60話 紗月先生の野宿講座①
◇
矢内の提案で、紗月たちは場所を空き教室に移した。
普段は教室の階段状の席から教壇を見ている紗月だが、講師として教壇に立ってみると新鮮で面白い。
そしてさらに――
「どうして先生が一緒に座ってるんですか?」
そう問う幸貴の右隣の席には、当たり前のような顔をして矢内が座っている。しかも最前列のかぶりつきだ。講師が席について授業を受けるというのもまた新鮮で面白い。
「知識と人脈はいくら持っていても荷物にならないからな。いや、むしろ持てば持つほど良い」
そう言ってにやりと笑うと、さらに付け加える。
「だが付き合う男だけは吟味しろよ。あいつらは『上書き保存』ができない生き物だからな。別れても未練たらしくつきまとわれるぞ」
「それ必要な知識ですか……?」
「知識や情報に無駄なものなんてない。それを生かすも殺すも持つ者次第さ」
幸貴の左隣に座る達樹のツッコミを、矢内は笑って流すと、「それよりそろそろ始めてくれ」と教壇に立つ紗月を促す。
「わかりました」
緊張をほぐすように、紗月は一度ごほんと咳払いをする。
「昔ちょっと調べたことあるんだけど、お遍路って数ヶ所ある難所以外は基本的に市街地を通るんだよね。ま、時代が進んで市街地になっただけで、昔は全部難所みたいなものだったらしいけど」
「市街地だと野宿は難しいっスね」
「だね。人目があるし、場所がない。お遍路用の四阿とか少ないから早い者勝ちになるし、何より市街地には宿泊施設があるからそれを使えって話になるよね」
「じゃあ、お遍路で野宿は無理っスか?」
「そんなことはない。今からそれをレクチャーします」
そう言って紗月はくるりと背中を向けると、黒板に太く大きな文字で
野宿の基本
と書き殴った。
「野宿に決まったやり方はありません。けれど、定石というかルールみたいなものをわたしは経験で見つけました。今回はそれを教えますので、後は各々が実践で憶えてね」
そして再び背を向けると、再び黒板に書き殴る。
①人に迷惑をかけない
「野宿をする時、たとえそれが野宿向けに建てられた四阿などであっても、その場所を使わせてもらっているという気持ちを忘れては駄目」
何度も言うが、四国は遍路という文化が根付いているおかげで他県に比べて野宿にかなり寛容である。だがそれはあくまでお目こぼししてくれているだけで、野宿とは本来はかなり黒寄りのグレーゾーンな行為なのだ。通報されたりしないのは、地域住民の厚意であることを憶えておこう。
「ちなみに、テントに遍路笠や杖を立てかけておくと、地域の人は安心するらしいよ」
「なるほど。それだけでお遍路なのか不審者なのか一目でわかりますね」
「ちょっとしたアイテム一つで不安が取り除けるというのは、いいアイデアね」
「けど自分、笠も杖も持ってないっス。どこで買えばいいっスか?」
「それは簡単。スタート地点である一番札所の霊山寺の売店にすべて売ってるよ。あそこはRPGでいう最初の村だから、基本的な装備は全部あそこで手に入る」
「だったらお遍路する時に売店で買ってそのまま出発できるから安心っスね」
「まさに始まりの地ですね」
「じゃあお遍路グッズの件はクリアしたことだし、次に行くね」
②立つ鳥跡を濁さず
「野宿で泊まった場所は、来る前よりもきれいにして去ること」
先述したが、野宿はあくまでその場所を『使わせてもらっている』だけなのだ。だから汚さないように使い、汚したら掃除するのが当然。ゴミを放置して帰るなど以ての外である。
「まあ、それは当たり前っスね」
「けど、意外とこれができない人が多いんだよ」
「ゴミの放置は野宿に限らずアウトドア全般で問題になってますね。それで閉鎖する施設が増えているとか」
「最近多いわよね。自分さえよければいいって人が」
やれやれ、といった感じで幸貴が肩をすくめる。
「それじゃ次」
③あまり目立たないこと
「お遍路のルート上にある土地に住んでる人は、野宿してる人を見るのに慣れてはいても気分を悪くする人もいると思うの。だからなるべく建物の陰にテントを張ったりして、目立たないように気を遣ってね」
「確かに、自分の住んでる地域に頻繁に他所の人が来て勝手にテント張って寝泊まりしているのは気になるわね」
「常に不審者がウロウロしているのと同じっスからね」
「海外から来る人もいますから、外国人に不慣れだったり偏見がある人もいるでしょうね」
「だから野宿は夜人目がなくなってからテントを設営して、朝は夜明けと共に撤収するのが無難かな」
「まるで悪い事してるみたいっスね……」
「実際、法には触れていないけどグレーなことしてるからね」
だからね、と紗月は話を繋げながら黒板に文字を書く。
④注意されたら素直に撤去すること
「野宿をしていると、必ず注意してくる人が出てくるの。そういう時は絶対に反論したり文句を言ったりせず、素直に撤去して別の場所に移動すること」
この国の土地はすべて、個人や市町村など誰かの持ち物である。そこを間借りするとなると、当然嫌がる人も出てくる。
おまけにその土地の持ち主でも関係者でも何でもない人間が、ただその日の気分だったりただ目障りだという理由で文句をつけてきたことも幾度となくあった。
そういう時は、無理に反論したり説得したりしようとせず素直に撤去した方がトラブルが少ないことを紗月はこれまでの経験で学んだ。
「あと、他の野宿してる人との距離感も大事。もしかち合ってしまってお互いのテントが充分な距離を取れないなら、無理せず他の場所を探してね」
「テントで寝ているそばに他人がいるのは不安ですからね」
達樹も初めてテントで寝た時、その無防備さに驚いたものだ。普段壁と天井に守られていることが、どれだけ幸福なことであるか実感したのを憶えている。
「それじゃあ最後。これが一番大事だから絶対に憶えてね」
⑤自分の身は自分で守る
「日本は平和で治安の良さも世界トップクラスだけど、だからといって完全に安全ではないわ。だからもしもの時に自分の身を自分で守れなければ、単身で野宿なんてやめた方がいい」
近年のキャンプブームにより女性のソロキャンパーが増えたが、同時にキャンプ場での被害報告も増えた。管理人のいるキャンプ場でさえこれなのだから、誰もいない場所での野宿だとどうなることやら。
「もしもの時は警察に通報したらいいんじゃないの?」
幸貴の問いに、紗月はまるで予想していたかのように即答する。
「警察はあてにできないって言うか、呼んですぐ来るわけじゃないからね。通報してこっちに来るまでの時間で、どんな被害に遭うか想像できる?」
「う、それは怖いわね……」
「そもそも通報できる状況じゃない場合もありますからね」
達樹は思い出す。以前紗月と一緒にキャンプに行った毅然山キャンプ場での出来事を。自分は通報することすら思いつかず、ただ紗月の背中に隠れることしかできなかった。もしあの時彼女がいなければ、自分はいったいどうなっていただろうか。想像するだけで寒気がする。
「それなら大丈夫っス。自分、こう見えても昔空手やってたから腕にはちょっと自信あるっスよ」
意外にも、鞠莉が自信満々に立ち上がる。胸の前で両腕をクロスさせ、勢いよく腰だめに構え押忍のポーズを決めると確かに経験者らしく見える。
だがそんな鞠莉に応えたのは、紗月ではなく矢内だった。
「前田、それは自信過剰というものだ。お前の体格じゃ、並みの男相手でも手こずるだろうよ」
「わたしも先生の意見に同意よ。いくら格闘技の経験者でも、単純に体格の差は覆し難いの。腕に覚えがあるのは結構だけど、自分の実力を見誤るとケガだけじゃ済まないかもしれないわよ」
紗月は「そもそも」と付け加える。
「暴力は良くないわ。こちらが暴力に訴えれば、相手はより強い暴力で迎え撃ってくるかもしれないんだから」
「男の人をぶん投げた人が言っても説得力がないんじゃ……」
「あ、あの時はたまたまだから!」
ぽつりと言った達樹の言葉を慌てて訂正すると、「ともあれ」と無理やり続ける。
「何も真正面から戦う必要なんてどこにもないの。それよりも危険を察知し、未然に回避するように努力することの方がよっぽど大事。『君子危うきに近寄らず』。昔の人はいいこと言ったよ」
うんうん、と腕を組んで何度も頷く紗月。
「じゃあどうしたら、危険を未然に回避できるっスか?」
「うん、それじゃあその辺をもう少し詳しく話そうか」




