35話 温泉
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「ふう、いいお湯だった」
首の後ろにかけたタオルを両手で引っ張りながら、紗月は満足そうに言った。
「……いえ、まだ入ってないじゃないですか。いきなりどうしたんですか?」
「いやあ、せっかくの温泉回が入浴シーンなしで終わったら面白いかなあって」
「よくわかりませんが、きっと怒られますよ」
怒られるのは厭なので、ちゃんとしよう。
二人は暖簾に女湯と書かれた方に入ると、脱いだ靴を下駄箱に入れる。
「この木札が鍵になったタイプの下駄箱、銭湯みたいで味があるよね」
「下駄箱は古風ですけど、他は近代的ですね」
達樹の言う通り古風なのは下駄箱だけで、脱衣所に入るとコインロッカーの他にウォーターサーバーや最新式のマッサージチェアが何台も並んでいる。
二人は隣同士のロッカーに決め、脱いだ服を入れていく。
部活で集団の着替えに免疫のある紗月は、まるで自分の家の風呂に入るかのように何の恥じらいもなくホイホイ脱いでいくが、達樹は周囲に他人がいる状況で裸になるのに慣れていないのか、やたら恥じらって脱ぐのをためらっている。
「ほらほらたっちゃん遅いよ。早く脱がないと置いてくよ」
「そっちが早いんですよ……どうして人前でそんなに気軽に脱げるんですか」
「柔道の試合だと、体育館で色んな他校の人らと一緒に着替えとかあるしね。それにわたしの裸なんて別に誰も見てないだろうし、仮に見られても減るもんじゃなし。むしろたっちゃんこそ、見られて困るような体してないじゃない」
そう言うと紗月は、にたりと音がしそうな顔で笑った。
「わたしって筋肉質だからさ、たっちゃんみたいな女性らしいスタイルって憧れるんだよねえ」
「ちょっ……! 変な目で見るのはやめてください!」
達樹は慌ててバスタオルで体を隠すが、下手に隠したせいで扇情的になってしまっている。
「わたしは、腹筋が割れてる嶌さんの方がかっこ良くて羨ましいですよ」
全体的に細いが、出る所は出て引っ込む所は引っ込んでメリハリがあるせいか、出てる所が目立ってしまう達樹。
それとは対照的に、柔道をやっていたせいで肩幅が広く逆三角形なので見た目はかっこいいが全体的に凹凸のない紗月。
互いにないものねだりをしても仕方がないのはわかってはいるが、それでも相手を羨んでしまうのは女の性というものであろうか。
「恥ずかしがらなくていいじゃない。女同士なんだし」
「それはそうですけど、だからといってじろじろ見ないでください」
「ごめんごめん。もう見ないから早く入ろう」
「……わかりました」
ようやく覚悟が決まったのか、達樹は体を隠していたバスタオルを取って着ているものを一気に脱いだ。
「オッケー、それじゃあレッツ温泉!」
前も隠さず意気揚々と乗り込む紗月の後ろを、達樹はタオルで体を隠して猫背になりながら続いた。
ガラス戸を開けると、まず熱気が体に吹きかかる。湯気で煙った視界が晴れると、ようやく大浴場の全貌が露わになった。
「おお、広いね~」
左右の壁には蛇口やシャワーがついて体や頭を洗う湯屋カラン。中央には島カランが設置され、その奥には大小様々な湯船が並んでいる。
「あれ見てください」
達樹の指さす方を見ると、壁の一面がガラス張りになっており、もみじ谷を見下ろす壮大な景色が見渡せるようになっている。
「すごい。絶景だね」
「けど、外から見られるんじゃないかって心配ですよ」
「大丈夫だよ。向こうは谷だから、人なんていやしないって」
「頭ではわかっているんですが……」
「それよりサウナもあるよ。後で入ろ」
子供のようにはしゃぐ紗月は、まだ緊張の解けない達樹を置いてさっさと島カランの一つに陣取り体を洗い始める。
備え付けのボディソープとシャンプーで体と頭を洗い終わると、体を洗うのに使ったタオルを固く絞って立ち上がる。
「さて、メインディッシュだ」
ぴしゃりとタオルを背中に叩きつけると、紗月は床のタイルを踏みしめるように湯船へと歩く。
「あ、ちょっと待ってくださいよ……」
一人湯船へと向かう紗月を見て、持参したトリートメントで念入りに髪の手入れをしていた達樹が慌ててシャワーで洗い流す。
湯船は大浴場の名に恥じぬ大きさだった。
足先をそっと湯船に着けると、じんわりと熱が足を伝っていく。
ゆっくりと体を沈み込ませ肩までつかると、それまで自然と止めていた息を大きく吐き出す。
「くあああああああ……。染みるわあ」
「冬はやっぱり温泉ですよねえ……」
二人は一瞬で体中がほぐれてぐにゃぐにゃになる。特に達樹は慣れない山道の運転によるストレスが一発で溶けた。
どれぐらいそうしていただろう。二人は時間の感覚が麻痺するほど温泉に脳まで溶かされていた。
「……はっ!? いかん!」
「どうしたんですか~」
意外にも先に正気に戻ったのは紗月だった。達樹はその様子をとろけて照準の定まらない目で見ている。
「このままでは温泉に心まで溶かされてこのホテルに一泊しちゃいそう」
「え~、いいじゃないですか~。もう泊まっちゃいましょうよ~」
普段の達樹からは想像できないくらい完全にアホになっている。温泉恐るべし。しかし紗月はもっとアホになっていたのだ。正気に戻れたのは、普段野宿ばかりしているからホテルに泊まることに抵抗があったからだ。
「ほら、たっちゃん立って。ここから出ないともっとアホになっちゃうよ」
「え~やだ~。わたしここに住む~」
子供のようにぐずる達樹を無理やり立たせ、強引に湯船から引っ張り出す。しかしアホになったまま戻らなくなったようで、運転手がこのままでは帰るに帰れない。
「困ったな……どうすれば――」
何かショックを与えれば元に戻るだろうか。
その何かを探すため周囲を見回すと、水風呂が目に入った。
冷たい水をぶっかければ、ショックで元に戻るだろうか。
いや、駄目だ。心臓麻痺の危険がある。命の危険がある以上、この手段はとれない。
ならば逆。
冷ますのが駄目なら、温めるのはどうか。
そこで紗月の目に映ったのが、サウナであった。




