赦なく竜に指をしゃぶられて全身が粟だった。
「エドガル?」
しかし、姫様の前で無様な姿は晒せない。
いつも通り冷静であることを努めて、私は答えた。
「そ、それは、姫様にとって素晴らしい経験になるでしょうね」
「えぇ、とっても! それでね、エドガルも一緒に行くでしょう?」
「はい、もちろ……」
──この竜を連れて? いや、置いて?
再び反射で返事をしかけた私だが、今度は理性がそれを拒んだ。
何が起こる?
この竜を仮に連れて行ったとして、こんな奔放かつ特大級に厄介な案件を連れて、隠しきれるのか? 隠しきれた場合、私は私でいられるのか?
仮に置いて行ったとして、脱走したらどうする。姫様を裏切ったと誤解され、処刑台行きになるなど考えたくもない。
脱走せずとも、食事の問題がある。食器ごと飲み込む食いしん坊だ。食べ物がなくなれば、家具を食い散らかすくらいはするだろう。
それに何より、私の不在時に大きな声などあげられたら、一発で竜の存在がバレてしまう。
一瞬で思考をめぐらせた私は、「もちろん」と言い切ろうとした己の口をひん曲げた。
「エ、エドガル。口がおかしくなってるわよ?」
「……申し訳ありません、姫様」
姫様に忠誠を誓う私にとって、それは苦渋の決断だった。
「執事として、姫様と共に参りたい気持ちは山々なのですが……」
「何かあるの?」
「おそらくその外交スケジュールの頃、私は風邪で寝込んでおりまして」
「風邪で」
「姫様、敷いては国王陛下、外交先の高貴なる方々にうつしてしまっては大事でございます。よって、私は留守番をしております」
今度こそ言い切った私の指は、竜の口の中でべろべろにしゃぶり尽くされている。
しかし、この緊張の場面で、いくら潔癖だからとそちらに感情を持っていかれる私ではない。
私を見つめる姫様は紺青色の瞳を丸くしていたが、やがて、ふわりと口元を緩めた。
「さすがだわ、エドガル。あなたのスケジュール管理はいつも完璧だもの。自分の体調を崩す時期も、しっかりと把握しているのね」
姫様はころころと楽しそうに笑い、じゃあ、と続けた。
「あなたには、竜の卵をお願いするわね」
「お休み中にごめんね」と、姫様の細い背中が扉の向こうに消えた。
その瞬間、私は張り詰めていたものを深く吐き出した。
——もう、時間は残されていない。
姫様のいない間が、私に残された唯一の猶予だ。
その間に、竜との契約をなんとしてでも解除しなければならない。
「……? やけに静かになったな」
私の指をしゃぶっていた竜が、微動だにせずおとなしくなっている。
ようやく観念したかと抱えたままの竜を見てみれば、竜はくぅくぅと愛らしい寝息を立てて眠っていた。
まだ、孵ったばかりの竜なのだ。本当であれば、手厚く育てられるはずの尊い命だ。
「お前にとっても、頷かぬ私と契約し続けるのはつらいことでしょうに……」
小さな竜を抱え直して、私は探し物を諦めて自室に戻った。
それから数日後、姫様は海の向こうの国へと旅立った。
船での移動時間が長いため、旅程は十日ほどの予定だ。
その間、私は体調不良による休暇をもらい、竜と向き合うことに専念した。
「おい、こら。私との契約を解除しろ」
「ギャウッ」
しかし、竜はぷいと顔を背ける。ずっとこの調子だ。
それだけでなく、契約の話題になると、とんと不機嫌になってしまう。
「ちゃんと私の話を聞け」
「ギュ〜」
十日間あった休暇は、あっという間に過ぎていった。
竜との契約解除に関する文献は結局見つからず、竜に自ら破棄してもらうしかない状態だった。
なのに、この竜ときたら、とにかく頑固で私の言うことを受け入れないのだ。
「私と契約して何になる。お前にとっても、今の状態は苦しいだけだろう」
竜のしっぽが苛立たしげ振られた。もう、返事をする気もないらしい。
「お前は姫様と契約しなさい。竜は、王族と契約しなければならないんだ」
竜の苛立ちが大きくなり、しっぽの揺れも大きくなった。小さな背中なのに恐れを抱いてしまいそうになるのは、相手が子どもといえど竜だからか。しかし、私も引き下がるわけにはいかない。
「私は絶対に、お前との契約を受け入れない。だから、今すぐに……」
バンッ!!
竜のしっぽが床に叩きつけられた。ついで竜が牙を剥き出してふり返り、大声で喚いた。
「ギャア! ギャアアア!」
「こ、こら、静かにしなさいっ……!」
口から火でも吹き出しそうな怒りだった。
焦った私は取り繕うようにして竜をなだめた。近隣の部屋に今は人はいないとはいえ、誰の耳に入らないとも限らない。
竜はむすっと不機嫌なまま喚くのをやめて、唸りながらも私の膝に乱暴に顎を乗せた。
私を見上げる瞳が、「二度と言うな」と威圧してくる。
――話し合いは、決裂らしい。
こうなってしまってはもう、姫様に竜を隠していることを打ち明けるしかないと、私は腹を括った。
*
外交から戻った姫様は、どこか暗く沈んでいるように見えた。
それは疲労というより、苛立ちを含んだ沈黙のような。ときおり漏れるため息が、竜から感じる不機嫌さに近いものを感じさせた。
「ねぇエドガル。竜はまだ孵らない?」
「え、えぇ。まだしばらくかかるかと」
そのため、私は姫様に竜のことを打ち明けるタイミングを逃し続けていた。
一度逃してしまうとそのハードルはどんどん上がっていくばかりで、私は姫様の目を見られなくなったいた。
「そう。まだなのね」
姫様の返事は短く、けれど視線は私から外れない。
何かを確かめるような、期待と不安が入り混じった瞳だった。
「あの卵が孵ったら、竜は何色だと思う?」
「さぁ、私には」
「エドガル、私を見て。何色だと思う?」
そっと視線を上げる。
まっすぐ私を見つめる姫様にいつもの柔らかさがなく、私はごくりと唾を飲み込んだ。
「……絶対に、姫様と美しくある色でしょう」
私の答えに姫様は小さく頷き、今度は少しだけ声を落とした。
「どんな瞳をしているのかしら?」
「……くりっと丸く、愛らしい瞳です」
ふっと、姫様のまつ毛が揺れた。
想像するように、一瞬だけ視線が宙を泳ぐ。
「じゃあ、どんな声をしているのかしら」
「見た目に反して、低く動物的でしょう」
「まぁ」
思わず、といった調子で零れた小さな吐息に、微かな笑みが混じった。
私に向く瞳にも、柔らかさが戻る。
「どんな性格かしら」
「懐っこく、いたずら好きです。そして、とにかく頑固です」
姫様の唇の端が、ゆるやかに持ち上がる。
沈んでいた部屋の雰囲気に、ようやく光が戻った。
「孵ってすぐに、飛ぶことはできるのかしら」
「おぼつかず危なっかしいですが、小さな翼で飛び回ります」
期待で弾むように、姫様は「それは会えるのが楽しみね」と微笑んだ。
まるで、まだ見ぬ竜に救われると信じるように。
――打ち明けるなら、今ではないだろうか。
私は手に汗を握って、背筋を伸ばした。
深呼吸して高鳴る動悸を静めると、意を決した。
「姫様、お話したいことが……」
しかし、またしても私は姫様に打ち明けることができなかった。
海向こうの国の王子が来国したと、王宮が大騒ぎになったからだ。
「ソフィリア、俺がいきなり会いにきて驚いたか?」
そう言いながら、王子は周囲を一瞥した。
値踏みするような視線で、王宮の内装から使用人の顔まで眺めている。
姫様が沈んでいた理由が、なんとなくわかった気がした。
「なかなか田舎な国だな。こんな田舎に、お前のような美しい姫がいたとは驚きだよ」
「……お世辞がお上手ですこと」
「控えめなその性格も悪くない。言い返してくる女は面倒だからな」
そう言って、王子は姫様を舐め回すように上から下まで見た。
「この田舎のお姫様に、竜持ちの俺はもったいないくらいだ」
姫様の指先が、ほんのわずかに強く組まれた。
笑みは崩れていないが、その瞳は冷え切っている。
つまり、そういうことなのだろう。
外交についていかなかった私にはその話がどこまで進んでいるのかわからないが、姫様があの王子を嫌悪していることだけはわかる。
先触れなしで身勝手に姫様に会いにくるような男だ。使用人に対する態度も傲慢で、邪魔だと言わんばかりにさっさと応接の間から追い出してしまった。
私も追い出されそうになったところを、姫様の言でなんとか扉の前にしがみついて立っている。
「あなたは、なんのご用で我が国にいらっしゃったのでしょう」
姫様のあんな目は見たことがない。
口元だけは笑みを絶やさず、王子に向ける瞳には軽蔑の色しか見えない。
「冷たいな。俺の国に来ていた時は、あんなに仲良くしていたじゃないか」
「その節は大変お世話になりました」
「ソフィリアの滞在期間が短かったから、その間にまとまらなかった話を持ってきてやったんだよ」
「……まぁ、なんのお話でしょう」
姫様の声が一層冷えたものになった。
王子は、意気揚々と書状を広げて見せた。
「ソフィリア、俺と結婚しろ。大人しく従順に俺の妻であるなら、今よりいい暮らしを約束してやる」
王子が持つ書状は婚姻について書かれたものらしい。向こうの国の押印がしっかりと見えた。
あれを国王陛下に渡されてしまえば、公には竜のいない国となっている我が国は抗うことができない。
要求通りに姫様を差し出して待遇良くを交渉するか、従属国となって姫様を奪われるか。
「長い船旅をしてわざわざ来てやったんだ。面倒な返事はごめんだぞ」
ふんぞりかえっている王子は、すでに姫様を手に入れた気になっているのだろう。
国王陛下に書状を渡す前に姫様に求婚しにきたのは、明らかに優しさでも漢気でもない。姫様を見下げた笑みに、服従させてやろうという薄汚い考えが滲み出ている。
──間に入るべきか?
あまりに腹立たしく、そんな考えが頭をよぎる。
しかし、すぐに理性が働いて喉が詰まった。
私が出ていってなにができる。私はただの執事だ。
竜に契約されたとはいえ、それは許されたことではなく、公にしていいことでもない。
私が動き出せずにいると、姫様がフフッと声を出して笑った。
「では、面倒にならぬようはっきりとお答えします」
「あぁ、俺と結婚するとな」
「その結婚の申し出、お断りいたします」
「では王陛下に書状を――な、なに?」
王子の空気が、ぴたりと止まった。
瞳が見開かれ、理解が追いつかないとでも言うように瞬きを繰り返す。
そんな王子に、姫様は繰り返した。
「聞こえませんでした? お断りします、と言ったのです」
「お前っ、自分が何を言ってるのかわかっているのか!?」
声を荒らげ、王子が立ち上がった。
その瞬間、私は反射的に姫様の前へ駆け出しそうになった。
──いや、だめだ。
歯を食いしばり、足を止める。
私は執事だ。剣も、権限もない。
出ていったところで、なにもできない。
「わかっております」
そんな私の葛藤を知らずに、姫様は短くきっぱりと答える。
その返答に、迷いは微塵もない。
王子は声を荒げたまま、今度は二人の間にあるテーブルを叩きつけた。
「俺は大国の王子。そして、竜持ちだ。小さな国の田舎者の姫が、俺の婚約を断るだと!?」
怒鳴り声が、決して狭くはない応接の間に反響する。
「はい。大国の王子であろうと、私はあなたとは結婚いたしません」
姫様の声は静かだった。
怒鳴られること、自分が王子を拒否することで決まる国の命運を恐れず、王子を真っ向から打ち据える強さがあった。
普段の姫様からは想像もつかない凛とした姿を、こんな状況であるのに私は美しく思った。
「このっ……、竜も持たぬ下等の姫が……!」
その言葉に、姫様はまた声を出して笑った。
「──竜はおります」
通る声で、姫様はそう言った。
「美しい竜が、我が国にもいるのですよ」
「ハッ! ここにきて強がりを」
隠すこともしない、王子の見下げた態度に、姫様は表情を変えなかった。
「だったら、ここに連れて来い」
尊大に鼻を鳴らし、王子は腕を組んだ。
それが偽りであれば、お前を奴隷として国に連れて帰ってやる、と脅して。
もう、私に逃げ場はなかった。
胸が強く脈打ち、体に熱が巡る。これは私が隠していた竜が露見することへの恐れではなく、王子への怒りだ。
私の優しい姫様を侮辱されることが許せなかった。私の麗しい姫様を下等呼ばわりしたことが許せなかった。
私の愛しい姫様を、連れて行こうとすることが許せなかった。
――どうする。どうしたら、あの王子を見返せる?
そう思った瞬間に気配を感じた。
いつのまにか、竜が扉の外にいた。扉越しに強い念が、私の頭の中に竜の姿を写す。
『契約を受け入れろ』
いつもはギャアギャアとうるさい竜が、まるで大人を思わせる落ち着いた口調で言葉を発した。
怒りも焦りもなく、ただ真っ直ぐ私に『決断せよ』と。
私は姫様の方を一度だけ見て、竜に頷いた。
頭の中の竜が、私に額を合わせた。
以前に発生した光よりも強く、熱く、瞬く間に私たちを包みこむ。
不完全だった契約が完全となり、竜の瞳が輝いた。
『契約した』
光が収まり、竜の姿が消えていく。
その時、竜が目を細めていたずらに笑った気がした。
意識が竜から解放されると、私の目の前には姫様と王子の変わらぬ二人の姿が戻ってきた。
あまりの変わりようのなさに、今の出来事は夢だったのかとさえ疑ってしまう。
しかし、そんな私の後ろで、ミシッと壁が軋む音が聞こえた。次いで、バキッと床が揺れた感覚。
何事かと振り返った私は、ミシッバキッと増えていく音に、そして壁を破壊して現れたものに、驚愕した。
竜は、もはや私の腕に収まる大きさではなかった。
言葉を失う私の目の前で、竜が城の壁を破壊しながらむくむくと大きくなっていく。
太く強靭になったしっぽで扉を薙ぎ払うと、王子をめがけて空気が震えるほどの咆哮をした。
王子は悲鳴をあげて、腰を抜かしてへたり込んだ。
「──ね? 竜は、うちにもいるんですよ」
姫様のいつも通りの柔らかな声が、王子に届いたかはわからない。
*
王子との婚姻を回避したあと、私は言葉の限りを尽くして姫様に謝罪した。
竜を隠していたこと。王族でもないのに契約してしまったこと。
どんな処罰でも受ける覚悟を宣言すると、姫様は「処罰なんてしないわ。わかってたもの」と涙を浮かべるほど笑った。
私は決まりが悪く、姫様に問いかける。
「なぜ、私が竜を隠しているとわかったんですか?」
「んー……」
姫様は少しだけ考える素振りを見せたあと、ふわりと笑った。
「いつも見てるから、いつものエドガルじゃないのはわかったわ」
その言葉に、私は胸の奥をそっと撫でられた気がした。
「何より、あなたは竜の特徴をよく知っていたし」
姫様はそこで、私をまっすぐに見つめた。
「あなたは嘘がつけないのよ」
言い訳の出ない一言だった。
私は観念して、深く息を吐いた。
「姫様も、外のお顔はとんだ女優のようで……」
普段はふわふわとして、どこか抜けた印象のある愛らしい姫様なのに。
王子を前にした時の姫様は、まさに王族という貫禄があった。
――いや、それ以上に、国を背負う覚悟を持つ人の顔だった。
「エドガルが竜を隠しているのはわかってたから。でも、竜が出てきてくれるかは不安だったわ」
その声に、責める色はなかった。
ただ、正直な気持ちが静かに滲んでいるだけだった。
「……申し訳ありませんでした。姫様のこと、竜のこと、私のこと。立場がどうなってしまうか、いくら考えても答えが出なかった」
言葉を選びながら告げるうち、胸の奥に溜め込んでいたものが、少しずつほどけていくのを感じた。
「それでも、竜が勇気をくれました」
今、竜は私と同じくらいのサイズになっている。
答えはまだ出ていないが、姫様を助けられたことが、私にとって何よりのことだった。
「あなたの言う通り、美しい竜ね」
姫様の視線は、竜だけでなく、私自身も包み込むように温かい。
「本来であれば、姫様がこの竜と契約をするはずでした。国にとって大きな機会を、私は……」
「気に病まないで、エドガル。別に、ソフィが竜と契約することは重要じゃないわ」
「いえ、重要です。竜の権威は、王族と契約することで成り立つのですから」
生真面目に返した私に、姫様は「ううん」と首を振った。
「契約者が王族であればいいのよ」
「えぇ、その通りです。だから姫様が」
「そうじゃないのよ、エドガル」
姫様は、まるで答えは簡単なのよとでもいうように、くすくすと笑い出した。
「だからね。エドガルが王族になればいいのよ」
「……はっ?」
一瞬、姫様の言葉の意味が頭に入ってこなかった。
思考が追いつくより先に、理性が理解を拒む。
「ソフィ、お父様に進言しようと思ってるの。竜と契約したエドガルを、ソフィの旦那様にしたいですって」
「はっ???」
声が裏返ったのも無理はない。
姫様は頬を淡く染めて、嬉しそうに私を見つめた。
「それでエドガルは王族になるし、国は権威を持つし、いいことづくしでしょ?」
――旦那様? 私が? 姫様の?
――旦那様……?
「ひっ、姫様! お気を確かに!!」
「ソフィの気は確かよ」
楽しそうに笑いながら、姫様は一歩、私に距離を詰めてくる。顔が近づいた途端、熱が一気に頬に集まった。
「ソフィがお嫁さんじゃ、嫌?」
「い、いい嫌なんて!! 滅相もない!! もったいないくらいです!!!!」
「ソフィと結婚してくれる?」
「うっ、しかしっ、それはっ」
必死に言葉を探す私に、姫様は穏やかに、しかし迷いなく告げる。
「ソフィ、エドガルが旦那様なら安心して結婚できるわ」
「し、しかし……しかしっ……」
あまりの破壊力に胸が締め付けられ、声が震えた。
「姫様のお気持ちはっ……」
私の絞り出した返しに、姫様は竜へちらりと視線を向け、そして私に戻した。
「本当に、綺麗な竜ね。あなたを選んだのがソフィだけじゃないことに、ちょっとだけ嫉妬してるの」
その言葉に、私の中の理性が崩れ去った。
「エドガル、あなたの返事は?」
竜に、しっぽで背中をバシッと叩かれた。
私は震える手で姫様の両手を握りその場に跪くと、意を決した。
胸の奥で渦巻いていた迷いは、羞恥心に打ち消されてしまったようだった。
「ソフィリア姫様。……私と、結婚してください」
ぷすぷすと、顔から火が出過ぎてそろそろ煙が出そうだ。
姫様が「はい」とはにかむと、大きくなった竜の大きな舌が、横からベロンと私の頬を舐めてきた。
私は怖気だって、姫様の手を握りしめたまま大絶叫した。
その日、竜の顕現よりも姫様のプロポーズよりも、私の絶叫のでかさが一番にみんなの記憶に残ってしまったことが、何よりも解せぬことだった。




