狩りと皇子
「ジーク、好きよ」
「ああ、俺もだ」
俺の言葉に、アリシアの切なげな表情が小さく歪んだ。
間近に捉えた彼女の瞳が、涙に濡れて揺れていた。
震える唇から、柔らかなつぶやきが漏れる。
愛しているわ、ジーク。一緒になりましょう。
アリシアの指が俺の頬を撫で、唇に触れてから、するりと頭の後ろに回された。
彼女が頬を寄せる。
好きよ、ジーク。
アリシアは請うように耳元でささやくと、彼女の唇が俺の耳朶を濡らした。
ブルッフザール近郊の森の中、アリシアと二人きりになった俺は、彼女に押し倒されて転がっていた。
馬乗りになったアリシアに組み敷かれて、俺は、身動きできずに固まっている。
いや、動こうと思えば動けるんだが、無理に動くとアリシアが怪我しそうで怖くてできん。
俺が下、アリシアが上、二人の力関係を考えれば妥当な体勢ではあるのだが、できれば男としてリードしたいというのが本音であった。
あと地味に背中が痛い。
アリシアに抱きしめられた俺は、刈り上げた後頭部のあたりを重点的に愛撫されていた。
後に聞いたところによると、じょりじょりした手触りがとても良いらしい。俺も気に入っている。
まさか、アリシアから襲われるとはなぁ、などと、この時の俺はどこか他人事のように考えていた。
よほど追い詰められていたのだろう。
やや諦念に近い思いが頭のなかで渦巻いていた。
そういえばアリシアは組討の名手でもあったか。
押し倒した女から、よく明かりを消して欲しいと懇願されたものであるが、この状況になってその気持ちがよくわかった。
下から見上げると、木漏れ日がとても眩しい。
「もう少しだけ待ってもらいたかったんだが」
「いやよ」
俺の懇願を、アリシアは無慈悲に切り捨てた。
さてどうしたものか…
突然の展開に困惑された方も多かろう。
話を進める前に、ここに至るまでの状況をざっと説明させてもらおうと思う。
この日、俺達はブルッフザール近郊の猟場に来ていた。
帝室が管理する大きな猟場だ。
目的地に到着早々、アリシアは言った。
「私、指弾を使いたいの。だから勢子はいらないわ。近くに人がいると危ないもの」
勢子は、獲物を追い込むのに必要だ。
よほどの名手でもない限り、これ無しでの狩りはむずかしい。
勢子に頼れない俺はほぼ坊主確定だが、アリシアと二人きりになれるならそれも悪くないかと了承した。
コンラートはプライドよりも実益を取ったため勢子を連れて行った。
メアリは勢子などいらぬと息巻いている。
ランズデールの女たちはみなたくましい。
「であれば、離れて狩ることにしましょう。流れ弾が危ないから」
そして、アリシアの宣言通り、俺とアリシアは二人きりで、他の者たちとは離れて森の中を進むことになった。
相談もしたが護衛の騎士も少し離れて行動することになった。
アリシアへの信頼の厚さゆえであろう。
そのアリシアの指弾であるが、たしかにこれが凄まじかった。
小さな球状の弾丸を指で弾くのだが、速すぎて弾の軌跡すら目で追えない。
「時々、おかしなところに飛んでいくので、戦場では怖くて使えないのですけど」
アリシアはそう言いつつも、瞬く間に土鳩三羽と牝鹿一頭を仕留めた。
鹿は大物だ。狩れれば普通は喜ぶものだが、アリシアは一瞬、面倒そうに眉をしかめていた。
無論、今ならわかる。
彼女の本命は俺だ。無駄にでかい獲物は邪魔だったのだろう。
アリバイ用の獲物を確保したアリシアは、あまり口もきかずにずんずんと森の深くへ進んでいき、周りに人がいなくなったのを見計らって、事を起こした。
アリシアは腕を俺の体の後ろに回していた。
既に俺の両の手は自由になっている。
俺は、アリシアの背に両腕をまわしてから、なだめるように軽く撫でた。
「アリシア、体を起こしてもいいか?」
「いや!逃さないから!」
「背中が痛い。あとここは寒すぎる。これ以上は無理だ」
「でも…」
アリシアは俺の体にしがみついたまま黙りこくった。
俺は体に張り付いたアリシアを抱きかかえたまま、のっそりと体を起こした。
頬を寄せられて表情まではわからないが、肌に感じるほてり具合をみるに真っ赤になっているのだろう。
押し倒してから先の事は考えていなかったな。
そう思うと少し微笑ましかった。
そもそも、彼女は軽すぎる。
いくら力が強くとも、これでは相手を押さえ込めない。
アリシアに俺を傷つける気がない以上、無理矢理はそもそも無理筋だ。
彼女の背を軽く叩いて、それから、俺は一つため息をついた。
「アリシア、主治医を通じて伝えさせてもらっただろう。貴女にはまだ早すぎる。もう少しだけ待ってくれないか」
「嫌よ。納得できない」
「貴方を妃として迎えたいんだ。頼む」
「妃だからいけないんでしょう?なら、情婦とか公娼とかなんでもいいです。あなたと一緒になれるのならなんでも」
すごい。
なにがすごいって背徳感がすごい。
アリシアの口から情婦とか公娼とかいう単語が出ると、なんかもういろいろとすごい。
頑張れ。俺の理性頑張れ。負けるな。
固まる俺の顔を、アリシアが見つめ返していた。潤んだ彼女の瞳が俺の顔を映す。
駄目だ、馬鹿になりそうだ。
頑張れ。頑張れ。
いや頑張るな。お前は頑張らなくていい。引っ込んでろ。
俺の内心の葛藤と混乱など知る由もないアリシアは俯きながら、涙を零した。
「それに、どちらにしたって私に妃は無理よ。ジークもそう思ったから、今回の旅行もこの街にしたのでしょう?」
「どうしてそう思ったんだ。あと、泣かないでくれ」
貴女が泣くと俺も悲しくなる。
「私には社交ができないから。だから社交をする必要がないこの街を選んだ。違う?」
社交。
アリシアは、社交ができない、と言った。
今日のアリシアからは、強い、そうとても強い焦燥感が垣間見えた。
あるいは恐れとでも言うべきか。
戦場を住処とした彼女にとって、社交界は、もっとも縁遠く、それゆえに恐ろしい場所であるのだろう。
なにより王国の社交界で、アリシアは爪弾きにされていた。
俺との婚約の場でみせた妃となることへの強いためらいも、ここに端を発しているのだと聞いている。
ならば、俺は彼女にはっきりと伝え無くてはならない。
「違う」
アリシアは俺を睨んだ。
「嘘よ。妃に社交は絶対必要。でも私にはできない。それじゃ、ジークに迷惑がかかるわ。ジークは優しいから…」
「いや、アリシアの社交については心配していない。嫌なら社交もしなくていい。ただ帝国の社交界が混乱するから、貴女には事前の根回しが間違いなく必要で、今回の旅行には間に合わなそうだからこの街を選んだ。この街であればいろいろと融通がきくからだ」
俺はかぶせ気味に言った。
アリシアの言葉を遮るなど、言語道断の所業ではあるのだが、理性が限界を叫んでいた。
戦場で恐れを見せぬアリシアが、こうも弱みをみせるなど、ギャップで俺の頭がおかしくなりそうだ。
故に会話の主導権を握らなくてはならない。
アリシアが訝しげな表情を浮かべた。
「どういうこと?」
「あぁ、説明しよう。できれば貴女の側仕えにも一緒に聞いてもらいたかったんだが」
俺はアリシアを抱きかかえて立ち上がると、手近な倒木に腰かけた。
ずっと腕の中に抱えていたかったが、俺もいろいろと限界が近く、泣く泣く隣に彼女を下ろした。
アリシアはすとんと腰を下ろすと、近い方にある俺の手を両の手で握ってから身を寄せた。
「まず一般的な皇子と皇子妃の義務としての社交について説明しよう。皇子の義務的な社交というのはな」
アリシアが頷く。
心して聞いてくれ。これが現実だ。
「金と地位と名誉と女のためにするものだ」
俺は断言した。
アリシアは目を丸くした。
「俺は全部持ってる」
「そうね」
アリシアは頷いた。
そうとも。
ところで俺の女とはつまりアリシアのことなのだが、彼女は気づいているのだろうか。
「次に皇子妃の義務としての社交だが、これもまた夢がない。皇子である夫の金と地位と名誉のためにすることになる。貴女はただいるだけでそれらすべてを俺にもたらす。故にアリシアにも義務としての社交はいらん。義務としてはな」
アリシアが驚いた顔を浮かべた。
思わずため息が出る。
彼女はとても理知的な女性であるが、自身の事に関してだけは、よく認識違いを起こす。
「どうやらアリシアには、綺麗な鏡が必要なようだな」
俺が笑うと、アリシアは居心地悪そうに視線を逸らした。
ステイシー「皆が大好きなのは?」
メアリ「酒とっ!!!」
ジークハルト「女ぁ!!」
アリシア「あと金ぇ!!」
クラリッサ「よくわかった。帝国は滅亡する」




