65話 紗月先生の野宿講座⑥
◇
紗月と鞠莉が着替えて戻って来ると、矢内は柔道部員に向けて言った。
「それでは、わたしたちは戻るとするか。練習の邪魔をして悪かったな」
「いえ、とても良いものを見せていただきました」
それが紗月と鞠莉の試合のことなのか、それとも鞠莉のパンツなのかはわからないが、いい笑顔で主将はそう言うと紗月の前にやって来た。
「きみは柔道経験者だね。もし良かったら、入部してみないか?」
「すいません。わたし、膝に爆弾抱えてるんで……」
「そうか、それは残念だ。だがあのキレのある背負い投げをこのまま腐らせるのは非常に惜しい。なので気が向いたら、いつでも練習に来てくれ。入部とか関係なく、一緒に汗を流そう」
「はあ……考えておきます」
「是非そうしてくれ」
こうして主将たち柔道部は練習に戻り、紗月たちも元居た教室へと帰った。
「さて、前田も無事わかってくれたようなので、講義の続きを頼むぞ嶌」
矢内に言われて再び教壇に立った紗月は、黒板に書かれた『野宿の基本』を黒板消しで消して新たに文字を書き始める。
お遍路での野宿
「じゃ、ここからはお遍路に的を絞って話をするわね」
これまでは、紗月の経験によって得た知識を野宿の基本として講義してきた。だが元はと言えば、鞠莉が遍路をするために野宿のやり方を教わりに来たのだから、遍路を想定した野宿のやり方を教えるのが最も理に適っているだろう。
「お遍路のスタート地点と言えば、さっきも言ったけど一番札所の霊山寺ね。ここは県道12号線沿いにあって、六番札所の安楽寺まではだいたいこの道に沿って進むの」
紗月は黒板に①霊山寺と書き、そこから矢印を引っ張って⑥安楽寺に繋げる。
「一番から難所手前の十一番札所の藤井寺まで約50㎞の距離なんだけど、時速4㎞で歩くとして十二時間半――つまり半日以上かかるわけ」
「時速4㎞ってちょっと遅くない?」
幸貴のもっともな疑問に達樹たちも頷く。
「ウォーキングじゃあるまいし、野宿する荷物を持った状態だとこれでも速いぐらいよ。そもそも朝から夕方まで何日も続けて歩くんだから、初日に無理して体を痛めたら意味ないじゃない。無理せず何時間でも何日でも歩けるペースにするのが正解なの」
紗月以外全員の「なるほど」、という声が重なる。
「では初日は藤井寺が目標ということになるのですか?」
達樹の問いに、紗月は首を横に振る。
「これはあくまで地図で距離を測っただけで、実際はもっと時間がかかるわ。何故なら、お遍路だからお寺に着いたら参拝したり、御朱印に記帳してもらったりしなくちゃいけないから」
そう。遍路はただ四国の寺を順番に回って御朱印に記帳してもらうだけのスタンプラリーではない。曲がりなりにも寺を巡っているのだから、参拝するのは当然である。そして読経や納経をしたら、軽く30分は滞在することになるだろう。
「結構馬鹿にならない時間だな」
「けど、どうせやるなら御朱印は記帳してほしいっスね」
「あ、納経するなら別料金だから、費用に別途追加しておいてね」
「え、御朱印に記帳してもらうのって有料なんスか?」
「当たり前じゃない。納経所に人を置いているんだから人件費ぐらいかかるわよ。だいたい三百円くらいだから文句言わないの」
「それでも八十八ヶ所となると結構大金っス……」
「おまけに御朱印の記帳は受付時間が決まってるから、その時間内に行かないといけないの。だから一日で回れる件数はもっと少なくなるでしょうね」
「そうなると、一日で50㎞の半分進めるかどうかってところか」
「それくらいで予定を組んだ方がいいでしょうね。っていうか、わたしがやるならそれで組む」
紗月が歩き遍路経験者のブログなどをネットで読み漁ったところ、一日の移動距離の平均は20㎞ほどである。
これは『遍路転がし』と呼ばれる難所を歩くことも含めての平均なので、平坦な道ならもっと歩けるのだろうが、天候にも左右されるのでマージンは多めに取っておいて損はない。
「お遍路の総移動距離が1,300㎞だと言われているから、単純計算でざっと65日かかることになるわね」
「夏休み丸まる使っても無理っスね……」
「そこはまあ、区切り打ちすればいいだけよ」
「区切り打ちって何ですか?」
区切り打ちとは、一度の巡礼で全ての寺を巡る通し打ちではなく、何度かに区切って遍路をすることである。ちなみに一番札所の霊山寺からではなく八十八番札所の大窪寺から逆に巡ることを逆打ちといい、巡礼している弘法大師に会えたり満願すれば死者が蘇ると言われている。
「そっスね。うちの両親も何回かに分けて巡礼してたから、残りは冬休みか翌年の夏休みにやるっス」
「さて、それじゃあもうちょっと本格的に話を詰めていくわよ」
「お願いするっス」
「さっきも言ったけど、納経所には決められた時間があって、だいたい朝七時から夕方五時の十時間しか開いていないの。だからこの時間に間に合うように寺を巡るようにしないと、無駄になっちゃうわけ」
「ということは、初日の霊山寺に到着する時間を朝七時にすれば、最高のスタートになるっスね」
「そう思うでしょ? けどそうは問屋が卸してくれないのよ」
「どういうことっスか?」
「例えば、大学から霊山寺までは約20㎞あるの。朝五時に出発したとして、徒歩なら約五時間かかるわね」
「朝十時到着では、かなり出遅れていますね」
「そう。朝七時に霊山寺に着こうと思ったら、夜中に出発しないと到底間に合わないの」
「初日からいきなり夜中出発って地味にキツいっスね……」
「そうね。だからわたしは考えたの。もういっそのこと霊山寺まではバスかタクシーを使ったらいいんじゃないかって」
「え? いいのそれ?」
幸貴がそう言いたくなるのも当然だが、そもそも遍路に車や公共交通機関を使ってはいけないというルールはない。
「いいんじゃないの? だって車やバスでお遍路してる人だっているし、なんならそういうツアーだってあるのよ」
「うちの両親も車で巡礼してたっスよ」
「いいんだ……結構ゆるいのね……」
「細かいこと言い出したら、結願後に高野山まで行かないといけなくなるわよ」
八十八ヶ所の寺全て巡礼完了することを結願といい、その後高野山を参拝して満願となる。本来遍路はここまでして、初めて終わったと言えるのだ。
「けどそこまでやってる人は少ないっスね。だいたいは八十八ヶ所巡ったらそれで終わりっス」
「最後に高野山まで行くってのがハードル高いな」
「そこは各自、好きにすればいいと思うわ。終わり良ければ総て良しと言うけれど、最後の手順をすっ飛ばしたぐらいでご利益がなくなるほど弘法大師は狭量じゃないでしょ」
そう言うと紗月は「さて」と手に着いたチョークの粉を払う。
「ここまでが野宿の座学編といったところね。どう? 参考になった?」
「はい、とても参考になったっス」
「良かった。けど、どうせなら実技もしたくない?」
「実技っスか?」
「お遍路に出ていざ野宿って時にトラブルがあったら困るじゃない? だから試しに一度くらいは野宿をしておいた方がいいと思うの」
「なるほど。野宿の予行演習っスか」
「大丈夫。わたしも一緒にやるから」
「いいじゃないか前田。野宿のプロが一緒にいてくれるなら、これほど心強いものはないぞ」
「誰がプロやねん」
紗月が掌の裏で矢内の胸を叩いてツッコミを入れると、教室内に笑い声が響いた。




