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接触 一 前半部

第八章 接触


あなたのことが

なんにも見えない

色鮮やかな

闇に

触れるだけ


       一


 八月の登校日、真白は窓際中程の自分の席につき、物思いに(ふけ)っていた。

 剣護と山尾が初顔合わせをした晩、鏡に映った光景のことが、彼女の頭を離れずにいた。

 今日もジワジワと蝉がうるさい。ここしばらく、空は泣いてもいない。

 身体的にダメージを受けるという点においても、真白は続く晴天を少なからず恨めしく思っていた。

(赤い鏡面…。赤いワンピースの少女。確かにどこかで見た顔立ちなのに)

 思い出すことが出来ない。

 それが不可解だった。

 また、鏡の中の少女は、明らかに助けを求めているように見えた。

 それを示すように、彼女の細い足首には足枷(あしかせ)があった。

 そして口にした言葉。

〝太郎清隆〟

 その後、念の為剣護にも訊いてみたが、全く心当たりが無い様子だった。

「しーろりん、何考え込んでんの?」

 担任である倉石からの、お決まりの注意事項を拝聴(はいちょう)したあとは早くも解散となり、周囲の生徒は帰り支度(じたく)をしているところだった。

 その中で一人身じろぎしない真白に、上野みちるが横から声をかけてきたのだ。

「みちるちゃん。その呼び方、白蟻(しろあり)みたいだから止めてってば」

「何でよー、可愛いじゃん。んで、何考えてたのよ。綺麗なお顔が固まってたよ?」

 くるくるとした短い巻き毛の愛らしい少女は、しっかり化粧を施した顔を真白に近付けてにんまり笑う。リップの色が可愛いな、と真白は見当違いのことを思う。以前は気にも留めなかったそんなことが、最近は目につくようになった。

「ふふーん。みちる様にはお見通しよ?成瀬のことでしょ」

 そう言って、窓際最前列の席を悪戯(いたずら)っぽい目で見る。釣られるように、真白もまたそちらを見遣(みや)った。

 鞄を机に置いた荒太が視線に気付き、真白に微笑みかけてくる。爽やかな少年のお手本のような笑顔だが、彼が心から笑顔を向ける相手は真白一人に限られている。その他大勢には専ら表面上のにこやかさで通すのが荒太だ。

 恥じらいながら、真白も荒太に控えめな笑みを返した。

 その一幕を見たみちるは、からかうような笑いを更に深めた。

「ほーら。もうほとんど決まったようなもんだよねー、しろりんと成瀬ってぇ。あたし、最初はしろりんと江藤が怪しいと思ってたんだけど。なーんかちょっと違う感じだし。他の皆もそう思ってるみたいだよ。江藤がこれまで告られた数、片手じゃきかないって」

「…江藤君、格好良いもんね。頭も良いし」

 真白が無難な感想を述べる。兄を他人のように褒めるのは、どこかこそばゆい。

「うーん。でもさでもさ、あんまりにもそつがないって言うか、隙が無いって言うか、ちょっと良く解らないとこあるよね、彼。ミステリアスって感じ。それでもって、しろりんとすこーし似てるじゃない。一時期、実は兄妹なんじゃないか、って噂が流れたくらいなんだから」

 真白は目を大きくして、今度は教室の中央列後方にある怜の席に目を遣る。彼はスケジュール帳を開き、何やらシャーペンで書き込んでいた。

 いかにも憂いある秀麗な面持ちの怜だが、そのスケジュール帳には学校行事の日程などの他に、彼のアパートの近所にあるスーパーの特売日が、しっかりチェックされていることを真白は知っている。特にお肉の特売日には赤丸がしてあった、と一度垣間見た時のことを思い出す。高校一年にして一人暮らしをしていることもあり、あれで怜は割と所帯じみている。

 ミステリアスとは何だろう、と考え込んでしまう。

 視線を感じたのか彼が目を上げてこちらを見た為、真白は急いで視線を戻した。

「……似てる?」

「うん。ミステリアス美形兄妹って感じ」

 衆目(しゅうもく)もこれだから(あなど)れない、と真白はつくづく思い知る。

 真実を、ある意味で突いたところを見抜く目は、そこらじゅうにあるのだ。


「あれ?おい、しろ。どこ行くんだよ」

 一年A組に真白を迎えに来た剣護は、すれ違った真白に声をかけた。

「あ、剣護。図書室に、本を返しに行って来る。休み前に返しそびれた本があるの」

 そう言って、真白は右手に持ったハードカバーを掲げて見せた。

「…俺も一緒に行くか?」

「子供じゃないんだから。教室で待ってて」

 真白は笑ってそう言うと、小走りに遠ざかって行った。


 図書室の扉に手をかけた真白は、静止した。

(―――――誰かが結界を張ってる)

 神界より帰ってから、真白の感覚は以前よりも鋭敏なものになっていた。

 どうするべきか、考える。この場合、独断で対処するより、まず剣護たちに知らせて相談するのが最善だろう。だがスマートフォンは教室に置いた鞄の中だ。結界内部の状況が解らない以上、一旦この場を離れるのも躊躇(ためら)われる。

 扉に手を置いたまま、再びどうするかと考えたところで、つるり、と真白の身体が闇に転がり込んだ。


 その空間にたたらを踏んだ時、潮の香りが鼻についた。

 闇と見えたのは、深く色濃い青の世界だった。

 俊敏な身ごなしで真白から距離を取って跳躍(ちょうやく)し、しなやかに降り立った影が一つ。

 薄茶のショートヘアー、白いタンクトップ、そしてジーンズを穿いたアオハは、些か困惑した瞳で真白を見た。

 アオハとは、市枝の家の別荘で出会って以来だ。

 彼女の前に座すのは、六王を手にした竜軌だった。敵を目前にして竜軌が膝を折ることなど、本来ならば有り得ない。深い傷を負っているのが、すぐに解った。

真白の判断は早かった。

「雪華。来て」

 真白の声音に、忠実に姿を現した懐剣を、掴む。

 竜軌の前に立ちはだかると、アオハに対して雪華を構えた。

 アオハが首を傾げる。子供のような表情には、まだ困惑の色が濃い。

「どうして来たの、マシロ。殺したくないって言ったのに」

「――――――この人をどうするの」

「うん?殺すよ?」

 何を解り切ったことを、という表情でアオハが答えた。

 顔を(しか)めて続ける。

「言葉を乱暴に操る、無神経な人。私は大嫌い。マシロだって、リュウキのこと好きじゃないでしょう?」

 思い当たるところは多々あったが、真白はアオハに同意することは出来なかった。立った場所を譲ることも出来ない。

退()け、真白」

 真白は後ろにうずくまる竜軌をちらりと見る。

 立つことが出来ない程の、怪我を負っているのだ。

「…退きません」

「先に六王の餌食(えじき)となるか」

 低い竜軌の声が響く。その声は叱声(しっせい)にも似ていた。彼が真白の介入を喜んでいないことは明らかだ。

「あなたがしたことの意味が、まだ私には理解出来ていない。少なくともそれが解るまではあなたを死なせたくありません。それに――――――…市枝が泣くのは嫌です」

 竜軌の顔が固まる。アオハと対峙する為に前を向いた真白に、その表情は見えなかった。

 いかにも気乗りしないといった風情で吐息を洩らし、アオハが手に掲げたのは波のうねりのように見えた。飛沫(ひまつ)の散る、青い塊。それは変幻自在の形を取りながら、対象物を捕獲しにかかる。

 瞬時に眼前に迫ったそれを、真白は雪華で防いだ。(たちま)ちの内に雪華の刃が、波にからめとられるように青く染まる。考えるより前に身体が動き、力を籠めてその青を切り裂いた。

 美しい、紺碧(こんぺき)欠片(かけら)が飛び散る。それは水面(みなも)に散らばるガラス片のようにも見えた。

 状況を忘れ、真白はその輝きに一瞬、見惚(みと)れる。

 アオハが目を丸くした。

「すごいね、マシロ。私の波を切り裂ける神器があるなんて。やっぱりあなたは特別なのね」

 アオハが、どこかはしゃいだような賛嘆の声を上げる端から、次々に波のうねりが襲来する。真白は流麗な動きで、それらを雪華で切っていった。以前にも増して、雪華が自在に動く。無数に散る紺碧の色が、青より更に深い色へ真白の足元を染め上げていた。

 しかし油断は出来ない。

 一度波に捕らわれれば、致命的な傷を負うことになる、と直感で悟っていた。

―――――――恐らくは、竜軌のように。

 襲撃が止んだ時、アオハの唇は弧を描いていた。薄茶の瞳が、得難い玩具(おもちゃ)を見つけた子供のように、キラキラと輝いている。

「ねえ、マシロ。今度は(じか)(やいば)を合わせよう。あなたもあなたの剣も、とても綺麗。私は、綺麗なものと戦うのは好き。それを傷つける痛みも含めて、自分の中でしっかり味わうの。あなたを殺してしまう、その寸前まで追い詰めて、弱った身体を抱き締めてあげるから。リュウキの六王も綺麗だから好き。…リュウキは、命拾いしたねえ?」

 自尊心の高い竜軌が、この言い様に肌を刺すような殺気を放つ。

 アオハがそんな竜軌を見てクスリと笑う。白い鳥が羽ばたくように、ひらりと左手を振った。

「ここ、入りやすいけど出るのは難しいから、頑張ってね。急がないと、リュウキは危ないんじゃないかな」

 どこまでも無邪気に言うと、アオハは消えた。


 確かにその空間は、雪華をもってしても開くことが叶わなかった。結界が内部に人を閉じ込める強さの度合いは、創り手の力に左右される。雪華によってさえびくとも揺らがない、海のように青い空間の強固さは、そのままアオハの力を物語っていた。

(…剣護を待つしかない)

 図書室へ向かった自分の戻りが遅ければ、必ず剣護は異変に気付く。

 振り向いた先には、未だ六王を手にしたままの竜軌が座り込んでいる。

 胸元に深い裂傷(れっしょう)が走っている。真白は彼にそっと歩み寄った。左手の小指に()めた、青紫の雫が目に入る。竜軌に襲われたことへの(おび)えはまだ心に在るが、今はとにかくも非常事態だった。

「……痛みはひどいですか、新庄先輩」

 竜軌は憮然(ぶぜん)とした色合いの混じった、白けた顔をしている。

「――――――真白」

「はい」

「荒太とはもう寝たか?……ああ…、それとも兄貴共のどちらかが相手か。気味が悪い程に仲が良いからな、お前らは」

 竜軌の傍らにひざまづいた真白の身体が強張(こわば)り、怒りと羞恥(しゅうち)で熱くなる。

 剣護や怜が真白を聖域と見なすように、真白にとっての彼らもまた聖域だ。それを(おとし)められることは、真白には我慢ならない。荒太のことに関しても、竜軌に茶化される筋合いは無い。声を荒げたくなる思いを抑えて相手は怪我人だと何度も胸中で唱え、怒りを鎮めようとする。けれどささやかな反撃として、口を開かずにはいられなかった。

「無茶してそんな大怪我をした癖に、どうして減らず口や憎まれ口を(たた)くんですか」

 竜軌が喉で笑う。

「案外、言いおる」

「………」

 その後、落ちた沈黙を先に破ったのは竜軌だった。

「真白。透主とは、戦うな」

「え?」

 竜軌の目はどこか遠くを見るようで、声は淡々としていた。

「戦うな。お前も、太郎清隆も、恐らくは透主に刃を向けることは出来まい。荒太でも難しかろう。透主を傷つけるはお前たち自身を傷つけることに他ならぬ。透主(あれ)は、俺が()る」

 語られる言葉の意味を測りかねて、真白は覚束(おぼつか)ない表情を浮かべる。

「―――――どうしてですか」

「…透主は〝とうしゅ〟だからだ」

 にやりと歯を見せて謎めいた言葉を言いながらも、竜軌の息は苦しそうだった。竜軌への怒りやわだかまりが束の間、遠ざかる。真白はせめてもと思い、持ち歩いているハンカチを竜軌の傷口に押し当てた。白いハンカチが、すぐに赤く染まる。それを見る竜軌の目は()めていて、むしろ真白のほうが(あせ)りに駆られた。市枝の泣き顔が頭に浮かぶ。竜軌に言ったことは嘘ではない。口では何と言おうと、竜軌が万一命を落とすようなことになれば市枝が嘆くのは目に見えている。気丈でいて情が深い面を持つ親友を、真白は悲しみから守りたかった。

(剣護…。早く来て)

 荒い息を吐く竜軌の目が間近にあっても、今は怖くなかった。

「私を襲ったのには、何か事情があったんですね」

 黒い瞳がつい、と真白を見る。

「今の俺の言葉の、どこをどう聞いたらそうなる。都合の良い解釈をするな。痛い目に()っても楽天的発想が治らぬとは莫迦な女だ」

 これが竜軌だ、と真白は思った。相手を思い遣っていることを、悟らせようとしない。優しくない言葉で遠回りして警告する。安直に、自らの心に迫られることを(いと)う。

 天下を()べようと考えるなら、もっと老獪(ろうかい)に人心を懐柔(かいじゅう)するべきだった。そうした観点から見れば、生来不器用な信長は、天下人の器ではなかったと言える。

(それでも彼に魅了される人間はいた)

 今井宗久も嵐も若雪も、信長に賭けて持てる力の全てを尽くした。


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