2-20 ふたりの始まり③
「皆さん喜んでくださって良かったですね」
「あぁ」
マリエールは二階の寝室から窓辺のカーテンを少しめくり、階下の庭園をガラス越しに見下ろした。
もう夜なので、暗くてほとんど見えなかった。
「お料理もスイーツも喜んでいただけましたし。もっと暖かく過ごしやすくなった頃に、またご招待してはいかがでしょうか」
「あぁ……」
それほど大きな声を出しているわけでもないのに、声が良く響いている気がした。
……客人がいて賑やかだったから、彼らが帰った後は反動で静まり返ったように感じているのかもしれない。
明るいはしゃぎ声が急に消えて少し寂しいが、それでもマリエールの胸はぽかぽかと満ち足りていた。
だって、ずっとバロンの憂いであった人とまた仲良くなれたのだから。
「最近な」
「え?」
口元をゆるませ庭を見下ろしていたマリエールだが、ベッドに腰かけているバロンの声に振り返る。
バロンはなんだか神妙な顔をして眉を寄せていた。
さっきから「あぁ」くらいしか言ってくれなかったのは、どうやら考え事していたせいで返事がおざなりになっていたらしい。
「―――最近、なんだか夜が来るのが億劫でなくなったんだ」
「まぁ、それは良い事ですね」
マリエールはカーテンをきちんと閉め直したあと、ベッドに寄って行って彼の隣に座った。
風呂あがりでおろしたままの長い髪がさらさらと揺れる。
そんなマリエールの髪の動きをなぜか眺めてくるバロンの様子を伺いながら、マリエールはほっと安堵の息を吐いた。
(最初にバロン様が兎になるところに出くわした時、それはもう凄い苛立ちようだったもの)
夜なんて嫌いだ。
兎なんて存在自体がもう嫌だと。
テオに怒鳴り散らしていたのが懐かしい。
ずっとずっと長い年月、呪いによって兎になる時間が迫るたびに毎日神経をすり減らしていたバロン。
(彼の心労が少しでも減ったのならば喜ばしい事だわ)
ただ単純に喜んで感慨深く微笑んでいたマリエールだが、はたと気が付くと髪がバロンの指にからめとられていた。
こんなこと初めてだ。
「あの? バロン様は何を……」
彼からマリエールに触れて来ることは本当に少ない。
夫婦であっても触れ合うことに慣れていない関係。
なのにいきなり、こんなに自然な動作で手を伸ばしてくるなんて。
髪だから温度なんて感じるはずがないのに、触れられている部分からすごい勢いで熱が上ってくる感覚がした。頭がくらくらする。
「っ……バ、……さ、ま?」
驚きと、異性に髪を触られているという恥ずかしさから焦るばかりのマリエールだったが、そんな様子に気づいないらしいバロンは、指先でくるくると髪の毛を巻いたり解いたりと手遊びを繰り返す。
(何? どうされたのかしら)
どうやらかなり深い場所に思考がはまっているらしい。
もしかすると自分のしている行為にあまり自覚がない状態なのかもしれない。
その証拠に彼の視線はマリエールの髪を見下ろしたまま、動かなかった。
「本当に――呪いが煩わしくなくなるなんて、こんな気になる日がくるなんて思わなかった」
「そう、ですか……あの、髪……」
「マリエール。私はずっと……こんな呪い、残すべきではないと。血だけではなく、呪われた家の名もいらないと思い続けて来たんだ」
「なるほど。――ええと、どうして編むのですか……しかも意外に上手いですね」
「呪われた一族なんて消えるべきだと思ってきた。友達には嫌われるし、国からは禁術とされ禁止されているものだし、何もしていないのに悪いことをしているような気がして……でも、なのに。私は今日、――レオナルドの家族を見ていたら思い描いてしまったんだ、未来を……夢見てしまったんだ」
「………」
「レオナルドの子供達を見て……想像したんだ。マリエールとの間に生まれる子はどんな顔をしているのだろうか。どんな声をしているのだろうか。たとえ呪いが掛かっていても、マリエールが母なら、次の世代の子もああいう風に笑って過ごせるのではないか。幸せになれるのではないか……と」
そこまで言って息を詰めたバロンは、突然がばりと顔を上げた。
「それにわっ、私が……! もう離したくなくなった! たった一時の思い出として君と過ごす日々を欲していたはずが、温かくてたまらなくて、この毎日を永遠に続けたくてたまらなくなった!!」
マリエールは見開いた瞳をバロンへと向ける。
声が、出なかった。
「私は君と、永遠に一緒に居たい。いずれ別れるつもりで迎え入れたなんて言っていたけれど、別れられる気がしない。もう手放せない。本当の意味で家族になりたい。子どもも欲しいし、孫も欲しい。…マリエールと一生夫婦でいたい」
「っ……」
少し開いた唇を震わせるマリエールに、バロンは真剣なまなざしを真っ直ぐに向けて続けた。
「あれだけ頑なな態度をとっておいて今更かと思われるだろうが、これが今の本音だ。私と家族になって欲しい。ま、マリーの人生を、私と一緒に歩いて行ってほしい」
強い青い瞳に射抜かれる。
緊張していると分かる、不安も垣間見える揺れる瞳が、マリエールの返事を待っている。
―――しばらく沈黙のあと、マリエールは掠れる声をポツリと零した。
「……私は、最初からそのつもりでここに来ましたけれど」
そしてすぐに「でも、」と小さく続けた。
「結婚とはそういうものだから。という理由でした」
親の決めた政略結婚だから。
貴族の家に生まれた娘の責務として、嫁いだ先で良き妻として生涯仕えるためにここに来た。
使命感のようなものだった。
それが結婚なのだと信じていたし、自分の役割なのだと思っていた。
でも、今は少し違う。
「今は、バロン様が夫でないと嫌だと思います。貴方の隣に立つのが私以外の女性であったらと思うと、寂しくて悲しくなります」
「マリエール……」
マリエールは、他の誰でもないバロンの妻でありたいのだ。
決められたものだからでなく、自分の意思で、彼の妻としてずっと隣に立っていたいと確かに思う。
マリエールはゆっくりと息を吸い、深呼吸してから口を開いた。
「……バロン様。私の旦那様。好きです……心から、お慕いしています」
「え」
好き、と声にだしたとたん。
バロンの様子が少し変わった。
マリエールの目には、彼が戸惑っている様にみえた。
喜んでもらえると思ったのに。
「バロン様_?」
「嘘だ。好きだなんてありえない」
「ど、どうしてその反応になるのですか」
マリエールは少し拗ねて唇を突き出してしまう。
「だって。ま、まりえーるは……、まるで母親か姉みたいに私を扱うじゃないか」
「あぁ……。―――それは……すみません……。最近までそういう感じの心境でした。でも……」
マリエールは髪に触れてばかりいるバロンの手を少し強引に引っ張った。
そのまま彼の手を自分の両手で包み込むと、バロンの指から一束の髪先がふわりと解けて落ちていく。
手を握りこみながら真っ直ぐに彼を見あげ、マリエールは伝えた。
「今は、好きです」
「っ」
「バロン様に、恋をしています」
この恥ずかしいようなむず痒いような愛おしいような気持ちを、恋と言わないはずがない。
マリエールは繋がった手を握る力をさらに強くし、一層に心を込める。
「信じて、下さいますか? もう、仮初の一時だけの妻だなんていわないで下さいますか?」
「あぁ。あぁ……すまなかった。マリエール。私の妻は君だけだ……マリー」
どこか泣きそうな顔をしたバロンが身じろぎしたかと思えば、柔らかくて暖かなものが、マリエールの唇にそっと触れた。
一拍を置いて離れて行ったあと、こつんと額を合わせ、吐息さえ届いてしまう距離で見つめ合う。
驚きで固まってしまったマリエールだったが、少し時間をかけて状況を理解した瞬間、思わず笑いがこぼれた。
「ふふっ……バロン様。初めて、キスしてくださいましたね」
「以前にしただろう? 相当な勇気を振り絞ったんだが」
「頬になんて、挨拶のキスですよ」
「そ、そういうものか?」
「そうです。唇が、特別なキスなんですよ……?」
「なるほど。………」
そうしてしばしの沈黙の後に降ってくる、再びの口づけ。
ちゅ、ちゅ、ちゅっ……繰り返し、柔らかくたどたどしい仕草で何度も触れられる。
「ん―ーー」
小さく啄むようだった口付けはやがて深くなり、いつの間にかマリエールは繋いでいた手を離して縋る様にバロンに抱き付いていた。
―――パサッ。
そうして、気が付くとマリエールは仰向けに倒れていた。
視界いっぱいに、頭の横に手を突くバロンの顔が広がっている。
少し緊張した空気を漂わせながら、彼の体重が少しマリエールの方へと寄せられて。
もう一度、というふうに唇がゆっくりと近づいてくる。
マリエールはただ流れのままに瞼を降ろし、口づけが降って来るのを待った。
―――が。
「あ」
小さな、焦ったような声が聞こえたかと思えば。
ついさっきまであった大人の男の重みも温もりも一瞬にして消えて。
不思議に思って目を開いたマリエールの胸の上に、服と兎が降って来た。
ふわふわの毛が首筋を撫でてくすぐったい。
「ふふっ……もうそんな時間なのですね」
「…………」
兎は、マリエールの鎖骨の辺りでふるふると震えてうずくまっている。
なんだかとっても悔しがっているような空気を感じた。
さっきまでの大人の男の姿とは全く違い、もうただただ可愛くて愛らしい姿に、マリエールは身体から力を抜いた。
(可愛い)
思わず口元をゆるませるマリエールは、胸の上に乗る真黒でふわふわで艶やかな、上質な毛を撫でた。
ひくひくと鼻を小刻みに動かす小さくて丸い兎は、マリエールの首筋に頭を寄せている。
顔を見られたくなくてそうしているのかもしれない。
「バロン様」
少しの悪戯心もあり、マリエールは両手を兎の脇に差し込んで、そうっと持ち上げてその顔を覗き込んだ。
目線の高さに持ち上げた黒い毛並みの兎は、やっぱり不満そうに顔を反らす。
(青い、綺麗な目)
そっぽを向いていることをいいことに、マリエールは隙をついて額にキスをしてしまう。
とたんに全身を固まらせ焦る兎に、マリエールは誰から見ても愛おしいものを見つめていると分かるほどの、柔らかくとろけるような表情を向けた。
そして自然とこぼれたのは、本当なら結婚した最初の日に言う予定だった台詞だ。
「旦那様。どうぞ末永く、宜しくお願い致します」
不愛想で不器用で意地っ張りで、とても面倒かつ臆病な人なうえ、夜には兎になってしまうという変わった旦那様だけど。
それでも彼が主であるこの場所は毎日が楽しく充実している。
この家に嫁げて、この人の妻になれて良かったと、今マリエールは心から思うのだった――。




