38 行かないで…
あれはそう、リオと最後の別れを告げて、玄関で独り蹲っていたときのことだ。そのときの私は不安に駆られつつも、自分に強く言い聞かせていた。
(別に、いつものことだよ…)
いつものようにリオの背中を笑顔で見送って、帰ってくるのを楽しみに待っている。少し不安になる時もあるけど、今回はきっと大丈夫。だって、私たちには__
「…行かないで…」
そう、不意に口が漏らした。まるでもう彼とは会えないと察しているように、大量の涙を流す。そんな確証、どこにもないのに。でも私にはなんとなくわかった。彼とはもう、会えないんだと。だからどこにもやりようのない涙が大量に溢れて、私の胸を締め付けた。でもその時、私の救いになる声が響いてきて。
「うえぇぇぇん!!!」
その声は私とリオの愛の結晶の、世界一可愛いエリオの泣き声。その声は私の耳に響いて、心の奥底まで反響した。
その瞬間、私はハッと我に帰った。私の使命は、彼を信じてここで待つこと。彼に託されたエリオのことを、ちゃんと守り抜くこと。それを思い出した私は、大量に溢れている涙を拭ってエリオのもとに向かった。そこではエリオが寂しそうに泣いていて、私は反射的に抱っこをした。
「大丈夫…大丈夫…!」
エリオに…いや、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。そうするとどこか胸が暖かくなるような気がするから。
でも、その程度では私の不安は全く消えなくて、私は娘の前で涙を流してしまった。
「…ごめんねっ…。ママがこんなに泣いちゃって…っ」
娘の前では立派な母でいたい。そんな願望なんか完全に忘れて私は涙を流しながら娘の顔を眺めた。気づけばエリオは泣き止んでいて、こちらに対して不安そうな目を向けてきていた。それに気づいた瞬間に、私はもう一度我に帰った。母の私がこんなに不安そうにしていたら、きっとエリオも不安になってしまう。私がしっかりしていないと、この子に悲しい思いをさせ続けてしまうかもしれない。
というかそもそも、私が不安になり過ぎているだけだ。私の魂は彼とはもう会えないと叫んでいるけど、それがどうかしたの?リオはいつだって私の期待をいい意味で裏切ってくれて、私はそれにいつも安心させられてきた。今回だって、私の根拠のない憶測なんて打ち破ってくれるはずだ。だからもう、娘の前で泣くのはやめよう。エリオが幸せに笑える明日のために。
「…っ。ごめんねっ。ママ、ちょっとお腹が痛くて泣いちゃった。でももう大丈夫…!!元気いっぱいになったから、安心して!!」
私は少しだけ残された元気を振り絞ってエリオに笑みを向ける。するとエリオも綺麗な笑顔を向けてくれて、私の心は暖かさを取り戻した。
「さあ!朝ごはんにしよっか!お腹空いたよね?」
「ばぶっ」
「ふふ、いいお返事だねっ。じゃあ用意するから待っててね」
私はエリオを下ろし、颯爽とキッチンに向かった。そして私は何事もなかったかのようにエリオの食事の支度を進めた。まるで何事もなかったかのように。でも心には確かな傷が残っていて、私は心の中で何度も不安に駆られた。
でも私は信じることにしたんだ。私のことを優しく抱きしめてくれる、最愛の彼を。もう誰にも励まされなくても、私はエリオと二人でやっていける。
だからリオ、絶対に、帰ってきてね__。
◇
「……」
目を開いた頃には、すでに目元に潤いがあった。これは新たな美容法とかではなく、間違いなく涙である。
「…リオ…」
佳奈美は不意に、愛しい人物の名をつぶやいた。その声はまるで、先に消えた彼を追いかけた亡霊のようだった。でもそれは間違っていなくて、佳奈美は今まで彼のことを追いかけてきた。だがしかし、その声が彼に届くなんてことは勿論なくて。
「…行かないで…」
あの日、玄関で独り呟いた言葉をもし直接彼に伝えていたら。そんなありもしない妄想を、今までに何度も繰り返してきた。あの夢を見るたびに、後悔に駆られていた。入学式の日の朝と同じように。
でも佳奈美はちゃんと気持ちを切り替えていけるような強い人間に成長しているため、すぐに涙を拭って綺麗な目で天井を見上げた。
「リオ、待っててね」
前世ではこちらが待つ側だったが、今度はこちらが追いかける番だ。絶対にリオを見つけ出して、そしてまた同じように恋をする。そういった憧れの展開を胸にベッドから降りてスマホを手に取った。
するとそこには目新しい人物からの通知が来ていて、佳奈美は思わず二度見をした。
「柊くん…?」
その通知の送り主は最近連絡先を交換したばかりで、佳奈美が今世で初めて作った男友達である柊であった。佳奈美の目には彼がリオのように映っていて、会うたびに二人を重ねている。でもどうしても確証は得られなくて、どうしても一歩踏み出せずにいた。だが魂は彼がリオだと叫んでいる。そんなのあり得ないと思ったりもするが、佳奈美は知っている。自分の魂は嘘をつかないと。
それはあの時、リオと会える最後の日だと魂が伝えてくれた、永遠の別れの時のように。




