皇帝陛下とわたし
私はジークの執務室でお仕事をしていた。
いや、一応言うと私は休暇中だ。
公的には、産休と言うことになっている。
でも、私はこういう、こつこつした仕事は嫌いではないのだ。
良い気分転換になるからね。
事務処理とか、ばんばんと決済印を押して、紙の束を積み上げていくと、お仕事をした気になれて楽しいのである。
「いや、『した気になる』じゃなくて、しているからな」
私が適当な感想を口にすると、ジークが、あきれた顔で私をたしなめた。
そうかな。
お役に立てているようで、私も嬉しいです。
えへへ。
「明日もこれだけ仕事がある……」と考えるとげんなりしてしまうが、先のことを考えずに済むと楽しい存在になる。
休日出勤がちょっと楽しい理由である。
ジークは、ばりばりの仕事人間なので、私の感想にすごい勢いで同意してくれた。
ワーカーホリックな夫婦だね。
二人で仲良く書類の山と戦っていると、私達とは対極の人生哲学を持つ人物が執務室に訪ねてきた。
その人物とは帝国皇帝にして、我が未来のお義父さま、フリードリヒ三世陛下である。
陛下は、執務机に二人並んで仕事をする私達を一瞥してから、あきれたように口を開いた。
「なんだ、もう嫁に手伝ってもらっているのか」
「正直、軍務関係は丸投げしたいと思っている」
ジークの率直すぎる感想に、陛下が苦笑した。
フリードリヒ陛下は、お仕事が大嫌いな自由人だ。
ご本人はとても有能な方なのだけれど、ガンガン周りに仕事を回してご自分の余暇を作っている。
ちゃんと皇帝としての仕事はしているし、信頼できるので助かっているとジークは言っていた。
あと、お仕事をしない皇帝は、皆に歓迎もされているようだ。
適度にサボるのに、心理的抵抗がないらしい。
たしかにトップが仕事人間だと、下で仕える人間は大変だろうなぁと、ジークを見ていて思う。
第一皇子の側近は、宮廷で一番の激務にさらされると言う評判を、私も耳にしたことがある。
ちなみに皇帝陛下の側近も相当な激務だ。
ジークは仕事を引き受けてしまうので、周囲が忙しくなるが、陛下は仕事を押しつけてくるので、側近が忙しくなるのだ。
ゆえにどっちの職場も、上昇志向の高い人材が集まっていく。
胃薬の平均消費量は、ジークの側近の方が上らしいけどね。
ジークは椅子に座ったまま大きく伸びをした。
私は、お義父さまに椅子を勧めたのだが、用事はすぐ済むから不要とのこと。
「ジークハルト、アリシアには図書室の鍵を渡しておこうと思う。お前から見て、異論はあるか?」
「無論、異議は無い。だが婚姻前に渡すのか?」
「ああ、問題あるまい」
二人の間では、何やら意味が通じているようだ。
どうも、私の事であるようだけど、図書室とは何のことだろうか。
一応言うと、私は、本、好きだよ。
帝国大図書館の利用者登録証も作ったぐらいである。
今のところ、小説のコーナーしか行ってないけどね。
お義父さまが、その「図書室」なるものを案内をしてくださるそうで、私は陛下の後ろをついて行った。
「図書室とは何ですか、お義父さま」
「皇帝と皇帝が認めた人間だけが入れる資料庫だ。今、入れるのは私とジークハルト、それにカートレーゼと第三夫人だけだ。アリシアで五人目だな」
ちなみに、第三夫人は書物の管理などをする司書さん役を兼任しているらしい。
いいな。
私もお手伝いしてみたい。
何度も言うけど、私は本が好きなのだ。
何しろ、アリシアは、知的な女であるからね。
「図書室には側近も入れない。これでアリシアが普通の女だと、俺と二人きりになるのはまずいのだがな。その点、気楽で助かるぞ」
私の横で陛下が笑う。
陛下は身軽さを大事にする方で、お付きの人を連れていないこともよくある。
今も二人きりだ。
実は私も、殿方と無闇に二人きりになったりしないように、気をつけている。
お義父さまは、血のつながらない男性なので、配慮が必要なのである。
何かあったら、お義父さまがお義母さまに怒られちゃうからね。
微妙に女扱いされていない気もするけれど、私は信頼の証と受け取っておくことにした。
「逆にお伺いしたいのですけれど、陛下は、私と二人きりで心配にならないんですか」
「あの朴念仁のジークハルトにも愛想をつかさないアリシア嬢に、俺がなにかされるわけがないだろう」
俺はあれより、よほど女の扱いが上手いのだ。
陛下はそう言って笑った。
皇族限定のセレブ的図書室は、両陛下の私室へと続く通路の先、皇宮でも奥まった場所にあった。
がちゃりがちゃりと部屋の鍵を開けてから、木製の重い扉を開くと、室内から廊下に明かりが漏れ出してくる。
図書室の中はとても明るい。
壁の柱に、狭い間隔で照明の魔術具がかけられているのだ。
部屋の中に漂う紙の匂いと相まって、ちょっと雰囲気がある。
良いなぁ。
また今度、ジークと二人きりで来よう。
「有事にもすぐに利用できるよう明かりは一日中ついている。いざと言うときの避難所でもある。必要なら覚えておいてくれ」
なるほど。
逢い引きの場所に使うのは控えた方が良いかもね。
この図書室は、一日中、いつでも来られるそうだ。
広さは、大会議室と同じくらいで、ほとんどのスペースには、頭の高さぐらいの重厚な本棚が、等間隔に並んでいた。
部屋の中には大きなテーブル席が二つ。
そこに、ばらばらな意匠の椅子が、全部で六脚置いてある。
後に聞いたところによると、自分の椅子を入れても良いし、余っている椅子を使っても良いそうだ。
私は、陛下のお母様が使っていたという、背もたれのない椅子を借りることにした。
「気になる本があれば、好きに見てくれて構わない。色々と面白いものもあるだろう」
お義父さまの言葉に従って、私は書棚を見て回ることにした。
歴代皇帝の手記や、機密っぽい書類もある。
併合した国とやりとりした外交文章なども収蔵されていた。
王国の宰相との密約も、この中に収められているに違いない。
歴史的書物に私はどきどきである。
書棚を見ていた私が目にとめたのは、転生者名鑑という名の分厚い本だ。
昔からあるようで、数年ごとに発刊されているものらしい。
たしかコンラートが転生者であったはずだ。
最新刊を手にとってぱらぱらとめくる。
コンラートの名前は確かにあって、彼の以前の職業欄には、会社員と記してあった。
メアリの恋人は、昔は務め人だったのか。
ちょっと意外なような、でもしっくりくるような、不思議な感じである。
でも、今も公務員だから、そう違いはないのかもね。
名鑑をぱらぱらとめくる。
意外と、たくさんの転生者が帝国で活躍しているようだ。
面白い職業もちらほら見える。
ひよこ鑑定士とか、なんだか楽しそうである。
私が元大工のカミサク・タカヒトさんの個人情報を眺めていると、本棚の向こうでお義父さまが手を振った。
「こっちに来い、アリシア。俺のコレクションを見せてやろう」
「はい、陛下」
呼ばれて、私はお義父さまの元へと向かう。
陛下は、ずらーっと順番に番号をふられた本が並ぶ書棚の前に立っていた。
促されて、適当な一冊を手に取りぱらりと開く。
その文庫サイズの本の中には、ちょっとデフォルメされた感じのキャラクターが、沢山描かれていた。
私が開いたのは、青年が仲間の死に怒り狂い、髪の毛の色素が抜けてしまうシーンであった。
この人は魔法使いだな。
「これ、漫画ですか」
「ああ、そうだ。転生者に、向こうの娯楽を持ち込ませているのだ。絵が上手い人間がいてな。記憶を頼りに描かせている」
私は、本をあらためた。
肉筆で描かれているので、一品物だろう。
収蔵されている蔵書の数を見るに、相当な手間がかかっている。
いくらぐらいかかるのだろうか。
いや、その前に、まずは一番肝心なところ聞いておかねばなるまい。
「この漫画、面白いですか?」
「ああ、とても面白いぞ」
女性向けの漫画もあると言うことで、お義父さまに案内してもらった。
私が、見せてもらったのは、目が大きくてぱっちりした女の子が主人公の漫画である。
メアリよりもさらに目がくりっとしていて、瞳の中では沢山のお星様がきらきらと輝いている。
彼女の瞳の中には、もう一つの宇宙があるのかもしれない。
この子が可愛いのか。
ううむ。
私は、しばらく読み進めたが、私と似た雰囲気の女の子が悪役とわかった時点で、読むのを止めた。
ヒロインの女の子がメアリに似ていて、私は心を折られたのだ。
漫画の中でもメアリに負けそうな私は、ちっぽけなプライドを守るため、本をそっと閉じてから元あった棚へと戻した。
お義父さまは、私の様子を含み笑いで眺めていた。
さてさて、私の内心は、どこまでばれちゃったのだろうか。
一通り見て回った私に、陛下が金属製のごっつい鍵束を渡してくれた。
全部で三本の鍵がある。
「鍵を渡しておく。出るときには施錠を忘れるな。肌身離さずとは言わないが、管理には気を付けてくれ」
「はい、わかりました」
それから私は、陛下と別れジークの執務室に戻った。
ジークに図書室に行って漫画を読んできたと話したら、彼は、今度一緒に行こうかと言ってから、また書類に視線を戻した。
図書館デートだね。
今から楽しみである。
さて三度目になるが、私は本が好きだ。
特に恋愛小説が好きなのだが、それ以外も沢山読む。
雑色系本の虫である。
この秘密の図書室は、機密というだけあって、他所ではお目にかかれないような黒い書物や、稀覯本が沢山収められていた。
私は暇を見つけては、ちょくちょく顔を出し、面白そうな本を見繕ってせっせと読みふけった。
一度、土木関連の技術書を読んでいたら、陛下やジークに驚かれた。
その内容は、転生者の方が著したとても先進的な本である。
「流石アリシアだな。『剛性率』だの『せん断応力』などと言われても、俺にはさっぱりわからぬ」
「いえ、私もよくわかりませんけど」
実家の屋敷が、地元の農民共から、ぼろいぼろいと言われるので、立て替えを検討していたのだ。
せっかくなら、大きくて頑丈で強くて快適な家にしてやろうと考えた私は、未知の技術にそのヒントを求めたのである。
残念ながら私にも、本の中身はわからなかった。
とりあえず鉄筋を組むにも、今の私達だと用意出来る鋼材が全然足りないので、同じ建物を作れないっていうことだけはわかった。
五十階建てぐらいのでっかいタワーを作ってやろうかと思ったのだけど、駄目そうで残念だった。
図書室ではお義父さまと、良く顔を合わせた。
一方で、本好きなはずのお義母さまと、会うことは少ない。
お義母さまがお好きな本は、詩文や一般向けの楽しい本なので、あまりご用がないのかもしれない。
などと、と思っていたら、お義母さまは「あのお部屋、一人でいることになるから怖いのよ……」と弱音を聞かせてくれた。
それを聞いた瞬間、あまりのかわいらしさに、私の心臓からきゅぅって音がした。
これが、萌えというものなのか。
私は図書室で、ちょっとだけ物知りになっていた。
私は、その日、帝室の歴史について調べていた。
帝位継承の裏話などものっている、なかなかにディープな内容のお話しである。
当然、持ち出しは禁止だ。
世に出れば、間違いなく帝国中ひっくり返しての大騒ぎになる。
どきどきだね。
帝国の歴史はなかなかに古く、実は今の皇帝専制に落ち着いたのは、ほんの三代前のことなのだそうだ。
その前は、議会や元老院の力が大きく、皇帝はその見張り役と調停者を兼ねていた。
歴史の中では、議会と皇帝でルール無視の場外乱闘が、繰り広げられたこともあったようだ。
ちょっと楽しそう。
もし私がその時いれば、皇帝の代理人として議会関係者をばったばったとなぎ倒す、皇子妃アリシアの姿が見られたはずだ。
今の帝国の体制は、ある種の市民革命を経た結果であった。
腐敗した議会政治に対して、民衆の支持を受けた皇帝が挑戦状を叩きつけ、これを撃破、その後断罪の大なたを振るって今の形におさまったのだ。
以来、皇帝は民意や議会などからも完全に独立した主権者として、帝国の統治にあたっている。
皇帝は、その統治に一切の制約を受けないことが、現在の帝国憲章に明記されているのだ。
憲法っぽいものは何個かあった。
でも皇帝がその気になれば変えることもできるようだ。
「専制が嫌なら土地をくれてやるから、他所で国を建てろ」
この台詞は、三代前の皇帝のものである。
その人となりがうかがえるね。
私とも仲良くなれそうである。
そして、もう一点気になったのは、全ての皇帝が、六十歳手前で後継者に譲位をしていることだ。
老化による判断力の低下は必然であるとして、それに先んじて譲位を行うよう勧める内容であった。
その裏側には、皇帝の「年取ると、皇帝の仕事、しんどい」という本音がにじみ出ていて、思わず顔が引きつってしまった。
やっぱり、帝国の皇帝はなかなかの重責なのだ。
なんとなく伝統で、「王様が統治すれば良いよね」でやってきた王国とは、重みが違う。
私は次期皇帝となるジークを思い、そして、目の前で漫画本を読みふけるお義父さまを見て、唸った。
私の視線を感じた陛下が、読んでいた本から顔を上げる。
本の中に、可愛い女の子の絵が描かかれているのが、垣間見えた。
似合わぬ。
いや、むしろ似合うのか。
とりあえず格好いい人は、なにしてても格好いい。
私がじっとしていると、陛下が片眉を上げた。
「なんだ、聞きたいことでもあるのか、アリシア」
陛下のご下問だ。
特に疑問あったわけではないのだが、折角の機会なので、私は前から気になっていたことを尋ねることにした。
「陛下は、皇帝の地位が嫌になったりしたことはありますか」
「無いな」
陛下は断言した。
「そもそも、帝位を重責と思ったこともない。私は皇帝だ。絶対的な権力者だ。その人間が、なぜ周囲に配慮する必要がある? 好きにしていれば嫌になることもないだろう」
「意外です。陛下は、名君との呼び声も高い。為政者としての義務を完璧に果たしておられるというのが、世評でございます」
私の率直で無礼に片足を突っ込んだ物言いに、陛下はにやりと口元をゆがめた。
議論が白熱しそうな気配を私は感じた。
陛下が、漫画本を閉じる。
後に私も目を通したが、青春恋愛物の傑作で私のお気に入りのシリーズとなった。
「為政者の義務など、馬鹿馬鹿しい。俺は、そんなものに縛られる気はさらさらないぞ。そもそも歴史上、どれだけの君主が為政者の義務などという物を果たしてきた? 王国を見るがいい。あのジョンでもアリシアに打倒されるまで王だったのだぞ」
陛下が仰るとおり、あの男は、義務を果たすどころか害ばかりを振りまいていた。
でも国政はなんとか回っていたし、帝国の存在が無ければ、彼が打倒されることもなかっただろう。
「新王のアリシアにしたところで、必要に迫られて王位を奪っただけだ。ジョンの馬鹿息子から手出しされなければ、簒奪など考えもしなかっただろう?」
「……はい」
返す言葉もないとはこのことだ。
私は、好きで女王になったわけではない。
ついでに、王位を手放したくて仕方が無いことも見抜かれていそうだ。
皇帝陛下はふんっと鼻息を吹き出した。
だが、陛下が気にかけていたのは、不心得な女王アリシアではなく、彼の息子のことだった。
「その点、ジークハルトも心配だったのだ。あれは周りに気をつかいすぎる。皇子としての義務などというものを本気で考えている」
「そこが、彼の良いところですわ」
私が、ぐっと拳を握り込む。
嫁の惚気に、陛下は楽しげに口元をゆがめた。
ジークは本質的に善良だ。
戦うべき時には戦うし、遊ぶときには遊ぶけれど、決して道理を外れたりすることはない。
それは、彼自身の気質もあるけれど、それ以上に自らを律するところが強いのだと思う。
例えば、敵将アリシアに対する処遇などがそれだ。
「ジークハルトは善良で真面目だ。だが、名君になれるとは限らない」
陛下は語った。
暗君には二種類いると。
一つは生来の愚か者だ。最初から君主としての資質に欠けた者。
もう一つは、名君を目指し理想に破れた君主だ。周囲からの外圧によってその志を折られた人間である。
「真に危惧すべきは、後者だ。心が折れた元名君は、無気力に陥るか、あるいは報復に走るかのどちらかだ。どう転ぶにせよ、元の能力が高いだけに、非常に面倒なことになる」
もともと統治能力が無い人間であれば、家臣なり議会なりが権力を奪ってしまう。
ジョンの場合も、実態としては宰相シーモア公が専権を振るっていた。
だが、ジークが暗黒面に落ちた場合、他の人間が、彼から権力を奪うことはできるだろうか。
誰も勝てなそうだ。
ゆえにとても難しいことになるだろう。
ここで陛下がふっと表情を和らげた。
お父さんっぽい顔である。
うちのお父さんとはちょっとちがう、理知的な感じのお父さん臭さだ。
うちの父は、まあポジティブに表現するなら野性的って感じだ。
察してくれ。
「ジークハルトは柔軟な男だ。そう簡単に折れたりはせんだろう。そこに、貴女がいれば、道を過つこともあるまい」
陛下の信任に私の胸が熱くなる。
お義父さまは、ジークの隣に立つ私を信じてくれているのだ。
「もし、ジークハルトが疲れたと言ったら、貴女はどうする」
「仕事を辞めさせます」
「よろしい」
私は、断言した。
ここで、「彼を支えて頑張ります」と言わない辺りが、私の私たる所以だ。
国とかいう全体のために、誰かが犠牲になる必要など無い。
それが私の哲学である。
個人に寄りかからないと立っていられない、そんなひ弱な国など滅んでしまえ。
私は、本気でそう考えている。
「これなら、安心して後を任せられるな」
そして、皇帝陛下と私は、お互いの認識を共有してから、満足げにうなずきあった。
この人とは、とても気が合う。
直感でそう感じていたけれど、私は話してみて改めてその認識を強くした。
考えてみたら、私は女王で、お義父さまは皇帝だ。
この世で数少ない君主仲間なのである。
「しかし、俺は安心したぞ、アリシア。貴女が、頭でっかちな良い子ちゃんでなくて良かった」
「ああ、それは私も同感ですわ。君主とはこうあるべきだなどと言われたら、サンダルを投げつけてやりたくなりますもの」
全くだな。
陛下はそう言って楽しげに笑った。
うんうん。
私は、満足げに心の中で頷いた。
そして、そんな気の合う陛下には、釘を刺しておく必要もあるだろう。
私は本題を切り出すことにした。
「では陛下、私からお願いがございます」
「なんだ、改まって。何でも言ってみろ」
今、なんでもって言いましたね、お義父さま。
私はにっこり微笑んでから、とっても大事なお願いを陛下に向かって放り投げた。
「譲位するのは、お義父さまが六十歳になってからにしてくださいませ」
そしてお義父さまは固まった。
話していて、改めて実感したのだが、お義父さまは、皇帝の地位に固執していない。
自由に生きられるなら、それが一番な人だ。
彼は、自分が自由に振る舞うために、善政を敷いているのである。
そして今までは、他の人間に委ねられないから、帝位をずっと抱えてきた。
けれど、今、陛下はジークのことを、後継者として十分だと判断している。
なら、いつ譲位するの?
今でしょ!
という感じに、思考が流れるだろうと、私は予想したのである。
私は、お義父さまの考え方に、大変強い共感を抱いていた。
私がお義父さまと同じ立場なら、間違いなく譲位する。
怠け者のアリシアには、陛下の考え方をなぞることなど容易であったのだ。
陛下は、空疎な笑顔ですっとぼけた。
「なんのことかな」
「帝位の事ですわ。ジークに押しつけて、後は楽隠居で人生最高の展開だとか、考えておいででしょう?」
皇帝よ、絶対に逃がさんぞ。
お義父さまの視線が泳ぎ始めるのを、私は三白眼でにらみ付ける。
口約束でも良い、ここで陛下から言質をとっておきたかった。
「私は、ここでお約束を頂きたいのです。陛下には六十歳の定年まで、頑張って皇帝を勤めあげて頂きたい」
陛下はとぼけるのを止めて、ぐぬぬと顔をしかめた。
酷い顔である。
そのお言葉も、お顔に相応しいないようであった。
「いや、冗談ではない。私は譲るぞ。帝国の皇帝だからな。王国の君主による内政干渉には断固として抗議する」
「でしたら、皇帝になったジークに、帝位をお義父さまへと戻してもらいますわ。皇帝なのですから」
そしてここに、舅と嫁による、第一次帝位押し付け合い合戦が勃発した。
「なんでアリシアが、ジークハルトの代理人面して交渉してるんだ」
とか言ってはいけない。
私も、「あれ、なんで私、ジークが皇帝になるのを邪魔してるんだろう?」とか一瞬疑問に思ったけれど、気にしないことにしたのだから。
「絶対に辞めるな」
「嫌だ、アーリーリタイアだ」
二人の国主が顔つき合わせて、つばぜり合いを繰り広げる。
低水準の争いはしばらく続いたが、一歩も譲らぬアリシアに対し、お義父さまがついに白旗をあげた。
喉が枯れてしまったのだ。
図書室には侍女さんがいないので、長時間おしゃべりすると喉が渇くのである。
しわがれた声で呻きつつ、陛下は仰った。
「貴女の言い分はわかった。五十五歳だ。その歳までは我慢しよう。だがそこまでだ。そこでジークハルトに帝位を譲る」
私は顎をなでる。
陛下が五十五歳となると、その時ジークは三十一歳。
五年と少しの期間があれば、気楽な皇子生活を楽しむ時間的余裕はあるだろう。
もちろんその間、皇子妃の私も人生を楽しむつもりだ。
皇帝になったら、真面目なジークは頑張っちゃうだろうし、その前に思いっきりロイヤルな生活を楽しんでおくのである。
もうちょっとのんびりしたい気もするけど、頑張ってきたお義父さまのことを考えると、あんまりわがままも言えないかな。
嫌そうに顔をしかめたお義父さまに対し、私は腕を組み、ふてぶてしい態度で了承の返事を返した。
「わかりました。それでようございます、お義父さま」
お義父さまは大きく安堵の息をついた。
陛下の端整なお顔には、「なんとか厄介な嫁を納得させたぞ」、という実感がありありと浮かんでいる。
「しかしあれは、とんでもない嫁を連れてきてくれたものだ。まさか俺がやり込められるとはな」
してやられた格好のお義父さまが、その手で自分頭の横を乱暴に撫でる。
憎まれ口をたたきつつも、声音は楽しげだ。
今回は負けてやろう。
そう、ジークと同じ茶色の瞳が言っていた。
私もほっと息を吐く。
生意気言っちゃった自覚はあるのだ。
強気の交渉をした後だ、私はフォローのために、露骨な媚びも売っておいた。
実は、最近、色仕掛けも試しているのだ。
時々成功すると、すごい楽しい気分になれる。
一転して、私がきゃぴきゃぴした感じで纏わり付くと、義父さまは猜疑の表情をうかべつつも、最後はでれでれと喜んでくれた。
よしよし。これで将来は安泰だ。
いざとなったら、お義母さまに密告しちゃうのである。
図書室から戻った私は、この武勲をジークに報告した。
婚約者による譲位突き返しの報を聞いたジークは、「でかした、流石はアリシアだ」と私を褒めてくれた。
それから私をお膝に載せて、体をぎゅっと抱きしめてくれる。
ああ。
素敵なご褒美に、アリシアは大喜びだ。
私は大満足の吐息を吐き出しつつ、「これからも頑張るぞ」と意気込みを新たにした。
なお、後日、お義父さまに私がお触り含めて媚びを売ったことが発覚し、お義母さまがお義父さまと喧嘩して、それから仲良くなっちゃう事件が発生した。
一方の私は、当然のごとく、ジークにベッドの上でいじめられた。
ジークハルト「生前譲位だぞ」




