37話 原点
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世界的に流行したウィルスの影響で様々な催し物が自粛されていたが、最近ようやく緩和されてきた。
映画館は解放され、演劇も限定的ながら公開され始めた。屋外ならマスクは個人の判断で外しても良くなり、屋内で開催されるイベントも復活した。
その中のひとつ、国内最大級の同人誌即売会もようやく再開されることとなり、本邦のみならず全世界のオタク達を歓喜させた。
しかし入場者として参加するだけならただただ喜ばしいだけの再開も、本を作る側にしたら純粋に喜んでばかりもいられなかった。
イベントが中止だった頃は、オンラインでデータ販売やネット通販で本が売れた。最近では代理店に手数料を払えば在庫管理から発送まですべて執り行ってくれるので、作者は雑務に煩わされることなく創作に打ち込むことができた。
そして何より素晴らしいのは、データ販売や通販は入荷期限がない。いつでもいいから商品が完成し次第手続きすれば、順次販売してくれる。
つまり、締め切りがないのだ。
夏と冬の年二回限定の即売会だと、この日までに完成させなければ当日新商品がなく、過去の商品と仕方なしに前日でっち上げたコピー本でお茶を濁すしかなくなる。
当然、そんな投げやりなブースに客が寄り付くはずもなく、一日中閑古鳥が鳴くブースに座りながら周囲の盛況さを恨めしく思いつつ、次回こそはとかもっと早くから手をつけておけば良かったと後悔するのみだ。
しかし人間とはかくも愚かなもので、喉元過ぎれば熱さを忘れるの言葉があるように、大量の余ったコピー本とともに帰宅してさあ次回こそはこの雪辱をとねじり鉢巻きをするかと思いきや、なんだ次回までまだ半年もあるではないかとゲームなどにうつつを抜かす有様であった。
高橋幸貴もその愚かで愛おしい人間の一人で、締め切りに余裕があればあるだけ遊んで尻に火が付くまで取り掛からない、駄目な創作者によくあるタイプだった。
某月某日
ただでさえ締め切りを守らない上に、昨今のオンライン販売で期日に縛られないことに慣れてしまった幸貴は、イベント数日前になってようやくエンジンがかかった。
「そんなエンジン捨ててしまえ」
とは友人の嶌紗月の談である。彼女は幸貴の土壇場までかからないエンジンに振り回される犠牲者の一人で、今日もまた締め切りギリギリの修羅場に付き合わされている。
深夜二時
「ところでさあ」
アパートの一室でテーブルを挟んで向かい合って同人誌の原稿を書いていた幸貴が、眠気を紛らわせるために話題を振ってきた。
「さっちゃんってどうして野宿しようと思ったの?」
恐らく本心から知りたいわけではないだろう。知りたいのならもっと早く、出会った頃にでも訊かれている。
二徹から先は意識が飛び飛びになって、今何月何日どころか自分の生年月日や血液型もあやふやになっている。ほぼ停止した脳みそでどうにか睡魔に対抗するには、何でもいいから会話をしていないと秒で眠ってしまうから振った話題だ。
なので幸貴は訊いておきながら、紗月が答えるのを待ってはいない。その間ずっとペンを動かす手が止まっていないのは、さすがと言ったところだろうか。
眠気覚ましに額に貼った冷却シートは、すでにメントールに耐性ができてしまったためほとんど効果がない。
隈取りのような濃いクマのできた目元と瞼に直接メンタムを塗ってみたが、涙どころかあくびが出る始末だ。
一度インドメタシン系の液体湿布薬を目元に塗ってみたら、スースーするどころか痛すぎて目を開けられなくなったことがあった。あの時は石鹸で洗ってもなかなか痛みが引かなくて、原稿が落ちる半歩手前まで行ったのでもう二度とやるまいと思ったものだ。
「どうしててって、理由はこの間言ったじゃない。宿泊費の節約だって」
紗月は貼りつけたスクリーントーンをカッターナイフの背で削る。素人でもデジタル作画が多い昨今、珍しくアナログで漫画を描いているのは単純に初期投資する予算がないからだ。アナログなら最悪紙とペンさえあれば漫画は描けるが、デジタルは最初に揃える機材の値段が学生に優しくないのだ。
「そうじゃなくて、きっかけとかなかったの?」
「きっかけかあ……」
仕上げが終わった原稿用紙を幸貴に渡すと、すぐさま新しい原稿用紙が返って来る。今度はカッターナイフを筆ペンに持ち替え、バツ印が打たれた箇所を黒く塗り潰す作業、ベタに取り掛かる。
「やっぱアレかなあ、聖地巡礼」
「聖地? どこの?」
「大洗」
「ああ、戦車の」
「そうそう」
「いつ行ったの?」
「高二の夏休み」
「……時系列おかしくない?」
「わたし、テレビシリーズじゃなくて劇場版から入ったんだ」
それでも諸々ツッコミたいことがあったが、話が進まないので良しとしておこう。
「うん、まあいいや……。詳しく聞こうか」
「あの頃はわたし大阪にいたからさ、同じ本州なら何とかなると思ったんだよね」
現在紗月たちが大学に通うために住んでいる四国だと、本州に渡るだけでも大変である。
しかし当時は同じ本州の大阪に住んでいた。道路は繋がっているのだから、走っていればいつかは着くと単純に思っていた。
要するに、馬鹿だったのだ。
今でも馬鹿なのは変わらないが、当時はもっと馬鹿だった。若さという非科学的なエネルギーだけで、どこまでも行けるという根拠のない自信だけがあった。
そうして考えなしに突っ走った青春の一ページを、紗月は訥々と語り始めた。




