42話 箱根の山は天下の険
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自動ドアが開いて休憩室に誰かが出入りするたびに、紗月は浅い眠りから起こされた。
その都度自分の体とリュックサックが無事なのを確認し、また浅い眠りへと入っていく。そんなことを何度か繰り返しいるうちに、夜が明けた。
すっかり冷房に冷やされた体は、自動ドアを抜けて一歩外に出た途端陽の光に温められ汗が滲んできた。
机に突っ伏して寝ていたため凝り固まった体を伸ばしてほぐす。ベキベキと音を立てながら背骨が伸ばされると、痛気持ちよくて思わず変な声が出る。
まだ早朝だというのに、どこからか蝉の鳴き声が聞こえてくる。
夏、真っ盛りである。
「今日もあっつくなりそうだねえ」
建物内のコンビニで朝食を済ませ、水筒に麦茶を補充する。ガソリンはまだ半分残っているから、急いでガソリンスタンドを探す必要はないだろう。
リュックサックを背負い、スクーターに跨る。キーを回してセルスイッチを押すと、エンジンが一発でかかる。昨日の酷使をものともせず絶好調で頼もしいが、今日はもっと酷使するだろうから頑張ってほしい。
「さて、行きますか」
紗月も気合を入れ直す。何しろ今日はこの旅一番の難所を通る予定だ。自然とアクセルを握る手に力が入る。
道の駅を出て、再び国道1号線に乗る。朝日を受け紗月が向かった先は、東海道を江戸へと向かう途中にある要衝
箱根峠である。
「はっこねの山は~天下の険~函谷関もものならず~」
箱根に入ると、自然と滝廉太郎の箱根八里を口ずさんでしまうが、ここ以外の歌詞を憶えていないし、函谷関が中国の大昔の関所だというのを知ったのはごく最近である。まあ例によって漫画で知ったのだが。
しかしゴキゲンなのは乗っている紗月だけで、乗られているスクーターはさっきからずっとアクセル全開なのに法定速度以下を保っている。
それもそのはず、箱根は峠なのだ。峠というのは、坂道のことである。
どうやら原チャリのよわよわエンジンには箱根峠の坂はきつかったようだ。
「がんばれ、がんばれ」
それでも励ましながらのろのろ進んでいると、突然ガツンと何かに腰のベルトを引っ張られた。
「え、なに?」
こんな真昼間に怪奇現象かと思ったが、それ以降何も起きなかったので気にせずそのまま進んだ。
違和感に気づいたのは、それから五分後だった。
「ない! ないない! 財布がない!」
やけに尻が軽いと思って触ってみたら、ズボンの尻ポケットに入れていた財布がなくなっていたのだ。
朝、道の駅のコンビニで朝食と麦茶を買った時には確かにあったから、それ以降に落としたのは間違いない。
だがどこで? と考えたところでわかるはずがない。わかっていたら、そもそも落としていないのだから。
しかしながら財布には落下防止のウォレットチェーンが繋げてあったはずなのに、どうしてそれごとなくなっているのか。
考えるのは後だ。紗月は慌ててUターンし、来た道を戻る。財布はオリーブドラブの長財布だから、道路に落ちていればすぐに見つかるはずだ。
祈るような思いで紗月は走ったが、十分ほど来た道を戻っても財布は見当たらなかった。道の駅まで戻るかと考えたが、今あの道は交通量が増えてとんでもないことになっているだろう。それでも、諦めるという選択肢はないので戻るしかないのだが。
「まずい……」
財布には、全財産が入っていた。もしそれがなくなったら、帰ることすらできなくなってしまう。
どうすればいいのか、まったくわからなかった。
全身から血の気が引き、真夏だというのに寒気すら感じた。
いま冷静に思えば、仮に財布が見つからなかったとしても、スマートフォンがあるのだから実家に電話して父に迎えに来てもらえば済む話なのだが、ショックで呆然とした頭ではそこまで考える余裕がなかったのだ。
一度冷静になるために、スクーターを路肩に停める。大きく深呼吸をして、これからのことを考えようとした。
その時、ふと腰に衝撃を感じたことを思い出した。
あれは何だったのだろう。そう思って何気なく腰に手を回したとき、パズルのピースが繋がるように事件の真相がわかった。
あれは、ベルトに繋げておいたウォレットチェーンが引っ張られた衝撃だ。その証拠に、あるはずのウォレットチェーンがなくなっている。
ではどうしてなくなったのか。それは、走っている衝撃で尻ポケットから財布がずり落ち、スクーターの後輪に巻き込まれたからだ。
紗月は急いでスクーターを降りて後輪を確認する。
すると予想通り、後輪のホイールにウォレットチェーンがからまっていた。そしてウォレットチェーンの先には、オリーブドラブの長財布がよれよれになりながらも繋がっていた。
「あったあああああああああ………………」
へなへなとその場に崩れ落ちる紗月。
旅が終わるかもしれないという恐怖から脱し、自然と涙が浮かびかける。
今後バイクに乗る時は、絶対財布を尻ポケットに入れるのはやめよう。そう心に固く誓った紗月であった。
再びUターンをし、東京を目指す。
箱根峠を抜けると、それまで鈍足だったスクーターが嘘のように軽快に走る。やはり平地は良い。
と思っていたら
坂
坂
坂
「東京坂多くない!?」
神奈川県を抜けて東京に入った辺りから、再び速度が出なくなった。さすがに愛知の時のように後続車に煽られることはなかったが、やたら車線が多かったり矢印看板が初見殺しだったりで別の意味で神経がすり減る。
遠くに東京タワーとスカイツリーが見えるが、人工物は富士山の時のようにテンションが上がらない紗月であった。
そうこうしているうちに、国道1号線の終着点が近づいてきた。
東京千代田区警視庁桜田門だ。
これまで何も考えずにただひたすら青看板の1号線だけを追ってやってきたが、それもここで終わりである。
ここから先は兄の言った通り、どうにかして国道6号線に乗らなければ目的地の大洗に着かない。
「さて、どうしたものか……」
困った。
目の前には、六尺棒を持って立哨する警察官が二人。
「困った時にはお巡りさんに助けてもらおう」
関西ではよくあることだが、紗月はよく他人に道を訊かれるし、自分も他人に道を訊くことに抵抗のない人間である。なので迷ったらまず交番に行くか、交番がなかったらそこらを歩いている人に訊くのはいつものことである。
おまけに目の前にいるのは、警視庁桜田門――つまり警察の本部のお巡りさんたちだ。きっとそこらの交番にいる警官より優秀なのだろうから、訊けば何でも答えてくれるはずだ。(個人の感想です)
さっそく紗月はスクーターを降り、エンジンを切る。バイクは降りてエンジンを切って押せば、その瞬間から歩行者にジョブチェンジして歩道に入れるのだ。
スクーターを押しながら近づいてくる紗月に、周囲を警戒しているお巡りさんが気づく。不審者と思われていないか心配しながら、なるべく自然な感じを心掛けて動く。
「あの~、すいませ~ん」
ヘルメットのシールドを開けて顔を見せると、お巡りさんの警戒心が少し減ったような気がした。
「どうかされましたか?」
「道を尋ねたいんですけど」
言いながら、紗月はロードマップを開く。
「茨城に行きたいんですけど、国道6号線ってどっちに行けば乗れますか?」
「国道6号線……」
お巡りさんは紗月が広げたロードマップに目をやると、もう片方のお巡りさんも近寄って地図を見る。
「どこ行きたいって?」
「茨城って。それで国道6号線に行きたいって」
「なるほど。だったらここからまっすぐ行って――」
それからお巡りさん同士でいくつかやり取りした後、片方が代表するように紗月に向かって言った。
「この道をまっすぐ行って有楽町を左折し大手町を右折。大丸を越えて江戸橋で右折、さらに三越前を右折したら国道6号線ですよ」
「…………………………はぁ」
ご丁寧に地図の道を指で沿って説明してくれたが、つい数時間前に初めて東京に来た超おのぼりさんに地名で道順を説明されても呪文にしか聞こえない。
「すいません、もう一回いいですか?」
「この道をまっすぐ行って有楽町を左折し大手町を右折。大丸を越えて江戸橋で右折、さらに三越前を右折したら国道6号線ですよ」
RPGの村人のように同じセリフを言われたが、やはり理解が追い付かなかった。だがこの道をまっすぐ行けばいいのだけはわかったので、紗月は二人のお巡りさんに礼を言ってその場を離れた。




