前編
前後編になるか、前中後編になるか、いまのところ未定です。
人生は一度きりのもの。後戻りはできない。
なぁ、お前はそれをどう生きる? 何かを考えているか? どうせ、お前は何も考えていまい。
でも、それでよい。お前こそは、人形でいるべきなのだ。人形で、道具で――玩具であればよい。
お前はそう望まれている。誰がお前の言葉に耳を貸す? お前は何を言う? 何も言いたいこともないくせに。
だが、真っ白で何にでもなびくお前が、こうなったのも運命であろう。運命がお前を呼んでいるのだ。抗うことなどできまい。私の運命も、お前の運命も、とうとうここまで来てしまったのだ。
大義を受け入れよ。そして――そのちっぽけな命を使って、陛下の御命を――――奪うのだ。
乙女は仁王立ちになっていた。腕を組み、目の前の男を震える眼差しで睨みつけている。
背中には細長い筒のようなものを背負っていた。それは、画材であろう。町で通り過ぎる分には女には見えないけれど、まじまじと見れば、彼女が少女だとわかる。
今注目を集めている新進画家の一人、遊石こと、鈴玉の姿は都の中で賑わう界隈のとある商家にあった。厳密に言えば、饅頭が上手い店であり、さらには、仕事が欲しいと転がり込んできた娘をほとんど二つ返事で雇ってしまう酔狂な店主がいるところ。……もはや、場所は明らかであろう。
「きょ、きょきょきょ、今日は!」
居合わせた客の視線を一心に集めた鈴玉は、かわいそうなほどに狼狽していた。裏返った声はもちろんのこと、顔はやっぱり赤くて、体はがたがたに震えている。天敵に襲われた子菟そのもの。だが、この子菟は、何も考えずに敵の前に姿を現したのではない。草食動物なりに、いざとなれば、相手もろとも取っ組み合いをする気満々だった(気持ちだけは)。
「……」
男は無言だった。頑固なほどに何も言わない。彼の目から放たれるのは、圧倒的な威圧感であり、それこそが雄弁に物を語っていた。彼はこう言いたいのである。――言いたいことがあるのなら、はやく言え、と(それこそが彼女の口を塞ぐ要因にもなっているのだが)。
あの子、助けた方がいいんじゃないか、と誰かが囁いた。少女が怯え、男は鋭く彼女を見下ろしているという構図は、いかにも犯罪現場を目撃しているようだった。
――何なのだろうな、今日は。
脅している、は正しくなかった。彼としては純粋に困惑しているだけである。
少女が男に絡まれている、ではなく、実際は少女が男に詰め寄ってきたのであった。
そして、要件がまだよくわかっていない。何かを訴えたいのは伝わってきても、まともな言葉になっていないのだから。
――緋杏に久しぶりに会えると思っていたのだが。なぜ、彼女のいる店で、よく知らない女に敵意を向けられるのか……。こんなところ、緋杏に見られたくない。会えなかった間、ほかの女と会っていたとは思われたくないからな。
――いや、待て。思われたら、どうなるのだろう。嫉妬……してくれるだろうか。そうだ、初めて会ってから、少し経ったのだ、緋杏の気持ちも……。うむ、気になるぞ。
「あの!」
「……あ?」
思考があさっての方向に飛んでいた男は、いけないいけない、と顔を引き締めた。威圧感二倍増し。
さて、気づく人は気づくものだが、この妙に尊大そうで間違っても堅気には見えず、その実、脳内にお花が咲いている残念な男こそが、饅頭屋の看板娘(元貴妃)に懸想する良晶皇帝陛下であったりする。
そう、世の中は摩訶不思議なものでできているものだ。望めば、即席であらゆるものが出てくるはずの皇帝は、色々とまどろっこしい手順を踏んで、絶賛片思い中。進展もなし。緋杏は、良晶を既婚者だと勘違いしたままだし、自分の夫がわざわざ自分に会うためだけに宮中から通いつめているとは夢にも思っていない。それでも、良晶は今日も幸せだ(顔を見れただけで、幸せになれる男だから)。
「わ、わわわわたしが! 先約ですから!」
「………それで?」
ひうっ、と奇妙なうめき声を上げて、男装の少女は涙目になった。
――なぜだ! 普通に問い返しただけなのだが。
彼は気づいていなかったのだ。街に降りたときは緋杏とばかり話をし、彼女がまったく普通の応対だったものだから。赤の他人から見れば、「おっかない貴人」だとか「ヤのつくご職業の若頭」だとか、その類の迫力を持っているのである。誰が好き好んで近づきたいか。いや、常人なら近づきたくないだろう。
しかも、このやりとりの間、彼は眼光を鋭くした以外、なんの表情も変えていない。内心の動揺は綺麗さっぱり厚い面の皮(?)に隠されている。
「ひ……緋杏と一緒に遊びに行くんです! だから……だから! あ、あなたは、ひ……ひ、引っ込んでてくださいっ!」
びしっ、と指を突きつけられる。ぶるぶると震えている。当の本人からしたら、途方もない勇気を要したはずで、そのまま逃げ去らずにいるのも、奇跡に近い。
しかし、彼に通じるわけもなく。
「緋杏と、約束を?」
「ええ! し、仕事が終わったら、美味しいご飯を食べに行くんです!」
「そなたの名は?」
「り、鈴玉! 緋杏の、と……友達です!」
「友達……」
――私の知らぬ間に。緋杏がそれでいいというのならいいのだが……私も嬉しいが、いや、しかし! このままでは私は「緋杏不足」で死んでしまうだろう。明日も明後日も街には降りられないし、悪いが譲れない。
「ほかの日に譲れないか?」
「で、でででで、できるわけありません! ダメ、絶対っ! 緋杏の知り合いでしょうけれど、あなたのような怖い人が、なんのつもりで緋杏に近づくつもりなの? 奥さんいるそうだけど!」
人は守る者がいると強くなるという。今の鈴玉のように。周囲の観客はすべて彼女の味方である。
まったくの悪役に成り下がってしまった皇帝陛下は、さすがに自分を取り巻く空気のトゲトゲしさに気づいたが、沈黙した。
こうとなっては本人に決めてもらうしかないのである。
「いらっしゃい。二名様ですか? 注文をお伺いいたします。……はい、はい。では少し待っていてくださいね」
席から席へと飛び回る売り子。……緋杏は今、とても忙しかった。
彼女の視線の先にあるのは、今相手をしているお客様――はては、仕事だけ。
視界の端の騒ぎに気づいていただろうが、それがまさか自分の知り合いが自分のことで言い争っているとも思っていなかった。街中でよくあるちょっとした恋人同士の痴話喧嘩だと(当の二人からしたら、勘違いも甚だしい)。
「奥さん……何のことだ? 私は緋杏一筋なのだが」
「し、白々しいですよ! ふ……不倫なんて、いけません! あの人をそんな泥沼に巻き込まないでっ。そんな……あなたさまがどんなにお偉い方か知りませんが、そんな、ことになるぐらいだったら! なったら……」
鈴玉はごくりとつばを飲み込んだ。溜め込んだものを吐き出すように、勢いよく、
「わ、私が、緋杏を守るんです! だって、初めての友達だもの! 不幸な目には遭わせない! もう! あの人に! ちょっかいかけないで!」
「よく言った!」
清々しいほどまでに言い切った鈴玉への反応は、言われた本人より観客の方が早かった。
パチパチパチ、となぜか拍手が鳴り止まない。
「……え」
鈴玉ははっと周囲に気づいて、見回して。顔は赤く、体は小さくなって、近くの椅子に座り込む。
そのままぺこぺこと頭を下げる。
「す、すみません。お騒がせしてしまって」
一方、良晶は無言である。見る人にとっては悪人面とも取れるような顔立ちは彫像のように固まっている。さらに、その頭は、なんの思考も働いていなかった――俗に言う、放心状態というやつである。
何が悲しくて、好きな女の友人からダメだしを受けるのか――。その女から聞く、「自分の嘘」に打ちのめされているのである。
――まずい。これはまずいぞ。このまま誤解を深めてしまうとまずい気がする。そうだ……何か取り返しのつかないようなことが……。
妙な焦燥感が体の中を駆け回る。彼は俄然、誤解を解こうと猛烈に感じた。
それは本能かもしれなかった。相手の言葉のうちに、自分の道筋を示されたような気分になる。
「緋杏!」
矢が放たれるよりも鋭く、早く、彼女の元に声が届く。
「ん?」
客の相手をしていた彼女も、後ろを振り向いた。
向かい合うように座っている良晶と鈴玉ににっこりと微笑む。
「あら、いらっしゃい。晶さんに、鈴玉。いつも通り、お茶とお饅頭でよかった?」
「あぁ、頼む」
「うん」
二人の返事が重なって、互いに剣呑な視線を送り合う(やや陛下優勢である)。
そして、再びだんまり。
来客はピークを終えつつあったようだ。緋杏がお盆に人数分のお茶と饅頭を持ってきた頃には、新しく来る客もほとんどなく、店主がのんびりと常連客と話していた。彼女自身、仕事が終わったの、とふたりのいた卓子に収まる。
「ごめんね、鈴玉。せっかく待っていてくれたのに、随分待たせてしまって」
彼女はまず鈴玉に声をかけ、ついでちょっと不思議そうに良晶を見る。
「どうしたの、晶さん。鈴玉と知り合いだったの?」
「いや……先ほど声をかけられたのだ」
「そう」
彼女はあっさりと納得する。追求する様子もなし。
ひどく虚しいことであるが、これが彼にとっての現実である(一緒にいたぐらいで女はほいほい釣れないのだ、特に緋杏のような女は)。
「来てくれて嬉しい」
ただ、緋杏の微笑みで、良晶の思考は「現実」に至らなかった。
キテクレテウレシイ……ウレシイ……。
――私も、緋杏に会えて嬉しいぞ……。
と、思いながらだんまりを決め込んでいる(そして言えぬまま終わる)。
社交辞令だと察していても跳ね上がるのが男心なのである。
もちろん、このぽわぽわな甘ったるい展開に物申したい者もいる。
むむぅ、と唇を尖らせた鈴玉は、そろそろと椅子を緋杏の隣に寄せて、負けじと自分の存在を主張する。
「あの……えっと……」
「ん? どうしたの、鈴玉」
吸い込まれそうな黒曜石の瞳が鈴玉に注がれた。どぎまぎしながらも彼女は思い切ったように言った。
「どうしよう……約束のこと」
どうしよう……と言いながら、本当は二人で出かけたいのが本心である。鈴玉は早くこの怖い男から緋杏を連れて逃げ出したかったのだ。
「うーん、そうね。お昼食べ損なってしまったものね。小腹はこのお饅頭で満たせるけれど……。でも、せっかくだし、出かけましょうか」
「そ、そうしましょう! ね!」
鈴玉は怯えた眼で懸命に訴えた――私たちについてこないで、と。
――……? なぜ睨まれる。この娘はよくわからぬな……。
いまいち伝わらなかった。
――この二人が出かけるとなると……まずいな。私が追い払われてしまうではないか!
大国の皇帝は、自分がすげなく追い払われることを予感して、相当に焦った。緋杏が申し訳なさそうに己の方を見たときに、確信する。
「えっと……晶さん。今日は残念だけど先約が……」
「駄目だ!」
周囲に残っていた客がぎょっとして良晶を見た。
「駄目だ! それは……困る! 私が!」
「え?」
緋杏の眼がまんまるになる。
「急にどうしたの……?」
「ええっとだな……よし! 私が何もかも出してやる! だから、私も連れて行け!」
「あ……あなた、何を言っているんですかっ?」
鈴玉が素っ頓狂な声を出す。
良晶はもはややけくそになって言い放った。
「私はうなるように金がある! 望めばなんでも買ってやる! 私を財布だと思えばいい……いや、財布そのものだと思え。そしてその財布を持っていけ」
「そ、そそそそ、そんなお金どこに……」
彼はどん、と胸を叩いた(任せておけ、とばかりに今までで一番ヒーローらしい仕草である)。
「そ……んなものはな」
言いかけて、ふと考える。
「えー、と。あれだ! 印税だ! 美酒覧街渡の印税で、懐が今、無限に暖かい。その恩恵を与えようというのだ、何か言いたいことはあるか?」
「ううん」
緋杏は首を振る。
「晶さんがよっぽど行きたいというのは伝わったから、いい。あのね、鈴玉、悪いんだけど……」
「う、ううううう、うん、わ、わかった……わかったから、あの、だ、旦那さま、そんな、血走った目で見ないでください……怖すぎます……!」
目一杯に涙をたたえた鈴玉は、緋杏の後ろに隠れるように顔を背けた。
良晶は満足そうに腕を組む。
「ありがたい。よろしく頼む。……なんでも気軽に言え。なんでも買ってやる」
皇帝陛下は、こうして金づるになった。
陛下は貢ぐことを覚えました。




