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野宿ガール  作者: 五月雨拳人
58/68

58話 嫌われる勇気②


     ◇


 話は戻って現在。


 達樹の車は、三車線ある国道192号線の中央の車線を走行していた。


 朝の通勤ラッシュはとうに終わり、車の流れは至って順調。正午の昼食ラッシュまでは平穏な時間が過ごせるだろう。


 左車線の車が、時折道路側の店に入ろうと減速するために流れが滞るのに対し、中央と右車線の流れはほとんど一定している。


 それでもわずかに右車線の方が流れが速いのか、紗月の車が右側から追い抜かれることが何度かあった。


「あ~、また抜かれた。ちょっとこの車遅くない?」


 何が気に入らないのか、それまでスマートフォンに夢中だと思っていた右子が不満の声を上げた。


 達樹は法定速度を守っているのだが、確かによく追い抜かれる。だからといって彼女が車の流れを無視しているわけではない。今日はたまたま急いでいる者が多かったとか、そんなところだろう。


 だが右子の不満に便乗するように、左子も苛立った声を上げる。


「あたしさ、トロトロ走られるの嫌いなんだよね。だからさ、もっと飛ばしてよ」


「そうそう。右側が速いんだから、そっち移ってもっとスピード上げてよ」


 右子と左子の好き勝手な物言いに、達樹は頭が痛くなる。仮にも運転免許を持っていたら、こんなことは言えるはずがない。もしかして無免許なのだろうか。


(さっちゃんなら、絶対こんなこと言わないのになあ)


 二人の言葉にげんなりしつつ、達樹は紗月のことを思い出していた。



「キャンプとかで長時間運転する時は、なるべく車線変更はしちゃ駄目。三車線あるなら中央か右車線。二車線なら右側を走るのが鉄則」


 助手席でやおら熱弁を振るい始めた紗月に、達樹は「どうしてですか?」と返す。


「せっかちな人はさ、ちょっとでも早く行こうとして空いてる方に車線変更を繰り返しがちだけど、あれ実際はそんなに到着時間変わらないからね」


「そうなんですか?」


「うん。変わっても五分や十分程度で、一時間とか劇的に変わることはないって統計が出てるよ」


 へ~、と感心する達樹。まあこれは、昔父親に送られて来たJAFの会報に載っていた記事の受け売りなのは内緒だ。


「でも大して時間が変わらないわりに、車線変更するたびにリスクが生じるじゃない。何度も事故を起こす危険を冒した見返りが誤差程度って、まさにハイリスクローリターンだよね」


「確かに。それならずっと同じ車線を走った方がいいですね」


「それだけじゃないよ。運転ってさ、ただでさえ疲れるじゃない。けど車線変更するともっと疲れるの」


「わたしは特に疲れませんけど……」


 運転で疲れるということにあまり実感が湧かない達樹は、頭を左右に振ったり軽く肩を動かす。


「運転で疲れるのは身体じゃないよ。疲れてると思ってるのは、実は長時間同じ姿勢でいるために筋肉が凝り固まってるだけだから。実際に疲れているのは脳。車線変更する時って、脳内では何度も選択をしてるじゃない。後方確認とか周囲の車の流れとか様々な情報を瞬時に検討して、車線変更するタイミングを計る。それはもう、脳が目まぐるしく思考してる。だから疲れるの」


「なるほど。特に身体は疲れていないのにやたら欠伸が出るのは、脳が疲れていたからなんですね」


「なので、運転中はできる限り車線変更はしない。頭からっぽにして車間距離多めに取って、前の車についていくぐらいで丁度いいの。運転中の脳の疲れは致命的だからね。いざって時に冷静な判断ができなくなるから、できるだけ温存しとくの」



 達樹は今、あの時の紗月の教えを実践している。


 確かにあくせく車線変更をするより、余計なことは考えず前の車についていくのはかなり楽だ。


 あまりに達樹が無反応だったせいか、右子と左子はいつの間にか静かになっていた。バックミラーを見ると、またスマートフォンを見ている。落ち着きのない子供をおとなしくさせるためにスマートフォンを与える母親が多いのが、少し理解できた。


 車はやがて国道192号線から国道32号線へと入る。ここから車線はぐっと減り、片側一車線の狭い山道へと入る。そしてその先には四国の難所、酷道ヨサクと呼ばれる国道439号線が待っている。


 達樹はちらりとメーターを見て、ガソリンの残量を確認する。ガソリンメーターの針は、半分を少し切ったところだ。


 ふむん、と達樹は思案する。この先は極端にガソリンスタンドが減る。給油のタイミングを間違えると、下手すれば山道でガス欠になって立ち往生もあり得る。なので安全を第一に考えて、今のうちに給油しておくべきだと判断した。


『たっちゃん知ってる? 自衛隊の人はね、自分の車でもガソリンが半分になったら給油するんだよ。そうしていつも満タンにしておけば、いざって時に困らないからね。あ、これ豆ね』


 空の助手席に、乗っていないはずの彼女の姿が浮かぶ。達樹は思わずくすりと笑った。


「すいません、ちょっとガソリンスタンドに寄りますね」


 後部座席に向かって声をかけると、右子と左子は「あー」とか「うー」とか呻き声のような声を上げた。どうやら返事のようだが、スマートフォンから目を離しすらしない。


 それを了解だと解釈し、達樹は目についたガソリンスタンドへと入った。


 セルフのガソリンスタンドで給油を終え、レシートを手に車内に戻る。


 まだキャンプすら始まっていないが、ここが正念場だと思った。


 彼女たちの反応如何とその後の達樹の行動で今日の、いや、これからの自分の人生ががらりと変わると言っても過言ではない。


 緊張で喉が渇き、心臓の鼓動が速くなっていく。


 やめようか。何度もそう思ったが、このままでは自分は何も変わらない。ただ良い人という名の搾取される弱者のままでいたくなかった。


 だから、言った。


「えっと……15リットルで2700円だったので、一人900円でお願いします」


 すると、それまでスマートフォンから目を離すと死ぬのではないかと思うくらいそこしか見ていなかった右子と左子が、弾かれたように顔を上げた。


「えー、お金取るの!? 信じられない!」


「友達からお金取るって、ありえなくない?」


「樺山さんってお金にうるさいんだね。ちょっと幻滅……」


「あたし樺山さんがそんな人だと思わなかった」


 口々に好き放題言う二人を見て、緊張で紅潮していた達樹の顔が急速に冷めていく。


 ああ、やっぱり彼女の言った通りだった。


『友達から金取るのかよって言う人こそ、相手を友達だと思っていないからね』


 思わず溜息が出たのは、彼女たちに落胆したからではない。落胆は、期待から生まれるものだ。元から期待をしていなければ、落胆することはない。


 この溜息は、単純に疲れたからだ。


 もうこれ以上二人の相手はしたくない。


 だからもうここまでだ。


「わかりました。もう結構です」


 そう言うと達樹はシートベルトを締め、エンジンをかける。


 右子と左子はその後もしばらくぶつぶつと達樹に不平を並べていたが、やがてまたスマートフォンの操作に戻った。


 だから二人は気づかなかった。


 達樹が来た道を引き返していることに。



 それから二時間後。


 車は達樹たちが通っている大学の前に到着した。


 そこは、今朝彼女たちが待ち合わせをした場所である。


「皆さん、降りてください」


 達樹がサイドブレーキを引きながら言うと、右子と左子が同時にスマートフォンから目を上げる。


「やっと着いたの?」


「超疲れた。ってかこれからキャンプってだるくない?」


「それな。樺山さんにテント張ってもらおうよ」


「うける~」


 二人は窓から外を見て、そこでようやく気がついた。


「って、ここ大学じゃん!」


「キャンプ場じゃないの!?」


 目的地だと思っていたら出発地点だったことに、二人は混乱する。何かの見間違いかと思って車から降りるが、やはり事実は変わらない。


「どういうことよ!」


 二人が運転席に詰め寄ってきたので、達樹は窓を開けて表情一つ変えずに言った。


「キャンプは中止にしました」


「いきなりどうして!?」


「貴方たちには教えても無駄だと判断したからです」


 道具を用意するどころか、移動手段もすべて他人任せ。挙句の果てに、費用を請求したら逆ギレする始末。これが人に物を教わる態度だろうか。いや、それ以前に人としてどうなのか。


 もっと早く気付くべきだった。


 いや、とうの昔に言われていたではないか。


 やはりあの人は正しかった。


「ちょっと酷くない?」


「それが友達に対する仕打ち?」


「友達? 友達とは、自他共栄の存在です。相手に頼り切っているのを――いいえ、自分の都合のいいように利用しているのを友達とは言いません。なので、貴方たちは友達ではありません。どうぞお引き取りください」


 きっぱり言い切ると、達樹は話はこれまでとばかりに窓を閉めてエンジンをかける。


 車が走り出し見えなくなっても、二人は呆然としたままだった。



「言った……言ってしまった……」


 信号待ちで停車すると、達樹は大きく息を吐いた。震える手をハンドルから離すと、掌にびっしょりと汗をかいていた。


 怖かった。


 だが、これからのことの方がもっと怖い。


 あの二人はきっと、明日から大学であることないこと吹聴して回るだろう。自分らのことを棚に上げ、達樹を悪者に仕立て上げて周囲の同情を誘う。それを真に受けた連中がどれだけ出るかわからないが、恐らくゼミでの評判は最悪になるだろう。


 完全に嫌われた。まあそれだけのことをしたのだから仕方がないが、だからといって悪い噂が立つのは納得できるものではない。


 けどそれがなんだ。


 言ってやった。


 やってやった。


 大学に戻った時の、あの二人の慌てぶりときたら。今思い出しても吹き出してしまう。


「ああ、すっきりした」


 キャンプ道具のレンタル料は無駄になったが、これも勉強代だと思えば安いものだ。


 達樹は掌の汗をズボンの太ももで拭うと、しっかりとハンドルを握り直した。


 ちらりと助手席を見て、ぽつりと呟く。


「さっちゃんとキャンプに行きたいなあ……」


 信号が青に変わり、前の車が動き出す。


 紗月の車もゆっくりと走り出した。


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