53話 剣山
◇
午前十時ごろ。
大学を出て三時間ぐらい走ると、車は剣山の見ノ越登山口にある駐車場に着いた。
「よ~し着いたぞ」
紗月と赤井が車から荷物を持って降りると、矢内が窓から身を乗り出すと、
「それじゃ、明日の昼ごろ迎えに来るから、それまで楽しんで来い」
それだけ言い残してさっさと車を発進させて帰ってしまった。
後に残された二人は、あっという間に小さくなる矢内の車を見送ることしかできなかった。
「……先輩、とりあえず行きましょうか」
紗月の提案に、赤井は無言で頷く。
こうして二人は剣山に登り始めた。
剣山には駐車場近くの見ノ越駅から中腹にある西島駅まで一気に行けるリフトがあるが、今回は使わずに劔神社から出発する。
「こんな山の中なのに立派な神社があるんスね」
劔神社の本殿に紗月が能天気な感想を漏らすと、すかさず赤井が解説を始める。
「元は大劔権現って名前だったんだけど、明治に改称して劔神社になったんだって」
「権現とはまた大仰な名前だったんですね」
「名前は大仰だけどここは分社で、中腹にある大劔神社が本社なの」
「ああ、あの『天地一切の悪縁を絶ち』云々の。で、こっちが会社で言うところの支社みたいなもんですか」
「……まあそんなカンジ」
「分社でこれだから、本社の本殿はさぞ立派なんでしょうね」
紗月の言葉に、赤井は首を横に振る。
「大劔神社の本殿は劔神社に比べると慎ましいものよ。だってここよりもっと山の上にあるんだもの」
「なるほど。建てるのに資材を運ぶのも一苦労ってことですか」
「昔は今と違って山道も整備されていないから、登るだけでも大変だったでしょうね」
「じゃ、みんな登る前はここでお祈りしたんでしょうかね」
「そうかもね。わたしたちもお祈りして行きましょうか」
「ぜひそうしましょう」
劔神社で登山の安全を祈願し、本殿右手にある登り口から登り始める。
登山道は人の手が入って整備されてはいるものの、如何せん年月と幾千万の人々に踏みつけられ少し荒れている。
だがワンゲルから借りた登山靴は大したもので、多少石が転がっていようが足元に不安はまったくない。
それに先導する赤井のペース配分は絶妙で、小休止もこまめにするので素人の紗月でも苦労なく着いて行けた。
登り始めて一時間ほど経っただろうか。前を歩いていた赤井が立ち止まった。
「ここでちょっと休憩します」
紗月も立ち止まり、一息つく。
ここまで登るのに集中するために下がっていた顔を上げると、青い空と白い雲の下に緑の山々が見えた。
「おお、絶景かな」
そうして視点を遠くから近くに戻すと、松の木が乱立する中にぽつんと枯れて朽ちた松が目に入った。
朽ち木と化した松の手前には木製の看板が立っており、そこには『刀掛の松』と書いてあった。
「ここはかつて屋島の合戦に敗れた平家の一行が源氏滅亡を祈願するため、この剣山に宝刀を収めようと山頂を目指したの。その途中ここで休憩を取った時に宝刀をこの松に掛けて休んだ事から、この松を『刀掛の松』と呼ぶようになったそうなの」
「へえ。そう思って見ると、この枯れた松もなんだか趣があるように見えますね」
それはたぶん気のせいだが、赤井は何も言わない。紗月は赤井の沈黙をよそにリュックからペットボトルの水を取り出す。
一口飲むと、九月と言えど暑さが残る中登山をして渇いた体には、ややぬるくなった水でも最高に染みた。
その時、紗月の脳内にある記憶が蘇る。
それは高校一年生の夏。
真夏の炎天下。
蒸し風呂のような武道場。
柔道部の休憩時間に飲んだミネラルウォーター。
限界まで渇いた体に染みわたる水の味。
あの、どんな清涼飲料水よりも美味いと感じた水の味を、一瞬だけど確かに感じた。
電気のように身体を駆け抜けた懐かしい感動に、紗月はしばし言葉を失った。
それを見た赤井が、
「どうしたの?」
と問いかける。
「いや、水があまりにも美味くて」
自分で言って何言ってんだコイツ、と思ったが、
「わかる」
意外にも赤井が少し微笑みながら同意してきた。
「わたしも、山で飲むお水好き」
「美味いですよね、水」
頷く赤井。
初めて見る自然な笑顔と共感してくれた嬉しさに、紗月も思わず頬が緩む。
それからしばらく休んだ後登山を再開したが、紗月の足でゆっくり登っても三時間で山頂に着いた。
山頂にある剣山本宮宝蔵石神社でお参りをし、お守りなどを物色してもまだ正午を回ったばかり。とりあえず来る途中買ってきた弁当を食べてはみたがまだ午後一時。明らかに時間を持て余している。
どうしたものかと紗月が景色を眺めていると、神社以外の建物が目に映った。
「先輩、あの建物は何ですか?」
紗月が指さすと、赤井が答える。
「あれはヒュッテ(山小屋)だね。食事と宿泊ができるけど、わたしたちは今日はテン泊だから関係ないよ」
宿泊と聞いて紗月は一瞬山小屋に泊まることを想像したが、よく考えたらワンゲルから山用の超軽量テントを借りてきていた。
だがテン泊――テントで泊まるのはわかったが、辺りを見回してもどこにもテント場がない。
「先輩、テン場はどこっスか?」
「山頂にテン場はないよ」
「え? じゃあ今日はどこに泊まればいいんですか」
「今日泊まるテン場は西島駅の近くだよ」
「西島駅って、まさかロープウェイの……」
「だから中腹まで下山しようね」
「マジっスか……」
こうして二人は登頂早々下山を始めた。




