2-19 ふたりの始まり②
ガーネットがトラスト領へ帰り、日常が戻ってきてから数カ月。
もう季節は春へと近づき、雪も解けて暖かな日差しが垣間見えるようになった。
そして今日のグラットワード侯爵家には、賑やかな客人が訪れていた。
「今日はご招待いただいてありがとうございます」
「こちらこそ、来てくださって嬉しいですわ」
庭園の開けた芝生の上で転がり遊ぶ、子供たちの笑い声が響いている。
子供の姿が見える、そこからやや離れた場所にセットされたティーテーブルに腰かけているのはバロンとマリエール、そして今日の客人であるレオナルドと彼の妻であるセレナだ。
実はすこし前に、レオナルドからバロンへ手紙が届いたのだ。
バロンが彼を訪ねて以降、レオナルドもたくさん考えてくれたらしい。
動物になる呪いというのはやはり普通に考えてなかなか受け入れがたいものだった。
彼には家族がいて『呪い』に近づいて奥方や子供に影響が及ばないかとの心配もあったことだろう。
移るものでは無いけれど、知識自体が無いから周りにどんな作用があるかさえ想像がつかなかったのだ。
でも時間をかけて考えに考え、呪いや魔女について調べられるだけ調べ、最後に行きついたのはバロンとあの頃のような友人関係にまた戻りたいという思いだった。
どうやら子供らしくない子供だったバロンをレオナルドは大人っぽくて恰好良い奴という憧れの対象として見ていたらしく、一緒に過ごした日々は彼にとっても眩しく取り戻したいものだったらしい。
さらに今まで避けて来た謝罪も、何枚にもわたって最初の手紙に書いてあった。
その後はマリエールは当人たちではないので話を聞くだけだったが、バロンとレオナルドの間には今日まで数度の手紙のやりとりと、男同士で酒を飲み交わしたりなどの交流があったらしい。
そうして、もう完全に打ち解け合ったレオナルドの家族をバロンが招待し、グラットワード家で昼食会を開くことになったのだった。
レオナルド夫妻には遊び盛りの子供がいることから、家具がほぼなく思う存分に走り回れる庭での開催にした。
まだ一歳にもならない赤ん坊と四歳の男の子が、連れ立ってきた乳母と庭で遊ぶ様子を眺めながら、大人たちはゆっくりとひと時を過ごす。
「……可愛いですね。挨拶をしたときはとても賢い子に見えたのに、遊んでいる姿は年相応で子供らしい」
「ふふっ。最初は人見知りで大人しかっただけですわ」
「まぁ、打ち解けてくれたのなら嬉しいですわ」
芝生の上に座る赤ん坊の妹の前にしゃがみ込み、何かを話しかけているお兄ちゃんっぽい様子にはほっこりとした気分にさせられた。
「――――この家も直に騒がしくなるだろうさ」
子供たちを眺めていたマリエールとバロンにかけられたレオナルドの声は、暗に近いうちにこの家にも出来るだろう子供のことをさしているのだろう。
ただの一度きり、頬にキスしただけの夫婦関係だなんて知らないで、当たり前のように言う。
悪気のないことは分かっている。
「そうなると、いいですね」
少しだけ期待を込めて、マリエールは微笑みを返した。
* * *
「マリエール様、飾っていたお花はいかがしましょうか」
「まだ今朝摘んだばかりで綺麗だわ。処分はしないで、そうね……寝室の窓辺に飾ってくれるかしら」
「畏まりました。では水だけ変えて寝室に運びますね」
「お願いね」
レオナルド夫妻が帰ったあと、マリエールは庭でのティータイムの片づけを使用人たちに指示していた。
「ジイ。子供達がずいぶん走り回っていたからもしかすると芝生を傷めてしまったかもしれないの。ごめんなさい」
ちょうど庭に出てきたジイに謝罪すると、彼はくしゃりと笑って大きな手で頭を撫でてくれる。
「なぁに。少しくらい踏んづけられた方が芝も強くなるもんだ」
「そう。良かった……」
それでもチェックはしてくると、芝生の様子を見に行ったジイ見送ったマリエールは、運ばれるテーブルの傍でひとつ息をつく。
陽が落ちつつあるから、吹く風が少し肌寒く感じた。
手を摩ったマリエールにすぐに気づいてくれたのはヴィセで、「羽織るものを取って来ますね」と屋敷へ小走りに入って行く。
見送ったヴィセの背中からふと顔を上げて頭上に視線を移すと、――――空は完全に茜色に染まっている。
一番きれいに夕焼けが見える時刻に噛み合ったようで、マリエールはしばらく空に見とれていた。
そしてしばらくして、彼女は思わず小さく囁きを落とした。
「恋、かぁ」
赤い空を写す瞳を細めたマリエールは、もう一度吐息を吐いた。
深呼吸するとこの胸の奥が、トクトクと早なっているのが良く分かる。
「まさか自分が恋をするなんて、思わなかったわ」
だって貴族の娘は、生まれた時から親の決めた結婚相手と結婚するのだとほぼ決まっているから。
マリエールは変なところで現実主義で、恋なんて舞台や小説の中のものだと割り切ってしまっていた。
一生するはずが無いものとして、捕えて生きてきた。
結婚した相手と仲良く家庭を気づきたいとは思っていたけれど、それは嫁いだ身としてして当たり前のこと。
いわば責務なのだ。
バロンに求めていたのも、ただの家族愛だった。
なのに、今は。
「あ」
見上げた視界の端にあった屋敷の窓から、テオと真面目な表情で話し合うバロンの姿が垣間見えた。
―――その横顔に、胸がとくとくと今までよりももっと早い音を鳴らす。
(夕焼けで赤く染まっていてよかった……)
きっと今の自分の耳元は赤く染まっているから。
最近のマリエールは彼を思い浮かべるたびに、姿を見るたびに、ただただ素直に彼を「好きだなぁ」と思ってしまうのだ。
これが恋なのだと、もうさすがに自覚してしまった。
―――どうして、彼のどこが好きになったのかというと良く分からない。
最初はただただ小さな小動物を可愛がるように兎の彼を見ていた。
素直でなくて意地っ張りなところもあって、性格が少し面倒くさい人だとも思っていた。
でも、バロンはマリエールを本当に愛してくれている。
真っ赤になりながら、たどたどしい口ぶりで、大好きだと時々伝えてくれる。
非力な兎の身であっても、絶対に叶わないだろう相手であっても、マリエールを守るために身を挺して頑張ってくれるともう分かるのだ。
いくつかの駄目なところも、愛おしいと感じてしまう。
マリエールはバロンと居ると優しくて暖かくて楽しく気分になる。一緒にいることが幸せだと思うように、なってしまった。
「…………」
「マリエール様?」
呆けてバロンをひたすらに見つめていたマリエールに、カーディガンを持ったヴィセが怪訝に顔を覗き込んできた。
次いで、マリエールの視線の先に顔を向け、二階の窓の向こうにバロンの姿を見止めるなり「あらあらまぁまぁ」と零しながら彼女は頷く。なんだかとてもしたり顔だ。
「っ……!」
ヴィセの反応にはっと我に返ったマリエールは、とたんに更に真っ赤になった。
夫に見とれていたなんて、恥ずかしい以外の何でもない。
もう夕焼けで誤魔化せている気がしない。
「び、びせっ、カーディガンを持ってきてくれたのね。あ、ありがとう……!」
「いいえ。私こそご馳走様です。マリエール様がお幸せそうで嬉しいですわ」
カーディガンを広げてくれたのでそこに腕を通しながら、マリエールは思いついたことを口にだす。
「あの……―――ねぇ、ヴィセ。明日は刺繍をしたいのだけど、黒と青の糸を用意できるかしら」
「あら。今までは淡い桃色やベージュなどを使う図柄を好まれていましたのに、珍しい色を使われるのですね」
「そうね……プレゼント、しようと思って」
「まぁ素敵」
誰へのプレゼントなんて言わなくてもヴィセは察してくれたらしい。
だって黒と青はあの人のもつ色だ。
マリエールがバロンと仲良くしている姿を見るのがヴィセは本当に嬉しいようで、すぐに手配すると言ってくれる。
「いつもの手芸屋の糸がよろしいのですよね?」
「えぇ、絡まりも毛羽立ちも本当に少なくて使いやすいの」
「分かりました。必ずお昼までには届くように致しますわ」
「有り難う。……喜んでくださるかしら」
「当たり前です。そうです、ハンカチにされたらどうですか? きっと毎日持ち歩いてくださいますよ」
「いいわね」
……妻になったのだからという使命感ではなくて。
バロンに喜んで欲しいと素直に思うようになり、好きな人の為に何かをしたいと考えた。
こんなふうにハンカチに刺す刺繍ひとつで考え込んでしまうくらいにバロンのことが大切で、こんな感情が自分の中にあるなんて、マリエールは知らなかった。
(うーん。兎の柄はさすがに大人の男の人には可愛すぎかしら。でも一番しっくりくるのよね……)
どんなものを贈ろうかと考える時間も楽しくて幸せで、どうやらこのそわそわはしばらく止まりそうになさそうだ。




