アリシアの旅と皇子
作品の軍事的な考証に関するスタンスを活動報告に記載しましたので、ご興味がある方はご確認ください。
一言でまとめますと、議論になりやすいので、メッセージでオナシャスになります。
また、書籍版の校閲を実施しました。
すっごい量の修正がまた出てきました。本当に申し訳ない。お手数をおかけして恐縮なのですが、必要に応じて再ダウンロードをお願いします。
古い王国が抱えていた課題は、粗方が片付いていた。
すべて女王アリシアの働きによるものだ。
王国の状況が峠を越えたと判断した俺は、帝国への帰還をアリシアに提案した。
「そろそろ出発しよう。帝国に行こうか」
この言葉を聞いて、アリシアは、とても嬉しそうな顔をした。
とても、とても嬉しそうな顔をしたのだ。
嫁入りを楽しみにしてくれているのだろう。
そう考えた俺は、とても嬉しかった。
だからいつもの軽口が出た。
期待しているぞ、と。
アリシアは、花開くような笑みで頷いた。
そしてアリシアが、出発の日の衣装として選んだのは、情熱的な真っ赤なドレスであった。
ひらりひらりと裾をゆらし、アリシアが俺の前に立つ。
赤いドレスの色が透けるように、彼女は頬を染めていた。
胸元の布地が頼りない。
男の視線は、どうしてもそういう場所に向かってしまう。
二の腕もむき出しになった大胆なドレスは、いつになく背伸びした印象であった。
彼女自慢の銀髪も、丁寧に編み込んでから背中の後ろへと流している。
いつも以上に気合が入った装いだった。
だが、赤か。
白かと思ったんだが、赤も似合うな。
いや、何でも似合うのか。
「どうかしら、ジーク」
アリシアが、謎のポーズを決めつつ微笑んだ。
俺は、飛びかけていた魂の尾をつかんで、体内へと引っ張り込む。
戻ってこい、ジークハルト。
アリシアと付き合い始めて、もう半年以上になるだろうが。
何回意識を飛ばす気だ。
だが、あの謎のポージングが無ければ、危なかったかもしれない。
よくやった、アリシアの色気を損なう守護精霊よ。
「ああ、綺麗だアリシア。すまないな、思わず言葉を忘れた。しかし、相変わらず手を突っ込みたくなるな」
「もう、ジークったら、またそんなことを言って」
アリシアは、楽しそうに笑った。
見とれたのは事実だし、触れたいと思ったのも本心だ。
だが本音は、もっと男らしいものだという自負がある。
手を突っ込みたくなるとか、そんなぬるいものではない。
俺は、スカートを引きはがしたい衝動に襲われていた。
そして、アリシアの下着の色を確認したい。
実際にやったら、本気で殴られるだろうな。
アリシアは、読心術は持ち合わせていない。
彼女は、俺の邪しまな心には気付かぬまま口を開いた。
彼女の唇がこぼしたのは、アリシアのおねだりであった。
「ジーク、お願いがあるんです」
「なんだ、何でも言ってみろ」
俺はもったいぶるアリシアを促した。
彼女は、もじもじと悩む様子を見せてから上目遣いで俺を見る。
「行列では、私と二人乗りしてくださいませ」
アリシアによる正面切ってのお願いだ。
なんだか、久々な気もするな。
彼女の要望は、二人乗り。
乗馬の二人乗りのことだろう。
俺は悩んだ。
目の前で楽しそうに笑う、年若い女王の方を見る。
彼女は、王国の象徴であり、同時に美しい偶像でもあった。
二人乗りでは、そんなアリシアを自分の膝の間に乗せて、乗馬を歩ませることになるわけだ。
密着した体勢で、二人一頭の馬に乗り城門まで歩くことになる。
密着した体勢で。
うむ。
ところで、話しは変わるのだが、王国人の半数は男だ。
王都に住まう人間についても、その比率は変わらない。
今回の花嫁行列には、大勢の観衆が詰めかけることだろう。
その半分は、逸物をぶら下げた男と言うことになる。
そんな男共にとって、アリシアとはどんな存在であるのだろうか。
俺は彼らの心情に思いを馳せた。
アリシアは、何度も言うが、美しい女性である。
勇猛な女将軍でもあるし、天真爛漫な娘でもある。
彼女は、市井に暮らした期間も長く、ゆえにその人となりは広く知られてもいた。
本人は、モテないモテないと不満を言うが、それは恐れ多さの故である。
男は、なんとなく神秘的な存在には、触れずに綺麗なまま取っておきたいという心理が働くのだ。
だが、本心ではそんな存在を独占したいとも思っている。
詳しいだろう。
俺もそんな内の一人だからな。
はっきり言えばアリシアは、今現在、王都で嫁にしたい女、ぶっちぎりのトップなのだ。
そんな女をこれ見よがしに膝に抱き、いちゃこらしながら国外へと連れて行く男が一体どう見られるか。
特殊性癖持ちの男を除き、危険な感情を抱くであろう事は疑いない。
何がとは言わないが、奴らは、皆、心の中で思っているはずなのだ。
もげろ、と。
「月のない夜には、気をつけてくださいね」
俺は、いつか聞いたクレメンスの言葉を思い出していた。
奴が口にするには不適切極まりない台詞である。
だが、この言葉こそが、俺に向けられる男共の本音なのだ。
お願いモードのアリシアは、きらきらした目で俺を見つめていた。
周りの状況がどうであれ俺に拒否権はない。
俺は、首肯した。
「わかった、アリシア。俺も準備をしておこう」
「やった! よろしくお願いしますね、ジーク」
アリシアは、嬉しそうに手を打ち合わせ、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。
前屈みになった彼女の胸元に、見逃せない隙が出来た。
こらこら、アリシア。
そんな薄着で、激しく動いてはだめだぞ。
俺は綺麗な作り笑いで、内心の劣情を取り繕った。
俺の気などつゆ知らず、アリシアの気分は上昇気流に乗っていた。
ふったりのりー、ふったりのりー。いっさしぶりの、ふったりのりー。
調子の外れた鼻歌をアリシアは口ずさむ。
スキップせんばかりの浮かれた足取りで、彼女は自室へと戻っていった。
俺はにこやかに、無邪気なアリシアを見送った。
バタンと扉が閉ざされて、アリシアの姿が視界から消える。
俺は、瞬時に真顔に戻る。
「準備をする。俺の防御を整えろ」
「はっ」
俺は従卒に、煙幕を出す手投げ弾を三つと、愛用の馬上槍を用意するように命じた。
帯剣も儀礼用ではなく、大規模戦闘用の魔剣に切り替える。
服の下に鎖帷子を着込むことも考えたのだが、手触りが硬いとアリシアに嫌がられる恐れがあった。
心許ないが、普通の軍服でいくしかあるまい。
魔術具で、一応の守りは固められるはずだ。
王都の男共は、隙があれば俺の命かタマを狙いに来るはずだ。
俺にはその確信があった。
俺は王国人から見れば他国の人間だ。
アリシアの伴侶である俺を積極的に害しようとはしないだろうが、箪笥の角で小指をぶつけろぐらいには考えているはずである。
それが場の熱狂に押されるがまま、エスカレートしないとも限らない。
俺は、臨戦態勢を整えつつ、出発の日に臨んだ。
そして、王都出立の日。
俺は、俺の危惧が杞憂では無かったことを思い知らされた。
俺は、彼女の要望通り、アリシアと二人で馬に乗っていた。
沿道には群衆が詰めかけている。
内戦の勝利、数々の改革、外敵の排除。
登極からわずかな期間で成し遂げた、アリシアの事績は枚挙に暇無い。
絶大な人気を誇る女王アリシアは、その幸せを祝福され、王国を旅立つことを惜しまれていた。
とある王都の市民は言ったそうだ。
「なぜ、陛下が嫁入りするのだ。帝国の皇子が女王陛下に合わせるべきだろう。結婚式も王国で挙げれば、良いじゃ無いか」
面と向かって、俺に物を言う王国人はいない。
だが彼らの視線は、言葉以上の雄弁さで、俺に不満を告げていた。
アリシアに、にこやかに手を振っていた人間の視線が、俺のものとぶつかった瞬間に氷のように冷え込むのだ。
俺の首筋を、ぴりぴりとした殺気が撫でていた。
紙吹雪の一枚一枚が、鋭利なカミソリの刃のようだ。
思わずアリシアの腰を抱きよせると、アリシアは嬉しそうに身を捩り、その腕を俺の首筋に回した。
そして、俺にたたきつけられる殺意の波動はいや増した。
王国人は物騒すぎる。
殺気を隠そうともしない。
俺は、落ち着かない様子の馬を宥めながら、己が不明を恥じていた。
俺は甘かった。
とてもとても甘かったのだ。
俺は、脅威に備えたつもりであった。
だが、その対象を見誤っていたのである。
当初、俺は王都の男共が敵に回ると踏んでいた。
だが、それは違った。
俺の敵に回ったのは、男だけでは無かったのだ。
ああそうとも。
女も敵に回っていた。
なぜ俺は異性が敵に回らぬなどと、安易にそう考えられたのか。
今や、俺を見る視線は、老若男女を問わず脅迫染みた色に染まっていた。
彼らは目線で訴える。
アリシア様を大切にしろ。
泣かしたら、お前も泣かす。
見れば若い娘が、俺の顔を厳しい目で見つめている。
俺は、帝国で年頃の娘からメンチを切られることなど一度も無かった。
実に衝撃的な体験である。
王国の女達にとっても、女王アリシアは誇るべき存在であった。
アリシアは、同性に対する法や施策についても、数多くの見直しを行ってきたからだ。
特に女性の自由について、アリシアはいくつかの道を開くことに心を砕いていた。
そんな彼女らからすれば、帝国の皇子など大事な女王をかっさらっていく悪役でしかないのである。
一歩間違わなくても、世慣れぬアリシア陛下を拐かした悪い男扱いであった。
酷い。
俺が何をしたというのか。
アリシアを帝国にもらっていきます。
だめだ。
これは有罪判決を免れない。
俺は釈明を諦めた。
「ジーク、皆が見ていますよ。私、綺麗に見えるでしょうか」
アリシアは足をぶらぶらとさせ、長いドレスの裾を楽しげに揺らしていた。
体をそっと俺に寄せ、手を俺の腕に這わせる。
俺は、彼女に答えた。
「ああ、とても綺麗だ、アリシア。綺麗すぎる。たとえ王都の全てを敵に回そうとも、俺は貴女を離さないぞ」
俺の悲壮な決意表明に、アリシアは、きゃはーと華やいだ声を上げた。
アリシアの輝く笑顔が、俺にはとてもまぶしかった。
この歯の浮くような言い回しが、口説き文句のように聞こえたのだろう。
アリシアは、浮いた台詞が大好きなのだ。
彼女はとても幸せそうであった。
しかし、対する俺の表情は、真剣そのものだ。
なにしろ、冗談を言ったつもりはないからな。
俺はその時、決死の逃避行の手順について脳内で反芻していたのである。
周囲の護衛を確認する。
クレメンスを置き去りにすれば、時間稼ぎにはなるだろう。
騎兵隊を散開させて乱戦に持ち込み、その隙に城門までの道を切り開くのだ。
初動で、どれだけ距離を稼げるかが俺の命運を分けるはずだ。
俺の敵中突破に関する想定は多岐にわたり、そのいずれのケースでも俺は重傷を負ってアリシアに助けられていた。
うーむ、これは、情けない。
幸いにも、王都の民は暴徒にはならず、俺たちの行列は平和裏に進んでいった。
アリシアは道すがら、群衆に愛想良く手を振っていた。
時には投げキッスまでしてみせた。
とてもご機嫌なアリシアは、無償のサービス精神に溢れていた。
俺との温度差が、すさまじい。
温いアリシアと凍えるジークハルト。
俺の肌は、結露のように冷たい汗をふきだしてた。
群衆がひしめく中央街路を通り抜け、俺たちはようやく外壁の城門までたどり着きその下をくぐり抜けた。
城門の下の暗いアーチを抜ければ、その先は城外だ。
差し込む明るい日差しの中、王都を振り返ったアリシアは、輝かんばかりの笑顔をはじけさせ、大きな声で呼びかけた。
「皆さん、私、お嫁に行きます! こんなにも、祝福してくれてありがとう!」
アリシアは、城門の上に立つ兵士達に向かって、晴れ晴れとした面持ちで手を振っていた。
一方の俺は、視線を正面に向けたまま、ただひたすらに馬を前へと進ませた
アリシアが、小首をかしげて俺を見る。
「ジークも、お別れの挨拶をしませんか? みんな、手を振ってくれますよ」
「今、手が離せないのだ、アリシア。俺の分もよろしく頼む」
「はい、わかりました、ジーク!」
行ってきます、皆さん!
元気で過ごしてくださいね!
アリシアは俺の肩越しに、王都を守る兵達に向かって、細い腕を振り続けた。
俺は、手が離せないと言った。
もちろん、あれは嘘だ。
手綱から、一時手を離す程度、俺にとっては造作も無い。
俺には、後ろを振り返る勇気が無かったのだ。
城門を守る兵達は、表面上は俺たちを祝福してくれていた。
実際、アリシアのことは祝福していただろう。
だが、俺の事はどうだろうか。
彼らのうちの何人かは、心の中でバリスタを構え、その照準を俺の背中に合わせているのではないだろうか。
俺の第六感が言っていた。
振り向くな。
碌な事にはならないぞ、と。
幸い、現実世界の俺は、守備兵に狙撃されるより先に、城門を離れることに成功した。
俺は、生きて王都からの脱出を果たしたのである。
アリシアの王都脱出から約一年、俺も遅まきながら、彼女と同じ経験をすることになった。
これで少しは、彼女の気持ちが理解できると言える立場になったかもしれぬ。
俺は、試練をくぐり抜けた。
思わず、安堵の吐息がこぼれ出る。
俺がアリシアの体を抱きしめると、彼女はくすぐったがって笑い声をあげた。
じゃれる子犬のように、俺の身体に頬を寄せる。
アリシアの体は、暑さで少し汗ばんでいた。
彼女は、はしゃぎすぎたのだ。
俺の背中は、冷や汗でぐっしょりと湿っていた。
俺の汗腺が、恐怖と重圧に耐えられなかったのだ。
アリシアの訝しげな視線が俺に向き、彼女の掌が俺の濡れた背中をさする。
彼女の口元は楽しげな弧を描いていた。
「ジークも、汗っかきだったんですね。すごいびっしょり。なんだか意外です」
そんな事を言いながら、アリシアは俺の胸元に顔を寄せていた。
今日の彼女は、やけに無遠慮で気安い。
気を張らないアリシアの表情は、大きくておおらかなのだ。
俺は、それに助けられる思いだった。
「ああ、実は、俺は汗っかきなんだ」
俺は、綺麗な笑顔を浮かべつつ、彼女の言葉に首肯した。
貴女が平和に過ごせるならば、俺は綺麗な嘘で世界をかためてみせるだろう。
アリシアは、「私と同じですね」と、笑みを浮かべ、しつこく俺の体に触れていた。
だが、それはそれとして、今日のアリシアには遠慮がなさ過ぎた。
こら、やめなさい、アリシア。
そんなところを嗅ぐんじゃない。
触るのは大目に見るから。
帝国に向かう道中もアリシアは終始ご機嫌で、くっつき癖が酷かった。
乗馬を自ら駆ることもなく、俺の鞍の前に居座って楽しげに鼻歌を歌っている。
即興の歌詞を並べ立て、わざと調子を外して歌う様は、まるで子供の遊びのようであった。
楽しいかと俺が聞けば、「とっても楽しい」と、彼女は屈託ない答えを返してくれた。
食事どきも、アリシアはなかなかのはしゃぎ振りを見せた。
彼女は食事の度に、俺の膝の上によじ登るのだ。
そして、俺に構えとせがむのである。
「ジーク食べさせてくださいませ」
「ああ、いいとも。あの肉が食いたいんだろう。肉が」
「えへへ、わかりますか。ジーク」
アリシアの目は、好物に釘付けだ。
これで、わからないはずがない。
俺が一口か二口、所望の品を与えると、アリシアはもぐもぐと咀嚼して満足げに息を吐く。
そして交代だ。
今度はアリシアが俺の横に座り、目に付く品を手当たり次第に食わせるのだ。
俺に食事を取り分けるアリシアの手つきは、極めつけに適当だった。
おかげで俺は、口元からぼろぼろと食べ物をこぼし、ナプキンを盛大に汚した。
行儀の悪いアリシアは、悪びれもせずに笑っていた。
「ジークったら、子供みたい。こんなにこぼしてお行儀が悪いですよ」
「母親役の手際が悪いのだろう。俺に言うな」
お母さんと呼ばれたアリシアは、可笑しそうに笑いながら、自分の腹を撫でていた。
アリシアは、食事の間中ずっとこんな調子であった。
はて。
俺は内心で首をかしげた。
アリシアの機嫌が良いのは喜ばしいことである。
だが、彼女はここまで明るい娘であっただろうか。
俺は、嬉しくもあったが、訝しくも思っていた。
その疑問が解けたのはメアリの言葉によってであった。
俺は、たまたま報告に来ていたアリシア付きの、この侍女に、彼女の上機嫌の理由について尋ねたのだ。
「アリシア様は女の子なのです。王国の懸案も一段落つきました。荷を下ろせて、安心しているのでしょう」
俺に答えたメアリは、安心感をにじませた笑みを浮かべていた。
それは、女親の表情であったように思う。
それからメアリは、アリシアの性分について俺に教えてくれた。
アリシアは、とにかく頑張ってしまうのだそうだ。
なまじ高い識見を持つが故に、目の前に課題が積み上げられれば、アリシアはそれをどうにかしようと力を尽くしてしまう。
戦争に、内政に、たしかにアリシアはよく考え、よく動けていたように思う。
それは、俺の目から見ても間違いなかった。
だがアリシアは、その自分の責務をどう思っていたのだろうか。
「執務室で、アリシア様は仰ったのです。『前にジークと行った旅行は、楽しかったね』と」
また、一緒に遊びに行きたいなぁ。
それがアリシアの言葉であった。
「アリシアの望みなら、連れて行ってやるのが俺の義務だろうな」
「そこは俺も行きたいぞ、ぐらいのお言葉が欲しいところですわね」
メアリにたしなめられた。
お説ごもっとも。
俺の心得は、まだまだであるな。
俺たちは王国の国境を越え帝国へと入った。
帝国は俺たちの本拠地だ。
だが、残念ながらここでも問題が発生した。
王国人は馬鹿ばかりだが、帝国人も似たようなものだったのだ。
最初のきっかけは、母からの手紙であった。
「アリシアさんを早く連れてきなさい」
まだかかるぞ。
俺は心の中で返事する。
空を飛んでいくわけには行かないのだから、我慢してくれ我が母よ。
だが、今回の皇后カートレーゼは、珍しく頑張っていた。
彼女には珍しいほどの積極性で、関係各所に、なんとかアリシアを早く送り届けられないかと、前々から相談をしていたようなのだ。
そして皇后の言葉を名分に、動いていた馬鹿共がいた。
それが帝国海軍だった。
最初、連中はアリシアを船で送ると申し出たが、俺が船旅の危険を理由に断った。
それでも諦めきれない連中は、アリシアの渡河を海軍で手伝うと皇后に進言したのである。
当初の計画では、多少は遠回りになっても、橋で川を越える予定であった。
だが、それよりもずっと早いからと、奴らは軍艦での出迎えを強硬に主張したのである。
「我らにお任せ頂くのが、最も迅速かつ確実です」
この言葉をアリシアの到着を待ち焦がれる皇后が、後押ししてしまったのだ。
こうして、たかが川一本を超えるのに、帝国海軍の戦闘艦が出向くことになったのである。
今、帝国は、平和だ。
海軍のわがままを通すだけの余裕があると言うことでもある。
国費使ってこの騒動かと思わなくもないのだが、海軍にくれてやる飴の代わりと考えれば、さほど悪い話しでもなかった。
ああ、収支を考えると、悪くは無い。
だが、本当にこれでいいのだろうか。
俺は遠い目になった。
船乗りは男ばかりだ。
奴らは、女に飢えている。
その男共の前に、アリシアを出せばどうなるか。
奴らの妄想の中で、アリシアはたちまち裸に剥かれるに違いない。
おのれ、汚らわしい。
俺は自分を棚に上げて、内心で罵った。
麗しき乙女アリシアに関する幻想は、帝国でも広く流布している。
曰く、アリシアに第一皇子が一目惚れした。
これは事実だ。
曰く、帝国東部方面軍はアリシアを女神のように慕っている。
これも事実だ。
曰く、アリシアは下着がエロい。
これも事実だ。
だがその情報は、どこから漏れた。
ゆえにアリシアは帝国で、絶世の美女扱いされている。
アリシアは、たしかに美人ではあるし、最近は女性としての魅力にも磨きがかかっている。
事実として、とても綺麗な女性であると思う。
このアリシア絶世の美人説は、幻想ではなく事実なのでは無いか。
いやいや、問題はそこじゃない。
それに、バカップルの片割れであるところの俺が、これ以上なにか言っても詮無きことである。
とにかく、海軍の連中はアリシアを見たい一心で、彼女の渡河に際してその足になることを望んでいた。
ここで重大な事実に奴らは気付く。
なんと、アリシアの体は一つだったのだ。
当たり前だ。
馬鹿かか、貴様ら。
ゆえに彼女を乗せることができる船も一隻のみ。
そして、女王の座乗艦の座を賭けた仁義なき戦いが、外洋艦隊の内部にて勃発したのである。
東部の軍港では、演習という名目の元、実弾を交えた大激戦が繰り広げられた。
結果、排水量と重武装に物を言わせた東部方面軍艦隊旗艦エーデルリッサが、その栄誉を獲得する。
艦隊旗艦の面目躍如だ。
切り込み突撃をかけてきたフリーゲート艦三隻を返り討ちにしてやったと、艦長は胸を張っていた。
そうか。
良く聞け、艦隊指揮官バーナー中将。
だれも、そんな報告は求めていない。
実戦まがいの演習で、艦隊には艦艇小破三隻、負傷者十四名の被害が発生した。
その報告を寄越されて、俺は再発した偏頭痛に額を押さえる羽目になったのだ。
危険が危なくて、頭痛が痛い。
俺は、馬から落馬しそうである。
ただ、この愚かな争いにも、救いが無いわけでも無かった。
幸いにも、超えるべき大河は二本あったのだ。
おかげで、東部と中部、それぞれの艦隊で仲良く担当を分けられた。
これがもし川が一本であったなら、さらに熾烈でどうしようもない争いが生じていたはずだ。
海の男は、荒くれものだ。
穏当な話し合いで、決着が付くとは思えない。
強い方が我を通す。
超える川が奇数であれば、中部と東部の両艦隊が演習の体を装って、外洋上で激突することになっただろう。
帝国軍主力艦隊同士の対決である。
何世紀ぶりの艦隊決戦であろうか。
最高の見世物となること間違いない。
軍事評論家は大喜びだ。
あほすぎる。
幸い川は二本あり、そんな事態は避けられた。
せいぜい数隻の艦艇に穴が空き、小隊単位の馬鹿共が骨折する程度の被害にとどまったのだ。
久々の実戦演習ともなれば、良いガス抜きにもなっただろう。
アリシアは、そんな裏事情など知るよしも無い。
彼女は、短いながらも快適な船旅に、目を輝かせていた。
「私、こんな大きな船に乗るのは初めてです。揺れが小さくってすごい。でも水は危ないですからね。ジークも落ちないように気をつけて」
甲板上で川面をのぞくアリシアは、片時も俺の手を離さとうはしなかった。
俺が川に潜む怪物に連れ去られたりしないよう、しっかり守るのだと言っていた。
俺も、船上にいる限り、絶対にアリシアの手を離す気は無かった。
水兵共にアリシアがさらわれたりしないよう、目を光らせておく必要があったからだ。
今、アリシアは楽しそうに水面を眺めている。
俺は、彼女の後ろに立ち、その様子を見守っていた。
絶対に、アリシアに後ろを振り向かせてはならなかった。
船楼に鈴なりになる男共を、断じて彼女の視界に入れるわけにはいかないのだ。
今、俺たちの斜め後方では、数十人の男達が、押し合いへし合い、醜い争いを繰り広げていた。
その先頭に、堂々たる腕組みで仁王立ちする艦長を、下から打ち落とすことはできないか。
俺は半ば本気で、嫁の危険を排除する方法について考えを巡らせていた。
それはそうと、ああも一カ所に人が集まっては、船の重心が崩れたりしないのだろうか。
船体がきしむような音をたてる度、俺は不安に襲われた。
アリシアが水面から飛び跳ねる魚を見つけて、楽しげに声を上げる。
彼女がうきうきとした様子で飛び跳ねると、長いスカートがゆれ、船楼ではどよめきが起こった。
そして、重い物が落ちる音がした。
おおかた、船楼から身を乗り出した馬鹿な水兵が転がり落ちたのだろう。
アリシアが、小首をかしげる。
「ジーク、今、変な音がしませんでしたか?」
「ああ、船員が、船楼から落ちたのだ。船は揺れるからな。よくあることだ」
嘘である。
そんな馬鹿は、普通はいない。
素直なアリシアは、「水兵さんは大変ですね。後でお礼を言っておかないと」などと、可愛いことを口走っていた。
馬鹿共に、これ以上の餌をやるのはだめだぞ、アリシア。
俺たちは、無事に川を越えた。
俺は、あたう限りの素早さでアリシアを陸上へといざなった。
地上に降り立ったアリシアが、愛想良く艦長に礼を言う。
「今日は、ありがとうございました。初めて乗りましたけれど、とても快適でした。皆さんのおかげです」
「いやいや、陛下のご用命とあれば我らはいつでも駆けつけます。もし機会があれば、今度はゆっくりとお話しさせてください」
艦長は意味深な笑みを浮かべて、アリシアと俺を見た。
アリシアはよそ行きの可愛い笑顔で応えていた。
一方の俺は完全に仏頂面だ。
アリシアの所属は陸軍だ。
貴様らのところへは、絶対にやらんぞ。
俺は嫁の身を守ることを、固く心に誓ったのだった。
帝都が近づくにつれて、アリシアの陽気さは、なりを潜めていった。
彼女は、皇子妃として帝都に入ることを考えているのだろう。
アリシアは、柔らかい笑みを浮かべつつも静かに過ごすことが多くなった。
そんなアリシアが纏う空気は、静謐で、冷たい。
これがアリシアの仮面なのだろう。
アリシアの婚約者である俺の手元には、典礼と外務と帝国軍統合作戦本部からの手紙が届いていた。
ついでに母親からの督促の手紙も束になっているが、こちらは取り敢えず関係ない。
公的な手紙は、そのいずれもがアリシアを歓迎するための式典に関するものであった。
俺は思った。
この歓迎とは、一体誰のために催すのか、と。
そして、俺は、父の言葉を思い出す。
現帝国皇帝ヴィルヘルム三世は、その第一皇子に言ったのだ。
「ジークハルト、民は、責任よりも権利を振りかざすものだ。そして、皇帝とは、その民の上に立つものなのだ。俺は、そんな身勝手な民を愛している。お前も民を愛せる皇帝になれよ」
ああ、あのときの父の言葉は、こういうことだったのか。
俺は得心する思いだった。
思えば父は、大変に勝手な男であった。
ゆえに、あの男は名君で有り続けることができたのだ。
アリシアが、俺に身を寄せる。
彼女の瞳には、女王として、将軍として、人々を率い導いてきた時の光があった。
アリシアは、言った。
「ジーク、私、頑張りますね」
俺は、答えた
「アリシア、頑張らなくて良いぞ」
この言葉に、アリシアは驚いた顔をした。
一方の俺は、自分の言葉に戦慄した。
思わず、言ってしまった。
よく考えを練りもしないうちに。
もはや取り返しはつかなかった。
だが、俺は失敗したとは思わない。
アリシアには、頑張らせない。
俺がそう望んだのだ。
それが国の発展を、一時、止めることになったとしても。
この言葉を発したことについて、俺は後悔していないし、今後も後悔することはないだろう。
そして俺は、厳かに公人の仮面を投げ捨てた。
もう、嫁馬鹿兼バカップルの片割れでいい。
俺は、良い子を止めるぞ、帝国臣民共!
「帝都には秘密の通路を使って入る。式典も、気分が向いた時に開催だ。皇子妃になるのも落ち着いてからだ」
「でも、ジーク……」
「でもも、へったくれもない。アリシア、俺は、帝国の第一皇子だぞ。好きにさせてもらう」
アリシアは、俺の言葉に目を見張り、考え、その意味に思い至り、そして目を輝かせた。
俺は頷く。
俺の顔は、良い子で頑張ってきた娘に、ご褒美をやる父親の面持ちであった。
「しばらく、好きに遊んでこい。仕事は合間にすれば良い」
そのぐらいの働きを、アリシアはしてきたのだから。
俺は、常日頃から、アリシアのためと口にしてきた。
それを証明してみせる日が来たということだ。
口では、きみのためにと言いながら、その実、皇子妃として公務に軍務に使い潰しますというのでは、それこそ道理が通るまい。
俺は、今まで皇子として、傍目には勝手気ままとも見える振る舞いをしてきた。
だがその実、一度として公人としての責務をおろそかにしたことはなかったのだ。
結局、俺は、良き皇子であることを自らに課してきたのである。
それが、最も良いことであると信じて。
しかし、今、俺は、その一線を越える。
嫁のために、公人の義務なるものを踏んづけ、乗り越えることを決めたのだ。
典礼も、外務も、帝国軍も、みなアリシアを歓迎する日のことを、楽しみにしているようだった。
だが、それは全て延期である。
彼らは、泣いたり、怒ったり、反乱を企てたりするだろう。
それらは俺が全てせき止める。
そもそも、奴らは俺に感謝するべきなのだ。
アリシアの心からの笑顔を目にする機会を、俺はくれてやったのだから。
ああ、機会はくれてやる。
あとは、貴様らで力を尽くせ。
「好きにしろ、アリシア。それが俺の望みだ」
「ありがとう、ジーク! 大好きよ! 本当に好き!」
アリシアは、俺に飛びつき、顔をぶつけるようにキスをする。
ガチンと前歯が激突し、正直少し痛かった。
それから、アリシアは俺の部屋を飛び出した。
くるりと華奢な身をひるがえし、弾む声音で侍女を呼ぶ。
「メアリ、メアリ! 帝都についたらお買い物に行きましょう! クラリッサにいろいろ調べてもらわなくっちゃ!」
アリシアの楽しげな声が遠ざかっていく。
彼女は、本当に好き勝手するつもりらしい。
それは、とても良いことだ。
俺はそれを聞きながら、手紙の山に向き合った。
俺は、好きにする。
アリシアには幸せになってもらう。
だが、同時に、後始末もきちんとする。
ゆえに、この山を全て片付けねばならない。
それが、第一皇子にして、アリシアの伴侶たるジークハルトの役目なのだ。
俺の決意の視線を受けて、紙の山から一通の手紙がこぼれ落ちる。
うーむ。
俺は、思わずうなりを上げた。
しかし、この山は、手紙何通分なのだろうか。
愛の道とは、茨の道だ。
俺は厳かに腕を組みながら、辛く厳しい道のりに、思いを馳せたのだった。
アリシア「次回からは馬鹿話リターンズが始まりますよ」




