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貴妃の脱走  作者: 川上桃園
帝王の迷走
12/18

後編

その都、落日を知らぬ。

すべての風はここより吹く。

大輪の花はここに咲き、その香りは万里の果てまで香る。

知の殿堂ここにあり。

標無き者、ここにて答えをる。

天上にもっとも近き場所。

日々、天女たちは舞う。美しきもの、等しくここを通りゆく。

人の声は絶えることを知らず。

かつてここを紅蓮に染め上げた者も知らぬ。

人、ここを永久とこしえの都と呼ぶ。

あぁ、その名にしくものは他になき。


古詩にも形容されるように、その都にはすべてが揃っている。

遷都以来、平和を守り続けていた都は、戦禍に見舞われることなく、緩慢な成長を続け、かつてないほどの華やかな文化を花開かせている。

もちろん、そこを守り続けてきた皇帝たちの業績も大きい。

初代は、平地を開拓した。

二代目は、道を整備した。

三代目は、産業育成に力を入れた。

四代目は、移民たちを定住させ、新たな労働力を創出した。

五代目は、運河を作って、水運を発達させた。

六代目は、新技術開発を推し進め、民が飢えにくくなった。

七代目は、新たな国との国交をはかり、新しい文物が流入するようになった。

八代目は、財政見直しをして、しかるべきところに金を回るよう取り計らった。

歴代の皇帝たちは他にも諸々の施策を行った。もちろん、すべてが成功したわけがないが、それでも国が傾くには至らなかった。

こうして、今日も都は栄華を誇っている。

さて、話を変えよう。

並び立つものなき大国の中にあるもっとも風雅な都にて、皇帝と元貴妃と男装画家の珍道中が始まった。



一軒目。衣装屋。


「赤だ、緋杏には赤が似合う。何といっても、鮮やかな色だし、華がある。ほら、この帯と合わせれば……む、思った以上に色っぽくて……ごほんごほん」

「青! 緋杏には青だと思う。緋杏って、清楚ですっきりとした印象だから。見ていて涼しげな色ね。……ね、私も似たような色にするから、お揃いに……しない?」

「えーと……あぁ、おじさーん。この萌黄色のものをくださる? えぇ、これ。 ありがとう。 お金は自分で払うわ」



二軒目。書肆しょし


「そうだ、最近こんな小説が流行っているのだが。えーと、だな。その恋愛ものでな。そう、高貴な男と平民の女が運命的に出会って、恋に落ちるのだが。……どうだ?」

「ね、見て。これ、なんか面白そう。あのね、主人公にとっても仲良しの友達がいて! その友達と一緒に、大きな夢を叶える話みたい。友情の話ね。読んで感想を言い合うとか……できないかな?」

「うーん。あ、あったこの書物。ずっと探していたの、これ。……これを読めば、私も料理達人になれるかしら? あ、おじさーん。これいくら?」



三軒目。画商。


「そうか……。遊山人ゆうさんじんがいないのなら……ここは寧布衣ねいふいがいいだろう。勢いのある筆致だ。遊山人のあとは、寧布衣の時代だろう」

「緋杏は遊石が好きだって言っていたよね? ……絵とは言え、今回は寧兄に負けるわけにはいかない……。な、なんと言ったって、遊石が一番! 最近出てきたばかりとは言え、師匠の後継とも言われているもの! ……自分で言うのも何なのだけれど。寧兄の耳に入らない……と、いいなぁ。奥様、内緒でお願いします」

「はいはい。わかったよ。……それで、緋杏。あんたは?」

「どちらも見ているだけで幸せ」



四軒目。装飾品の露店。


「翡翠の足環はどうだろう? そなたの白く細い足首にはめれば、きっと似合う。……それに私のものだという気がして(ごにょごにょ)」

鼈甲べっこうの耳飾りはどう? 歩けば……ほら、しゃらしゃらと音が鳴るの。綺麗でしょう? 足環だとちょっと大人っぽすぎるし……なんだか、意味深だし」

「別に見ているだけなのだけれど……ねぇ、どうして二人とも張り合っているの?」


さすがの緋杏も二人に向かって首をかしげる。

ここまで来ると、すでに様式美だった。

良晶と鈴玉が競うように緋杏に自分の選んだものを勧め、緋杏は華麗にスルーする(緋杏の場合、毎回無意識。スルースキルが高いのだ)。


「……やっぱり、今日は出かけないほうがよかったかしらね。私の都合で色々動いてしまったもの。今度から気をつけなくちゃね」


ふと、緋杏は顔を曇らせる。頼りなげな身体がますます揺らめくようであった。


「そ、そんなことはない……私のほうこそ、ごめんなさい、緋杏。……なんか、ヒートアップしてしまったみたい。と、ととととと、取られてしまうようで、寂しくて」

「あるわけないじゃない。お友達でしょう、私たち」


緋杏こそが不安げだったにも関わらず、彼女は鈴玉の身体を軽く抱きしめた。まるで姉のように。

慰められているのだと、鈴玉は十分にわかっていた。


――子供っぽかったかな……やっぱり、緋杏の方が大人だった。


次に緋杏は良晶を見る。


「晶さん、今日のところは帰りましょう。もう、いい時間だもの」

「そうだな。……そうしよう」


彼女は、良晶には何も言わなかった。





饅頭屋兼茶房の前で、そのまま別れた。

緋杏は右と左へ散っていく二人を手を振って見送った。


「じゃあ、また今度ね。晶さん、鈴玉」


角で曲がり終えるまで確かめ、彼女は空を見上げた。――黄昏に、目を細める。


「緋杏」


誰かが彼女の名前を呼んだ。

落日の反対側に、良晶が立っている。彼は、途中で引き返してきたのだった。


「これを渡そうと思ってな」


かんざしを握らされ、彼女は目を丸くする。

良晶はまともに彼女の顔を見ることなく、早口で続けた。


「先ほどの露店での帰り際に見かけたのだ。……きっと、似合う」


簪には、精緻な細工が施されている。百日紅の花が、ついている。あまり華美でなくて、武骨な手が持っていたにしては可憐すぎる簪だった。


「……あの娘には、内緒にしろ」


緋杏は簪を見つめながら、こくりと頷く。


「えぇ、鈴玉には、秘密です。……晶さん。ありがとう」

「それと」

「ん?」

「今日ずっと言おうと思っていたのだが……私には心に決めた女がいる」

「……奥様、ですよね」

「正確には、奥様じゃない。妻にしたい、女だ。……そなたには誰より先に、知ってほしい。しばらくはこの関係のままでいいから……いつか、私の話を聞いてくれ……」

「え……」


緋杏が聞き返す間もなく、良晶は慌ただしく去っていった。

もちろん、本人としては大きな前進をしたつもりで、心中では拍手喝采、大いなる達成感に安堵している。宮殿の裏門に至るまで数百回ガッツポーズを取るに違いない(裏門までなのは、門番たちに見られたくないからである)。

一方で、この物語の中でダントツに鈍感なヒロインはと言うと……。


「私は……」


置いてけぼりになった子供のように、その場に立ち尽くす。


「どうして、私に……」


簪から垂れた花の房が、わからないよ、とでも言うように揺れている。

彼女は悲しげに首を振ると、中へ入ろうとした。


「緋杏」


またしても、彼女を呼ぶ声。

今度も彼女は振り返った。

そして。


――あぁ、もう逃げられない。終わってしまう……全部。


彼女は泣きそうになるが、あえて笑顔を相手に向けた。


「お久しぶりです、父様」

「休暇は楽しかったかね?」

「ええ、十分に」

「なら、もうよかろう」

「はい」


翌日から、緋杏は姿を消した。

一応、次章が最終章になる予定です。

いつも読んでくださって、ありがとうございます。

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