47話 かずら橋と野宿ガール
◇
九月某日。
紗月は徳島県の山の中で立ち往生していた。
「まいったな……。完全にミスった」
バイクから降りヘルメットを脱ぐと、迂闊な自分に苛立ったように頭を掻きむしる。
時刻は午後七時半。
陽はほとんど落ち、街灯のない山道は薄暗い。
そんな闇の中に、ぽつんと一箇所だけスポットライトを浴びるように照らされている場所がある。
ガソリンスタンドだ。
電圧が不安定なのか、電灯がちかちかと明滅しているため不気味な印象を受ける。
折しも季節は晩夏。お盆はとうに過ぎているが、いかにも何か出そうな雰囲気なのは何も照明のせいばかりではないだろう。
何しろこのガソリンスタンドには誰もいないのだ。
設備や照明は生きているから、廃業したわけではない。ただ単に、店員がいないだけだ。もちろん無人のセルフスタンドではない。
では何故誰もいない。
事件やトラブルではない。これがここでは日常なのだ。
そう、田舎のガソリンスタンドは、閉まるのがやたら早いのである。フランチャイズではなく個人で経営しているため、夜は家に帰って家族で夕飯を食べるためにとっとと帰ってしまうのだ。
都会人は信じられないかもしれないが、田舎には24時間営業でないコンビニだってある。ガソリンスタンドなら何をいわんやである。
紗月がうっかりガソリンを給油するのを忘れ、燃料計がガス欠の危険を訴えているのに気がついたのが約一時間前。
無駄に走ってガソリンを浪費するのを防ぐためにスマートフォンでグーグルマップを開き、ガソリンスタンドで検索をかけて一番近いと出たのがここだ。
そうして残りのガソリンが尽きないように祈る気持ちでやって来たのだが、運命というのは残酷である。
「どうする。他のを探すか……?」
紗月は悩む。
グーグルマップだと次のガソリンスタンドはここから30㎞ほど距離がある。
今度はきちんとどんなガソリンスタンドかまで調べ、大手フランチャイズのものだと確認する。
だが安心できない。
何しろここは田舎で、しかも山の中である。
紗月はこれまで大手フランチャイズのガソリンスタンドでも、夜には閉まっているのを何度も見ている。
なので一縷の望みを託して行ったはいいが、やはり閉まっていましたという可能性は低くはない。
いや、それよりもむしろ懸念するのは30㎞という距離である。
紗月のバイクならばガソリン1リットルもあれば走れる距離だが、今はその1リットルがあるかどうかも怪しい状況なのだ。途中でガス欠になってしまったら、今度こそ立ち往生である。
しかも運悪く、こういう時に限って前回給油した時にオドメーターをリセットするのを忘れている。これでは走行距離から残量を逆算できない。
バイクを揺すってタンクの中にガソリンがどれだけ残っているか調べてみるが、ぴちゃぴちゃという頼りない音しか聞こえてこない。
こういう時、古いバイクならリザーブコックを捻れば予備タンクからガソリンが供給されるのだが、生憎紗月のバイクには搭載されていない。
最悪の場合、加入している保険を使えば車でいうJAFみたいな所がガソリンを届けてくれるのだが、使うと次回から保険料が上がる気がして、この程度のトラブルには使いたくない。
そうなると今は無理して動かず、朝になってガソリンスタンドの店員が出勤してくるのを待つしかないだろう。それが一番確実な方法である。
「参ったなあ、今日はここで夜明かしか……」
どうしてこうなった。
時間を少し戻す。
紗月がバイクで徳島県三好市祖谷にやって来たのは、昼を少し過ぎたころであった。
目的は、日本三奇橋の一つである祖谷のかずら橋である。
これまでツーリングで何度も近くを通っていたが、実際に見たことはなかった。なので九月も半ばを過ぎ、暑さも若干和らいでツーリングに耐え得る気温になってきたことだし、せっかく四国に住んでいるのだから一度くらいは見ておこうとやって来たのであった。
「身近にある観光地って意外と行かないよね」
駐車場にバイクを停め、料金を払う。
そこから少し歩くと、もう目の前がかずら橋だ。
平日だというのに観光客が多い。これが休日なら、橋の上も混雑するだろう。夏休みの長い大学生で良かった。
かずら橋は、シラクチカズラなど葛の類を何トンも使って編んだ吊り橋である。傍目には断崖絶壁をつり橋で渡る度胸試しスポットだが、これでも国指定重要有形民俗文化財に指定されている。
「すご……」
カタログや画像で何度か見たことあるが、ツタで編まれた吊り橋を実際にこの目で見ると秘境感が凄い。
紗月は思わず探検映画のワンシーンを思い出していた。
「インディージョーンズに毎回こういう橋出てきたっけ」
軽口が漏れてはいるが、視線はついつい下を向いてしまう。見れば恐怖が増すだけだとわかっているのに、つい見てしまう。足元に隙間があって、崖下がよく見えてしまうから困る。
思い切って足を乗せると、思った以上にしっかりとした感触に安心する。ちょっと隙間が大きくてそこから崖下がよく見える以外は、頑丈な吊り橋だ。
三年ごとに新しく架け替えているので老朽化の心配もない。知ってしまえば、何ら怖がることのない安全な橋だった。
往復して駐車場に戻ると、腹が減っていた。時刻も午後一時を過ぎているから当然だろう。
「よし、蕎麦でも手繰りに行くか」
祖谷名物と言えば、かずら橋の他にもう一つある。
祖谷蕎麦だ。
紗月はバイクを走らせ、蕎麦屋へと向かう。
ランチタイムにぎりぎり間に合ったので、蕎麦とカツ丼のセットを頼んだ。
祖谷蕎麦は太く短くてすぐ切れるのが特徴なので、すすらずに食べる。十割蕎麦のようにざらっとした舌ざわりを楽しみつつ、合間にカツ丼を頬張る。
腹が満たされると、再び祖谷観光に戻る。
祖谷渓で小便小僧を見た後は、有名アウトドアショップを冷やかす。あれも欲しいこれも欲しいと時間を忘れて店内を舐めるように見て回っていたら、すっかり夜になっていた。
「そろそろ帰るか。しかし何か忘れてるような……」
バイクに跨り、キーを捻る。メーターパネルに電気が灯り、各パラメーターが表示された。
そこで紗月は、ガソリンの残量を表す四つのパネルが一つも灯っていないことに気づいた。
「しまった! 給油するの忘れてた!」
時間を戻そう。
こうして紗月は祖谷での野宿を余儀なくされたのである。
しかも今日は日帰りの予定だったのでキャンプ道具は一切積んでいない。せいぜい箱の中に雨具があるぐらいだ。
とはいえ、天気は明日も崩れる心配はないし、九月なので凍える心配はない。むしろまだ蒸し暑いぐらいだ。体一つでどうにかなる時期だったのは不幸中の幸いだろうか。
「さて、問題はどうやって寝るか、だ」
ブルーシートなど敷物の類は持っていないので、地面に直接寝ることはできない。できなくはないが、服が汚れたり体が痛くなったり寝ている間に蟻に集られるのでやりたくない。
「となると、これしかないか」
紗月はバイクのセンタースタンドを立てると、バイクに跨りハンドルに両腕を置いて枕にしてうつ伏せになった。
座ってうつ伏せの状態でひと晩過ごすのは、かつて大洗に聖地巡礼に行った時以来だろうか。
不思議な懐かしさを感じながら、紗月は眠りについた。
明日、なるべく早い時間にガソリンスタンドの店員が出勤してくることを願いながら。




