31話 カレーを食べよう
◇
達樹は大きな鍋を両手で持って来ると、紗月に向かって言った。
「嶌さんすみません。炊事場から切ったお野菜を持ってきてくれませんか」
「野菜ね。わかった」
紗月が炊事場に野菜を取りに行っている間に、達樹は鍋を焚き火にかける。
すかさず鍋にサラダ油を引き、切って下味をつけておいた牛肉を炒める。その間に紗月が野菜を持って帰ってきた。
「お待たせ。はい野菜」
肉の全面に焼き色がついたら、紗月から受け取った野菜を鍋に入れ、軽く火が通るまで炒める。
手際よく料理をする達樹の横で、紗月が鍋の中を覗き込む。
「ねえ、この肉ちょっと凄くない? カレーに入れるなんてもったいないよ」
鍋の中には、切ったじゃがいも人参玉ねぎに交じって、角煮でも作るのかと思うような牛肉の塊が点在していた。しかも紗月が実家でも見たことのないような、見事にサシの入った国産牛である。
「そうですか? 我が家ではいつもこれくらいのお肉を使っていますが」
「このブルジョアめ!」
紗月の理不尽な文句に戸惑いながらも、達樹は鍋にペットボトルの水を注ぐ。計量カップも使わず目分量でありながら迷いがない。きっと家で予習をしてきたに違いない。
鍋が沸騰したら出てきたアクを取りながら、具材に火が通るまで煮込む。本当ならこの後最低一時間は煮込みたいのだが、すでにご飯が炊けているので今回はここまでとする。
一旦鍋を火から降ろし、カレールーを投入。ダマにならないようによくかき混ぜたら、再び鍋を火に戻し味が具材に馴染むまで軽く煮込む。
「よし、完成」
「待ってました~」
カレーの完成にテンションが上がった紗月が、メスティンをスプーンでカンカン叩く。
持って来た紙皿にご飯をよそい、カレーをかける。もちろん全がけだ。
「それでは、いただきまーす!」
紗月が山盛りカレーの皿を掲げると、達樹が「いただきます」と自分の皿をそれに合わせ、カレーで乾杯する。
「美味しいよ、たっちゃん!」
がつがつと音がしそうな勢いでカレーを頬張る紗月を満足そうに見ると、達樹も自分のカレーに手をつける。
慎重にスプーンですくい、ゆっくりと口に入れる。野菜も肉もルーもいつもと同じはずなのに、キャンプで食べるというシチュエーションのせいかいつもより遥かに美味い。そして何よりも、米が美味い。
「すごい。カレーもそうだけど、ご飯が家で食べるのより断然美味しいです。同じお米なのに」
「当然。焚き火で炊いたご飯は、炊飯器で炊いたご飯より当社比で三割増しで美味しいからね」
自信満々に答えるが、当然根拠はない。しかし誰が書いたかわからない論文より、今自分の舌で感じている事の方が遥かに説得力がある。
「本当に、美味しい……」
家にある最新型の炊飯器では、おこげなんてできないだろう。だがこの米が焦げた部分の何と香ばしいことか。カレーの強い味の中で負けずに主張しながら、それでいて調和もとれている。これまで食べたどんな料理になかった、初めて味わう不思議な感覚だ。こんな経験、キャンプをしなかったらできなかったかもしれない。
日常から離れて不便を面白がりながら、日常では得られない経験を楽しむ。これがキャンプの醍醐味か。まさに今、自分はキャンプを楽しんでいる。そう達樹は実感した。
「キャンプって、楽しいですね」
言葉が自然と口をついて出た。
紗月はカレーを食べる手を止め、にこりと笑って言った。
「うん。でも楽しいだけじゃないのもキャンプだからね」
「…………え?」
意味がわからず問いかけようとしたが、紗月は再びカレーに夢中になっていた。
先の言葉はどういう意味だろう。考えてみたが、やはりよくわからない。きっと聞き間違いだろう。そう結論づけて、達樹もカレーに専念しだした。
「ごちそうさま。あ~美味しかった」
「お粗末様でした」
二人揃って合掌すると、達樹はきれいに空になった鍋を持って炊事場に行こうとする。
「あ、ちょっと待って」
「どうしたんですか?」
「お鍋は洗っちゃ駄目だよ」
「どうしてですか?」
「えっとね、こういうキャンプ場の炊事場って浄化水槽を通してないことがあるんだよ」
浄化水槽とは、下水道が通っていない地方都市の家屋や施設に用いられるトイレや生活排水を処理する装置のことである。
「つまり、洗い物の排水がそのまま川に流れちゃうかもしれないってこと」
「そうなんですか」
「ここがそうかは知らないけど、登山なんかでは常識だよ。洗剤を使う洗い物はしないって」
「じゃあどうしたらいいんですか? このまま持って帰るわけにはいかないし……」
「そういう時はね、これを使うの」
そう言って紗月が取り出したのは、トイレットペーパーである。家計には優しいがお尻に厳しい特売品も、こういう時に役立つのでありがたい。
「これで汚れを拭き取って、家に帰ってからちゃんと洗うの。ちゃんと拭き取れば一日ぐらいじゃ腐ったりカビが生えたりしないから安心して」
「汚れを拭いたティッシュはどうすれば?」
「焚き火で焼く人もいるけど、わたしはビニール袋に入れて持って帰ってるよ」
「わかりました。わたしも持って帰って家で捨てます」
「うん、それがいいよ」
そう言うと紗月はご飯を炊いたメスティンに水を入れ、焚き火に置いた。
「それは、何をしてるんですか?」
「お米を炊いたメスティンは、こうして一度お湯を沸かしてやると後片付けが楽になるの」
乾いて固まった米は普通に洗ってもなかなか取れないが、お湯に漬けてふやかしてやれば簡単に取れる。お湯が湧いたらそれを捨て、後はトイレットペーパーで拭けば終わりである。
要領よく後片付けをする紗月を、達樹は感心しながら見ていた。
「家だと洗い物も簡単なのに、キャンプだと色々気を使うことがあるんですね」
「料金を払ってるとはいえ、こっちは使わせてもらってる身だからね。それに自然への配慮も大事だから、不便なのは我慢しなくちゃ」
「なるほど。勉強になります」
キャンプとは、不便を楽しむものであると誰かが言ったが、なんだそれほど不便ではないではないか。そう達樹は高をくくっていた。




