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流離 二 前半部

       二


「真白、迎えに来たよ」

 剣護と連絡をつけた十五分後、稲荷社に駆けつけたのは怜だった。落ち着いた理知的な声に、真白が意表を突かれた顔をする。紺色のシャツに黒いスラックスの怜が、緩い足取りで歩み寄って来る。怜も剣護も普段着で祭りに来ていたが、もし彼らが荒太と同じく浴衣を着ていたなら、女子から浴びる注目は相当なものだっただろうと真白は考えていた。荒太が浴衣を着ていただけでも、ちらちらと投げかけられる視線はあったのだ。荒太はそれを全く意に介していない様子だったが、その視線は真白を落ち着かない気分にさせた。

「え?次郎兄が来てくれたの?」

「うん。太郎兄は今、勉強に集中しろって御両親に(しぼ)られてる。だから、代わりに俺が来たんだ」

 何から何まで、今日は怜の世話になっている気がして、真白は恐縮した。

「ごめんね、次郎兄」

怜が白い歯を見せる。

「気にしないで。裏手の道に自転車停めてあるから、行こう。じゃあな、成瀬」

 怜が真白の足の痛みを気遣いながら、ゆっくりと歩みを進める。

「荒太君、…じゃあ、また」

 振り返る真白に、荒太は頷きを返した。

「―――――うん。気をつけて」

 荒太としては正直なところ、もう少し真白と二人でいたかったが、仕方なかった。

 次第に遠くなる怜と真白の背中を見送る。

 名残りを惜しむように、真白の赤くて甘い感触の残る唇に指を触れた。


「真白。横座りは安定が悪いから、しっかり俺の背中を掴んでおくんだよ」

「はい」

 剣護の母・千鶴の持ち物である自転車は、主に買い物用として使われており、ハンドルの前には大きめのカゴが設置され、荷台もついていた。その荷台に真白が横に座るのを見届けてから、怜は自転車のペダルを()ぎ出した。カゴ近くのライトが、夜の道を照らし出す。

 言われた通り、怜の背中のシャツを掴んだ真白が、話しかける。

「…重くない?」

「重くないよ」

 答える怜の声には笑いが混じっていた。

 祭囃子の音が、少しずつ遠ざかって行く。

「お祭りのあとって、何だか少し寂しいね」

「ああ、太郎兄もそんな感じだったな」

 他人事(ひとごと)のように言う怜が真白には不思議だったが、すぐに思い当たった。

(次郎兄は孤独とか、寂しいとか、そんなことに慣れてるんだ)

 その慣れが必ずしも良いものだとは、真白には思えなかった。

「…次郎兄、彼女がいたことってある?」

 思いがけない質問に怜は目を丸くするが、真白からその表情は見えない。

「――――あるよ」

 彼のことだから、そつのない、スマートな交際だったのだろうと真白は推測した。

 怜の後頭部を見ながら話し続ける。剣護には言いにくいことでも、怜に対しては唇が(なめ)らかに動くのが不思議だった。

「あのね、次郎兄。私、荒太君といると落ち着かないの。すごく安心する時もあるんだけど、…怖い時とかもあって。一緒にいたいって思うのに、実際に荒太君が隣にいると緊張したりして。どうしてかな。そういうのが恋愛なんだとしたら、…不安定なものだよね。剣護といると酸素が増える気がするのに、荒太君は全然、その逆。息が苦しくて自分でも良く解らなくなる。次郎兄はそういうの、解る?」

 若雪であったころからそうだった。嵐の言動に突き動かされ、乱されることがあった。そのことが屹立(きつりつ)としていようとする若雪の妨げにもなった。それでも惹かれずにはいられなかったのだ。彼は名前そのままの存在だったが、奪われたと思う以上の多くのものを若雪に与えてくれた。

 兄の背中に額を押しつけながら、真白はそんなことを考えていた。

 怜のアンテナに、「怖い」という単語が引っかかる。

「……成瀬に何かされたの?」

 長い沈黙のあと、真白は怜の問いを小さな声で否定した。

「ううん。されてない」

 怜は秀麗な顔の眉根を寄せ、自転車のペダルを踏む足に力を籠めた。車の往来の少ない交差点を過ぎたところで、横道からゆるりと姿を現す影があった。

 怜が咄嗟(とっさ)にブレーキをかけると、真白は振り落とされないように彼の背中にしがみついた。

「仲がよろしいことだね、門倉真白。江藤怜」

 チャコールグレイのスーツの男が、低くて冷たい、艶のある声で告げた。


 真白が荷台から降り、怜もサドルを離れると、自転車を固定させた。

 妹の前に庇うように立つと、怜が緊張感のある声で呼ぶ。

「虎封。行くよ」

 呼びかけに応じて現れる、しなやかな黒漆太刀(くろうるしたち)。怜はギレンとは初対面だったが、彼に遭遇(そうぐう)した真白の話は聞いていたし、目の前の男が発散する気配は魍魎のそれと同じだった。

倒すべき敵として、見定める。

(しかもこれは、今までの魍魎(もうりょう)とは格が違う。…汚濁も感じられない)

 ざわり、と肌が粟立(あわだ)つ感覚が恐れから来るものか、強敵と出会えた喜びから来るものか、怜自身にも判断がつかなかった。

 鞘から虎封を抜いて構える怜を眺め遣り、ギレンがおもむろに口を開いた。

「君や門倉剣護を見ていると、時に成瀬荒太と門倉真白の間にある以上の絆が、彼女との間にあるように思える時があるよ」

 語る彼の手に、ゆっくりと灰色と茶の入り混じったような剣が、徐々に形を成していく。それはギレンの隙の無い着こなしに比べ、余りに無骨で飾り気が無く、どうかすると土くれのようにも見えた。ギレンは、まるで講義をする教授のように言葉を続ける。

「知っているかい?古事記で最初に夫婦となった伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冊尊(いざなみのみこと)は、兄妹の間柄だったんだよ。古代においては近親婚も、そう珍しいことではなかった。出雲大社の神官家に生まれた君たちの絆の深さに、因縁(いんねん)めいたものを感じるのは私だけだろうかね」

 気抜けする程に朴訥(ぼくとつ)とした外観の鉄剣が全貌を現す。しかしその剣から受ける印象とギレンの実力を同一視して考える程、怜も楽観的ではなかった。

(こちらから仕掛けるか)

 ギレンの語りを聞き流しながら怜がそう判断した時、夜陰(やいん)に呼びかけてくる声があった。

「真白ちゃんに怜君じゃないか」

 坂江崎一磨が、仕事帰りの格好で立っていた。スーツの背広(せびろ)(かばん)を手に提げ、緩めたネクタイに少しばかりよれたシャツを着ている。現実と地続きの、生活臭(せいかつしゅう)が漂う風体(ふうてい)だった。

 チャコールグレイのスーツを着込んだ男を見て、(りき)みのないのんびりした声で確認する。

(あやかし)かい?」

「はい」

 暑そうな出で立ちだな、と独りごちた一磨が真白の足を見る。

「ここは僕が引き受けよう。怜君は、真白ちゃんを連れて帰ってあげなさい」

「でも……」

 躊躇(ためら)う怜と真白に、笑いかける。

「大丈夫だよ。残業あとっていうのがちょっときついけどね」

 怜は一磨の顔を見て、真白を見た。

 自分も戦える、と目で訴える真白に対し、黙って首を横に振る。彼女を極力、戦闘におけるリスクから遠ざけることは、剣護とも一致した方針だった。望むと望まざるとに関わらず、真白が雪華を振るう機会は他にも訪れる。そして怜は、一磨の力を信頼していた。

「―――――すみません。じゃあ、お任せします」

 虎封の姿が闇に消える。

「うん」

 再び真白を乗せた自転車が遠ざかると、一磨がコキコキ、と首を鳴らした。そんな彼に、ギレンが(いぶか)しげな視線を向ける。

「…何だね、君は。門倉真白の陣営の者か?」

「まあそう、(いささ)か彼らとは(ぞん)()りでね」

 ギレンに向かって微笑むと、背広と鞄を道端に立てかける。

「さあ、ここからは大人の時間だ。参ろうか、水山(すいざん)

 一磨の呼びかけに応じて、見るからに重厚な、一振りの剣が現れた。


 怜に気を抜いたつもりは無かった。むしろ、いつも以上に感覚を鋭く保ち、真白を無事に家まで送り届けるという一事に専念していた。

しかしその大型トラックは、真白と怜の意識の間隙(かんげき)を突くように、突然自転車に迫った。

 目が(くら)むような明るい光が二人を照らし出し、急ブレーキの激しい音が鳴る。

(真白……!)

 怜は、ほんの数秒浮かび上がったように感じる身体を動かし、妹の手を探った。ようやく彼女の細い手を掴んだと思った次の瞬間、真白と怜の身体はトラックの前から消え失せた。

 一時停止はしたものの、逃げるようにトラックは過ぎ去り、あとの道路には自転車が一台、横倒しになっているだけだった。倒れた自転車の車輪は、カラカラとしばらくの間、勢い良く回り続けた。



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