62話 紗月先生の野宿講座③
72㎏超級→78㎏超級へと訂正しました。
◇
紗月たちは矢内の後に続いて教室のある本館を出て、中庭に出た。
そこからさらに歩いていくと、研究室や部室の入った別館がある。
目的地は、そこからさらに歩いた大学の外れにある建物だった。
「着いたぞ」
矢内の視線の先には、小さな体育館のような建物があった。入り口には立派な木製の看板が掛けてあり、そこには達者な筆文字で「武道場」と書かれてある。
武道場からは何人もの掛け声と、激しく畳みを打つ音が聞こえてくる。
その音を耳にした矢内は、
「おーおー、やっとるやっとる」
と嬉しそうに笑った。
その不気味な笑みに得も言えぬ不安を感じた紗月は、恐る恐る矢内に尋ねる。
「先生、本当にやるんですか?」
「当たり前だ。ああいう若さゆえの勘違いは、早いうちに正してやらないといかん」
それが大人というものだ、と口をへの字にしてふんすと鼻息を吐くと、矢内は武道場の扉を開けた。
扉を開けた瞬間、むわっとした熱気が襲いかかってくる。
次の瞬間、
「おりゃああああああああっ!」
裂帛の気合と共に、人体が激しく畳に叩きつけられる音がした。
音は一度ならず続けて二度三度と響き渡り、紗月たちの耳を打つ。
武道場の中では、柔道着を着た女性が十人ほど、それぞれ二人一組になって乱取りをしていた。
気合の入った声と畳を打つ音。
畳と汗の臭い。
紗月には馴染み深いそれらは、一瞬で彼女を高校時代にトリップさせた。
「邪魔するよ」
矢内の声で高校生から大学生に戻された紗月は、改めて武道場の中を見た。
広さは紗月の高校の武道場が約六十畳ほどだったのに比べ、ここは百畳余りありそうだ。天井から伸びる綱登り用の太い綱が三本垂れ下がり、端は邪魔にならないように壁のフックにかけられている。
入り口から向かって一番奥にある壁は一面鏡張りで、一見するともの凄く向こうが遠く感じる。部活の前後で男子がよく鏡に向かってボディビルダーよろしくポージングしていたのを思い出す。
つまり、広さの大小はあれど武道場なんてどこも同じようなものか、というのが紗月の感想だ。
矢内が武道場に入って来たのを見た瞬間、恐らく女子の柔道部なのだろう、乱取りをしていた連中が一斉にこちらを向いて直立不動になった。
「ヤウ……じゃない、矢内先生こんにちは!」
主将と思しき一番体の大きい女性が矢内に向かって礼をすると、他の者も一斉に大声で挨拶した。
「おう、こんにちは」
「先生、柔道部の顧問もやってるんですか?」
紗月の問いに、矢内は笑って答える。
「そうじゃないが、たまに稽古をつけてやってるんだ。わたしも時々体を動かさないと鈍るしな」
本当だろうか。矢内は紗月とほとんど同じ体格である(一部の肉付き以外は)。だが柔道部の連中は体格の良い者が多い。中には最重量級の78㎏超級と思しき部員が何人かいるようだ。彼女らを投げたり転がしたりするのは、さしもの紗月でも骨が折れるであろう。
「先生が稽古がつけてもらってるんじゃないですか?」
疑いの眼で見る紗月に、矢内は心外だといった感じで言う。
「見くびるなよ嶌。こう見えてもわたしは柔道七段だ。昨日今日黒帯を締めた子供に後れを取るほど、ぬるい研鑽を積んだ憶えはない」
「やだ怖い」
柔道の黒帯は初段からだが、これは比較的簡単に取れる。年齢制限は満十四歳からなので、中学入学から始めても卒業までには取れてしまう。
だが問題は二段から上である。ぶっちゃけると初段から二段への昇段はさほど難関ではない。高校や大学で試合に出ていれば、その成績が点数に加わるため、昇段の資格を得やすいのだ。
だが社会人になると、これがいきなり大変になる。
大会に出ても、毎日部活動で練習している現役の大学生や高校生と対戦することになるため、試合で点数を稼ぐことが難しくなるからだ。
また昇段の難易度は、三段以上になると一気に上昇する。
何故なら二段以上はガチ勢になるからだ。運悪く大学生の強豪などに当たったら一回戦で瞬殺という悲しいことが起きる。そうして昇段試合で点数を取ることが、いきなり難しくなってしまうのだ。
そして五段までは純粋に実力による昇段だが、六段以降は柔道の普及や貢献などの実績も昇段の条件となる。
ちなみにオリンピック選手は、年齢制限があるため三~五段が多い。それが七段ともなれば、どれだけ矢内が猛者であり柔道を愛しているかがおわかりいただけただろうか
「てことは先生の年齢はさんじゅ――」
「それ以上言ったら留年させるぞ」
「あ、はい」
ちなみに七段の年齢制限は満三十三歳からである。
そうこうしていると、主将と思しき者が矢内の下にやって来た。
「先生、今日はどういったご用件で?」
部外者をぞろぞろ引き連れてきたせいか、さすがに稽古に来たとは思わなかったようだ。主将は紗月たち一同をちらりと見ると、
「体験入部の方たちですか?」
と尋ねた。
「いや、そうじゃない。済まないが三十分ほどでいいんだが、試合用の一面を貸してもらえないだろうか」
練習中にいきなりやって来て唐突かつ無茶な要求だが、主将は「構いませんよ」と即答した。
「その代わりと言ってはなんですが、試合が近いのでまた稽古をつけに来ていただけると……」
「そうか。もうそんな時期か。わかった。今週末にでも相手をしてやろう」
「助かります。試合をなさるのでしたら、胴着とかはどうしますか?」
「そうだったな、すっかり忘れていた。予備を一着貸してもらえると助かる。サイズは――」
そう言うと矢内は鞠莉を顎で示し、「あのちっこいのだ」と伝える。
「わかりました。体験入部用のがありますので、ご自由にお使いください」
「嶌にはわたしのを貸してやろう。青胴着だが、問題ないよな?」
「え? わたしが出るんですか?」
寝耳に水の話であった。




