10 出来ること①
(兎になる夫のもとに嫁いでから、何だかんだでもう一ヵ月たつのね)
温かなレモングラスのハーブティーを飲みながら、マリエールは感慨深く思った。
この居室にも、屋敷にもようやく慣れて来た気がする。
屋敷に仕えている侍女や使用人、庭師たちの顔と名前もほぼ完ぺきに覚えた。
兎と夜を過ごすことにも慣れた、が。
(……人間のバロン様とは相変わらずなのよ)
たまに会話をしても二言三言で終わってしまう短い交流だけに終わっていて、まったく距離は縮まっていない。
そして今夜も、ヴィセが沈んだ表情でバロンからの伝言をもってきた。
「今日もバロン様は、お仕事が忙しいので執務室のとなりの部屋で仮眠を取られるそうで、こちらにはいらっしゃらないそうです」
「そう」
まぁ当然だろう。
だって兎になってしまうから、人間の姿で来られるはずがない。
「分かったわ。仕方ないもの、今日も兎と眠ることにしましょう」
マリエールは、いつも通り微笑を浮かべて頷いた。
「マリエール様……本当はお辛いでしょうに、無理に笑わなくていいのですよ」
しかしヴィセから見れば、バロンはまだ一度も寝室に現れていない。
さいきんはもう、バロンが来ないとの知らせがある度に、涙ながらにマリエールを慰めてくれるのだ。
結婚して一カ月たっても純潔のままの花嫁は、とても同情を引いているらしく使用人達からもとても気を使われている気がする。
しかも最近のバロンは自分でいきなり兎を飼い始めておきながら毎晩マリエールに押し付けている、小動物に対する責任感がない人にもなっているらしい。
「マリエール様、この私が、ヴィセがついております! どうかお気をたしかに! 大丈夫ですからね!」
目の端に涙をにじませ両手を固く握ってくれるヴィセの優しさが申し訳なく、マリエールは内心で謝りながら笑顔を向けた。
「え、えぇ。大丈夫よ。有り難う」
「強がらなくていいですよ! マリエール様、泣いたっていいんですからね! あぁ、なんとお可哀想なの! なんて酷い旦那様なの!」
「ヴィ、ヴィセ……」
大丈夫と何度も言うけれど、強がりにしか思って貰えない。
「私は平気よ。それよりもう遅いわ。明日に差し支えるから、貴方はもうおやすみなさい」
「っ……、かしこまりました。何かございましたら、直ぐにお声がけくださいね」
「えぇ」
そうして何とかなだめて寝室に入り、ヴィセにも下がって貰ったあと。
マリエールはいつものように、兎がやって来るのを待っていた。
兎はテオが連れて来てヴィセ経由に寝室にくることもあれば、直ぐ近くで離されるのか寝室の戸をカリカリひっかいて一匹のみで来訪を知らせて来ることもある。
しばらく読書をしながら待っていたのだが。
(うーん。来ないわね)
珍しく、今日は兎がやってこない。
これは兎と眠る様になって一カ月で初めてのことだった。
(どうしたのかしら。もうとっくに兎になっている頃なのに。でも必ず来てくれるという約束なんてもともと交わしていないし……)
寝ていいのか、待っているべきなのか。
悩んだ末にマリエールは、夜着からシンプルなワンピースへと着替えてバロンの執務室へと足を向けることにした。
「あ、テオ」
執務室の前までもう数歩という時、ちょうど部屋を出てきたテオと会った。
「おや。お迎えですか? 仲良しですねぇ」
「だ、だって心配なのだもの。あの姿だと、屋敷の中でも危険はたくさんあるわ」
からかうような口調で話してきた彼に、少し口を尖らせて反論すると、どうしてか余計に笑われた。
子どもみたいな反応になってしまったことに気づいて慌てて表情を戻したマリエールは改めて訊ねる。
「バロン様は? ……もう、兎になっているでしょう?」
最後の方は小声で話したのだが、テオはちらりと執務室に目をやった。
「まだ執務室で仕事中です。今日は本当に忙しいので、おそらくお部屋にはいけないでしょう」
「あら。そうなのね。お仕事なら邪魔は出ないわ。では先に休みますね」
「お待ちください。その前にこっそり覗いて見られたらどうですか? 面白い光景が、見られますよ」
「面白い光景?」
「ふふ。見てのお楽しみです。―――では私は、厨房に夜食を頼んでまいりますので」
含み笑いを残して去っていたテオを見送ったあと、しばし悩んだマリエールだったが、やっぱりどうしても気になってしまった。
(面白い光景って、何?)
好奇心につられてついつい、ノックもなしにそうっと執務室の扉を少し開けて、覗いてしまったのだ。
そしてその部屋の中の光景に、噴き出しそうになった。
(っ、う、兎の姿で仕事をしている……!)
机の上に乗った黒い兎が、前足の二本で判子の柄を掴み、書類にぺったんぺったん判を押している。
インク台から紙の上へと判子を移動させるのだけでも、全身を使って必死に持ち上げて、重さにプルプル震えながら頑張っていた。
さらに判子を押したあとの紙を移動させるのも大変そうだ。
ふわふわで細かいことが苦手そうな両手で必死に一枚上の紙をめくりあげ、ひっぱって処理の済んだ方の書類の山まで運んで行かなくてはならない。
どうしても綺麗に乗せられないのか、書類の山は途中から乱雑な乗せられ方になっていて、どこから兎の姿で、テオの補佐さえない一匹での作業に変わったのが一目瞭然だった。
(て、手伝いたい。せめてあの書類をきれいに整えてあげたい。でも、仕事を手伝いたいなんて言っても、バロン様は断るでしょうし)
兎の姿の彼にそんなことをいうのは、秘密を知らないふりをしている状況では出来ない。
この一カ月でバロンがこのことをどれだけ必死に隠したがっていることも分かる様になってきた。
呪われた姿を誰かにさらすことは、本当に彼にとって恐怖なのだ。
だから見て見ぬふりをマリエールもつらぬいている。
「…………」
不自由な姿で、それでも必死で仕事を続けるバロンを見ながら、マリエールはため息を吐く。
(私、この家で全然役立ててない気がするわ)
バロンはこうして不自由な姿になっても領地管理の仕事を頑張っているのに。
マリエールは家の中のインテリアを少しずつ変えて行っているけれど、それも楽しみの一つとしてしているので、まったく努力している気がしない。
図書館や本屋で呪いについて解決策がないか調べているけれど、これといって役立ちそな情報もまだ見つかってなかった。
もう少し、この家の一員として何かがしたい。役に立ちたい。
この場に足をしっかりと付けてこれから何十年も生きていくつもりのマリエールにとって、いつまでもお客さん扱いでいるのは、心地の悪い事だった。
「役に立てること、なにか無いかしら」
一人でこっそり呟きながら、マリエールは静かに扉を閉じた。
枕元に兎の居ない夜は、なんだかずいぶん心もとなくて。
その夜の彼女は、遅くまで寝付くことができなかった。




