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接触 三 前半部

       三


 陶聖学園中等部の制服は、高等部の制服とはやや異なる。

 細かい点は幾つか挙げられるのだが、その最たるものは細いリボンとネクタイだった。高等部の制服ではネクタイ着用が義務付けられるのに対し、中等部の制服では細いリボンを結ぶことが義務付けられていた。

 例えばそのリボンなどが、主に学ランを制服とする公立琵山高校(こうりつびざんこうこう)の男子生徒などには莫迦にされる一因となっており、多くの陶聖学園中等部男子生徒にも評判は(かんば)しくなかった。

 門倉剣護もまた例に洩れず、「男がリボンかよ」と思った口ではあった。しかし彼の場合は、ハーフの外見が純日本人の男子生徒よりはリボンに馴染みやすい特質を備えていた為、周囲の評判は悪くなかった。

 順調に陶聖学園中等部の試験に受かり、年下の従兄妹に初めて制服姿を披露した折も、彼女は少し小首を傾げて剣護を上から下までじっと見ると、にっこり笑って「似合ってるよ、剣護」と言ってくれた。それを聞いた剣護は満更でもない気分になった。

 学園生活にも慣れ、一学年、二学年と月日を過ごす内に剣護の持つリーダーシップ性は周囲に知れるところとなり、教師陣さえも彼に一目置くようになった。

 剣護が物理学教師に頼まれごとをされたのは、中等部三年の春から夏に季節が移ろうとしていたころのことだった。

 それは家庭に些かの問題があり、不登校しがちの女子生徒の面倒を見てやってはくれないか、という話だった。彼女は専ら保健室登校していて、本来であれば担任である彼が何とか対応すべきところだが、自分では手に負いかねると言って剣護に泣きついて来たのだ。その無責任さに剣護は呆れたが、結局はその依頼を請け負った。

 担任にさえ(さじ)を投げられたその生徒が哀れだと思ったし、そもそもは彼女自身に問題が無いというのに、登校さえ思うようにままならない事態は理不尽だと思った。

 それに、剣護がその少女、相川鏡子を初めて見た時、若雪、または真白に似ている、と感じた。それが決定打となった。自分の大事な妹に似た少女を放っておくことなど、剣護には出来なかった。


「失礼しまーす」

 ガラリ、と言う音と共に保健室の戸を開ける。

 それまでの剣護には、保健室はおよそ縁遠い場所でしかなかった。

 たまに真白が熱を出した折などに彼女を迎えに来たりしていたので、中等部の保健室にいる養護教諭とはそれなりに顔見知りになっていたという程度だ。自分自身がお世話になったことは一度も無い。そんな空間に、剣護は久しぶりに足を踏み入れた。

 桜の花もとうに散り、青い葉が茂る季節を迎えるころだった。

 その時、養護教諭は席を外していた。

 線の細い身体がベッドの向こう側、窓際に立っていた。

 剣護の声に、少女は敏感に反応して振り向いた。

 彼女とは、それが初対面だった。

(…若雪。いや、真白……?)

 良く見ればそれ程似てはいないのだが、振り向いた少女は剣護の大切な存在にどこか雰囲気の似た顔立ちをしていた。しかし若雪や真白が清楚な白い花を連想させるのに対して、目の前の少女は朱が注した、色味のある花を連想させた。

 線が細いながらに、どこか(あで)やかさを感じさせる少女だったが、媚びた様子は欠片も見受けられなかった。

 彼女が警戒の眼差しで自分を凝視しているので、我に返る。

「ああ…、あんたが相川?相川鏡子…だろ?」

 不審げな顔のまま少女が小さく(あご)を引く。

 合っていた、と思い、剣護は安堵に笑う。

 相川鏡子はその笑顔に驚いた顔を見せ、瞬きした。

「俺、門倉剣護。これさ、今日のおたくのクラスの授業で配られたプリント」

 差し出された紙の束を鏡子が恐る恐る受け取る。受け取る手の青白さに、剣護は眉を(しか)めた。まともな物食ってんのか、と疑問が生じたのだ。

「門倉、君…」

 初めて言葉を発音するようなたどたどしさで、名を呼ばれる。

「うん。事情があって登校が難しいんだろ?俺、相川を手伝うよ」

 鏡子は疑い深い瞳で剣護を探るように見た。

「どうして――――――?」

 この問いに対して、妹に似ているからと答えるような愚は、さすがに侵さなかった。

「俺は面倒見の良さで有名なんだ」

 自慢げにそう言うと、晴れた青空のように笑った。

 

それからの剣護は、放課後になると足繁(あししげ)く保健室に通うようになった。

 

「また来たの?」

 保健室に入って来た剣護の顔を見るなり、鏡子はそう口にした。

 迷惑そうな彼女の表情を、剣護はもう見慣れてしまった。そういう趣味は無いのだが、冷たい素振りをされるのが楽しみにさえなってしまった。

 憎まれ口もご愛嬌(あいきょう)だ。

「そ、また来たの。……てか、お前さ、こんな良い男が会いに来てるんだから、もうちょっと嬉しそうな顔しても良くない?」

 茶化す剣護の口振りに、呆れたような視線が返る。

「自分でそういうこと言う?」

「周りがあんまり言ってくれないからな。お前含め」

 そう言いながら、鞄からゴソゴソとプリントの束と、ノート数冊を取り出す。最近では授業で出されたプリント類だけではなく、剣護が授業の内容をまとめたノートも鏡子に貸すようになっていた。クラスが違っても、今現在の各教科の進行状況を把握しておいたほうが良いと判断したからだ。ノートに記された内容は解りやすく、授業内容の要点を的確に押さえている。初めに手渡されたノートを見た鏡子は、密かに感心した。

「ノート、役に立ってる?」

「うん。…ありがとう」

 素直に礼を言われ、剣護が嬉しげに笑う。

「真白がさ、プリントだけじゃ不十分だろうって言うから」

「従兄妹の?」

「うん」

 頷く剣護の目に宿る優しい光を、鏡子は黙って見つめた。


 名乗られるまでもなく、鏡子は最初から門倉剣護の存在を知っていた。

 緑の目のハーフという目立つ容姿に加え、成績優秀、スポーツ万能で生徒間に限らず強い求心力を持つ彼は、陶聖学園では有名な存在だった。初めて彼の瞳を見た時、灰色がかった深い緑が、どこか知らない外国にある森のようで綺麗だと思った。彼のような存在が、自分を構うのは今でも不思議でならない。

 また、彼の従兄妹である門倉真白の存在も、従兄弟に劣らない優秀さと容姿で有名で、「女流歌人」と呼ばれていることも知っている。

 剣護が、その従兄妹を大事にしているらしいことも、二人が付き合っているのではないかという噂があることも。

 そこまで考えた時、胸に微かに走った痛みを、鏡子は気付かない振りをした。


 鏡子を訪ねたあと、剣護は真白を迎えに陶聖学園正門に向かった。

 正門傍に立つ真白に走り寄る。陶聖学園中等部の制服が良く似合う可憐な容姿は、正門を通過する男子の目を引いていた。そんな彼らに、剣護は冷たい緑の一瞥(いちべつ)をくれてやる。

「悪い、待ったか?」

「ううん、大丈夫」

「お前、きつかったら無理すんなよ。教室で待ってて良いんだぜ?」

 病弱な従兄妹を気遣う剣護に、真白は微笑む。

「平気。相川さん、どうだった?」

 二人揃って歩き出しながら真白が尋ねた。

「ああ。ノート、有効活用してるみたいだよ。しろのアドバイスのお蔭だな」

「良かった」

 薫風(くんぷう)に、髪をサラリとそよがせた真白の言葉に、剣護も頷く。

「うん、良かった」



 小さな声で鏡子が言ったのは夏の終り、季節が秋に移り変わろうとするころだった。

「―――――私ね、父からも母からも持て余されてるの」

 桜の葉が、他の木々に先駆けて綺麗な赤に紅葉し始めていた。

「何でそう思うんだ?」

 剣護は驚くこともなく、彼女に尋ねた。鏡子の家庭環境が複雑らしいことは知っていたからだ。鏡子が座るベッドの隣のベッドに腰掛けながら、答えを待つ。

 剣護が保健室に来ている間、養護教諭は意図して留守にすることが多かった。

 繊細な小動物のような少女は、そのほうが気兼ねなく剣護と会話出来るだろうと考えてのことだ。そういう配慮が出来る大人を、剣護は好ましく思った。

「父の実家は結構、良い家だったみたいで。母とは駆け落ち同然で結婚したんだけど。……あんまり、結婚生活が上手くいかなかったの。良くある話」

 ここで鏡子は軽く笑った。温度の感じられない笑いだった。

「結局、離婚して。私は母方に引き取られたの。妹もいたんだけど、あの子は父のほうについていった。父の実家が、年齢が幼い娘のほうが欲しかったらしいのね。父は実家に戻って、今、別の人と暮らしてるみたい。お母さんは私を育てるのが金銭的にもだいぶ苦しいらしくて。かと言って、今更、お父さんのところに行っても困らせるだけだろうし。食べ物も、食費のこととか考えるとね、自然と食欲が無くなるの」

 語る鏡子の目は、どこか虚ろだった。

「おっまえ、親孝行過ぎんだろ!俺なんか、二人前は食ってんだから、早く食費入れるようになれってお袋にうるさく言われてっぞ」

 剣護の言葉に、鏡子が作り物の笑みを見せる。(まが)い物の、硬い笑い。

「…私、このままずっと、いなくなったほうが良い存在なのかも」

「莫迦言うな」

 怒ったような声に、鏡子は剣護を見る。

「――――――世界は、お前が思うより案外捨てたもんじゃない。この先の人生がどうなるかなんて、誰にも予測はつかないんだよ。お前は千里眼じゃないんだ。あんまり軽々しく、世界に失望したりすんな。俺も、お前をフォローしてやるから」

 説教臭かったか、と思った剣護は、鏡子の反応を窺った。

 鏡子は笑っていた。今度の笑みには優しさと諦めが混じっていた。

「―――――そうだね」

 剣護ならそのように言うだろうと鏡子は予想していた。

 陽の光のように力強い声で。

 暗闇の中にいる鏡子さえ引っ張り上げるような温かい手を、差し伸べてくれるだろうと。

 どうしてこんな人がいるんだろうと、鏡子は心底不思議に思う。

 いてくれたら良いのに、と自分が思い描くそのままの、奇跡のような人。

 それから鏡子は言葉を探すように保健室内を見渡したあと、口を開いた。

「……従兄妹の子、元気?」

 従兄妹、と言う単語を口にした瞬間、剣護の表情が和むのを鏡子は見た。

 自分で口にしておきながら味わう羽目になった胸が()けるような感覚を、気付かれないように遣り過ごす。

「ああ。最近は余り熱も出してない」

「そう…。良かったね」

「うん。…あのさ。俺、もう一つ名前があってさ。小野太郎清隆(おののたろうきよたか)って言うの」

 鏡子の打ち明け話へのお返しではないが、剣護は前生での自分の名前を彼女に告げた。

「…太郎、清隆?」

「そう。変わってるだろ?すげー昔な、そう呼ばれてた時期があったの」

「………門倉さんは、そのこと知ってる?」

 剣護が滲むような笑みを浮かべた。

「良く、知ってるよ」

 まだ思い出してはいないけれど―――――――。


 剣護が保健室から退散してから、養護教諭が戻って来た。白衣を着なければどういった職に就いているのか判らないであろう、今時おかっぱ頭に丸眼鏡の、年齢不詳の小柄な彼女は、思い遣る表情を浮かべた。

「彼もまた、良く続くわね。中々のイケメンだし、彼女がいたら誤解されて大変ね、きっと」

 うふふ、と笑う養護教諭の声をベッドを仕切るカーテン越しに聴きながら、鏡子はベッドに横たわっていた。白い、消毒薬の匂いのするシーツを掴む。

(彼女じゃない。門倉君の従兄妹の子は、そんな程度の、軽い存在じゃない――――――)

 彼の慈しむような緑の瞳、優しい笑み、穏やかな声。

 その全てを、門倉真白は独占している。

 彼が自分に向けるのは恋愛感情ではない。これまでも、きっとこれからも。

 ―――――ずるい、と鏡子は強く思った。

 そしてそう思う自分の醜さに失望した。

「…先生、私、白い色って嫌いです。保健室のは、そうでもないけど」

「おや、何でよー。先生は好きよー?清らかで、こう、懐が深ーい感じがするじゃない」

「………」

 白は真白の白だから。

「―――――――嫌いなんです。私、醜いから」

 頑なに言い張る鏡子に、丸い眼鏡の養護教諭はキョト、とした顔を見せた。

「別に嫌いだって良いじゃない。それであなたが醜いってことにはならないでしょうが」

 ここしかないと定めていた灰色の世界に、光が差すような言葉だった。

 自分をいじけ、諦めていた。

「………そう、でしょうか?」

「そうよ」

 童顔の養護教諭は二カッと笑った。

 自分の考えには、もっと他にも許される道があるのかもしれない。

 剣護や養護教諭はそれを教えてくれる。

 鏡子の胸に、仄かな明かりがともったように感じた。



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