52話 赤井登場
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ラリーにでも出るのかと思うような四駆の運転席の窓から顔を出したのは、サングラスをかけた矢内であった。
「待ったか?」
「いいえ、今来たところです」
「そうか」と矢内はサングラスを額にかけ直すと、車から降りる。
地面を踏みしめたのは、蹴られたら内臓が破裂しそうなほど先の尖ったウェスタンブーツだった。そして靴に合わせたような黒の革ジャンに革のパンツといういで立ちに、紗月は唖然とする。
大学では自分と同じようなジャージ姿だったり部屋着からそのまま来たような超ラフな格好しか見たことなかったが、プライベートやオフの日はこんな格好をしているとは意外だった。
それにしても、と紗月は思う。いつも野暮ったい服装をしているから気付かなかったが、タイトな革パンになると脚と腰の細さ、そして尻のラインが際立つ。おまけに革ジャンがはちきれんばかりに盛り上がっているのはどういうことか。
紗月が驚いて見ていると、矢内が視線に気づく。
「どうした嶌?」
「いや、いかついっスね先生……」
「そうか? だいたい普段こんなもんだぞ」
「一瞬、峰不二子か出てきたのかと思いましたよ」
矢内はアニメや漫画に詳しくなかったようで、「誰だよそれ」と笑って流された。
「――っと、そういえば嶌に紹介していなかったな。今日と明日お前をガイドしてくれる先輩だ」
矢内が四駆に向かって合図すると、後部座席のドアが開いて一人の女性が降りてきた。
身長は幸貴より少し高いくらいだろうか。よく日に焼けた顔の上にはベースボールキャップを被っており、後ろから結った髪を出している。
達樹と同じようにアウトドアメーカーのクライミングウェアを着込み、足には登山靴を履いてはいるが、こちらは明らかに使い込まれて体の一部になっているのがわかる。
女性は靴をごつごつ鳴らしながらやってくると、俯いたまま自己紹介した。
「どうも……赤井菜々香です」
「……声ちっさ!」
その後も赤井は自己紹介を続けたのだが、あまりにも声が小さくてほとんど聞き取れなかった。
初対面の目上の者に向かって「は? 聞こえないんですけど」と言えず途方にくれる紗月を見かね、仕方なく矢内が補足する。
「赤井菜々香。人間科学部三年、そして我がワンゲル唯一の部員だ」
「嶌紗月。文学部二年っス。よろしくお願いします……」
「よ~しお互い自己紹介は済んだな。それじゃあとっとと山に向かうか」
場を仕切り直すように矢内が手をぱんぱん叩く。
赤井と紗月が後部座席に乗り込むと、四駆がエンジンを唸らせて発進する。
「今日はいい天気だ。絶好の山日和だな」
矢内が全開にした窓から左腕を出して運転しながら、楽しそうに言う。
楽しそうなのは、車内で彼女だけだった。
聞こえるのはディーゼルエンジンが奏でる騒音と、たまに思い出したようにこちらに話しかけてくる矢内の声だけで、隣に座った赤井はずっと無言で窓の外を見ている。
ここまで人見知りでガイドが務まるのだろうか心配になる。
隣の無言に耐えられず、紗月は矢内に話しかける。
「先生、今日はどこに行くんですか?」
「剣山だ」
剣山は徳島県三好市東祖谷、美馬市木屋平、那賀郡那賀町木沢の間に位置する標高1,955mの山である。徳島県の最高峰で、深田久弥の日本百名山に四国では石鎚山とともに選定され、徳島県では県のシンボルとされている。
紗月も知識として知ってはいるが、登るのは初めてだ。というか、登山は高校の時にやった冬季天保山無酸素単独登頂以来で、四国に来てから山なんか登ったことない。
なので剣山だと言われてもピンと来ず、これでこの話はおしまいになると思われたのだが。
「あのね、剣山は千数百メートルの山々が連なる四国山地の東部にあって、同じく四国山地西部の愛媛県の石鎚山に次いで近畿以西の西日本では二番目の高峰なの」
それまで外を見て黙っていた赤井が突然こちらを向いて、堰を切ったように喋り出した。
「他にも、剣山はパワースポットの集まりで、いくつも神社仏閣があるの。まずは登山口の劔神社。御神体はなんとソロモン秘宝の一つと言われている三つの岩のかけら。凄いよね、ソロモンだよ。どうして古代イスラエルのソロモン王の秘宝が徳島にって話なんだけど、それは話すと長いからまた今度ね。で、次に登山途中にある大剣神社。『天地一切の悪縁を絶ち、現世最高の良縁を結ぶ』と言われるパワースポットで、そのご利益を得るために多くの人が訪れてるの。で、ここはご利益だけじゃなく湧き水が名水百選にも選ばれていて、病気を治す若返りの水としても有名なんだよね」
いきなり人が変わったように喋り出す赤井に、紗月は度肝を抜かれる。
「びっくりした~。急に早口で喋り出すから何事かと思った」
「赤井は超絶人見知りだが、山の話と気を許した相手にだけは饒舌なんだ」
だからわたし相手だとガイドの練習にならないんだよ、と矢内が苦笑いする。
紗月はようやく納得する。なるほど。だから自分なのか。
矢内も、できることなら自分が教え子の力になってやりたかっただろう。
それにしても、好きなものの話になると急に早口になるのはオタクあるあるなのだが、相手には自分がこう見えているかと思うと顔から火が出そうだ。
「とりあえず、いきなり早口にまくし立てるのはやめた方がいいですね」
「それな」
まだ山の話を続けている赤井をよそに、紗月と矢内が同時に笑った。
帰省のため次回は遅れます。




