63話 紗月先生の野宿講座④
◇
「お前がやらなければ、いったい誰がやるんだ?」
「いやいや、てっきり先生がやるのかと」
「わたしがやったらさすがにまずいだろ。下手したら問題になる」
常識で考えろよ、と矢内は言うが、新入生をわからせるためにわざわざ柔道部に場所を借りに来る人間が言っても説得力がまるで無い。
「本当なら若い奴の鼻っ柱をへし折るなんて楽しいことは金を払ってでもやりたいのだが、わたしは審判をやらなきゃならん。今回は泣く泣くお前に譲ってやろう」
「有難迷惑なんですけど……」
「まあこの中じゃお前が一番デカいし、一年先輩のお前が相手をするくらいがちょうどいいだろう」
「身長なら先生もわたしと同じくらいでしょ」
「お前の方が重いんだよ。わたしはお前より一階級下だ」
「嘘!?」
おかしい。それだけ胸と尻に余分な脂肪がついているのに、今も欠かさず筋トレをして引き締まっている自分より5㎏も体重が軽いだなんて嘘に決まっている。
絶対嘘だという顔をしている紗月に向かって、矢内がにやりと笑って言う。
「嶌、知らんのか? 脂肪より筋肉の方が重いんだぞ」
「な……」
「わたしはお前みたいに無駄な筋肉はつけていないからな。柔よく剛を制すのに、ゴリラみたいな力は必要ないということだ。力自慢も結構だが、女性らしさを失わないように気をつけた方がいいぞ。男が望む女の良さは、抱き心地の良さだからな」
紗月は力なく畳に両膝をつくと、そのまま両手もつけて這いつくばった。完全に敗者の姿である。矢内は勝利の高笑いをしながら、「それじゃ、よろしく頼むよキミぃ」と彼女の肩を軽く二回ほど叩いた。
柔道部員の案内で、紗月と鞠莉は部室に案内された。
部室には年季の入ったロッカーがずらりと並んでいる。紗月はこの光景と、芳香剤と消臭剤と制汗剤が混ざり合った独特な臭気に懐かしさを感じた。
矢内と名札が貼られたロッカーを開けると、そこには彼女の言った通り青色の柔道着がハンガーにかけてあった。
「これか……」
高校時代は国際大会などで見る青胴着に憧れたものだが、実際に着る機会は一度もなかった。それが今、借り物とはいえこんな形で袖を通すことになろうとは、何だか複雑な心境である。
ロッカーには、帯が二本下げられていた。
一本は紗月も持っている黒帯。
そしてもう一本は、六段以上が締めることを許される紅白帯だ。
手に取ってはみたものの、さすがに紅白帯を締めるのは気が引けるので、紗月は黒帯を締めることにした。
柔道を辞めてから何年も経っているので締め方を忘れたのではと危惧したが、意外にも体が憶えていたためすんなり締められた。
鞠莉の方を見ると、柔道着の固さと重さに驚いてはいるが、胴着を着ることに苦労はないようだ。
そうして着替え終わると、二人して再び武道場へと戻る。
中に入ると、柔道部員や幸貴たちが道場の中央を取り囲むようにして待っていた。矢内もスタンバイしており、すでに試合の準備は整っているようである。
「よし来たな。それではこれより試合を始めるのだが、ルールはどうしよう?」
今さらながら、空手と柔道で異種格闘技戦をするのにルールを決めていないことに気づいた。
「危険だから顔面への攻撃は禁止した方がいいな」
「それだとこっちがかなり有利になりませんか?」
「それでいいっスよ。顔面ナシでも自分は全然勝てますんで」
「ではそれでいこう。二人とも、中央へ」
矢内の掛け声で、紗月と鞠莉が試合場の中央に向かい合って立つ。
両者互いに礼をすると、始めの合図がかけられ試合が始まった。
直後、鞠莉がボクサーのようにステップを踏み始めた。その動きは体重をまるで感じさせないほど軽快で、見ている者たちの空手のイメージからは遠く離れていた。
矢内を除いてただ一人、主将だけが「ほう」と感心したような声を上げる。
「フルコン空手か。なるほど、あれだけ自信があるのも頷ける」
「どういうことですか?」
主将の呟きに、すかさず幸貴が疑問を挟む。
「空手には大きく分けて二種類ある。伝統空手と実践空手。つまり、当てない空手と当てる空手だ」
「当てない空手もあるんですか?」
かつて格闘技ブームだった頃、テレビのゴールデンタイムに異種格闘技戦が放送されていた。幸貴が見た試合での空手家は、相手に突きや蹴りを当てていたのを憶えている。逆に言えば、その試合のしか空手の知識を持っていないのだが。
「伝統空手は相手を倒すことが目的ではないので、寸止めで試合が行われる。対して実践空手は当てて倒す。文字通り実践だ」
「それじゃ、強いってことですか?」
「かもしれん。だがそう簡単にいくかな」
「え――?」
どういうことか幸貴が尋ねるより先に、鞠莉が動いた。




