惑乱 四 前半部
レモネード。
四
真白は、今日はもう送らないで良いと言ったのだが、荒太は家の前まで送ると言って譲らなかった。彼は結局、シャツを裏返した上に、更に後ろ前にしてタクシーに乗る羽目になった。返り血は、シャツの裏側まで浸透していたのだ。当然、タクシーの運転手には好奇の目で見られた。不審者として通報されるよりはましだが、苦渋の表情でじっとタクシーの座席に座る荒太を、真白は申し訳ないような思いで見ていた。荒太にとっては、みっともない格好を真白に晒している、という事実が最も耐え難いものだった。タクシーに乗っている間に、怜のアパートの最寄にある電車の駅名とアパート名を荒太に教えると、あとはスマートホンを見ながら行くと荒太は言った。それでもアパートに辿り着けない時は、怜に電話するという手もある。
(…意地でも電話しない気がするけど―――――……)
荒太は怜に、怜は荒太に、弱みを見せたがらないだろうと真白には思えた。
荒太にタクシーで送られ、帰宅した真白は風呂に入り、一息ついた。
風呂上りには、そろそろ冷房を入れたくなる季節だ。窓を全開にして、少しでも風で涼をとろうとする。しかし吹き込む風はもったりとしていて、やや生温い。
「―――――…」
脳裏に蘇る、魍魎の息遣い。
チャコールグレーのスーツを纏った男の、笑み。
(彼らでも、暑いと感じることはあるんだろうか)
苦悶に歪むあの表情。――――――まるで人間のような。
真白は目を閉じた。
(あれと、この先も戦っていかなくてはならないんだ)
それは魍魎との戦いと言うより、自分との闘いになるように感じられる。
開いた瞳には、静かな光があった。
(―――――そうしなければ、守れないと言うのなら)
部屋の戸がノックされる。
「真白ちゃん、ちょっといいかしら?」
「塔子おばあちゃん?どうぞ」
祖母が顔を覗かせた。
「剣護が会いたい、って言って来てるんだけど、どうする?もう夜も遅いし、追い返しても良いけど」
同じ孫でも、女の子と、もう図体の大きくなった男の子では、扱いに差が出るようだ。
真白は部屋の時計を見た。時計の針は午後九時過ぎを指していた。
「ううん、会うよ」
恐らく剣護の話とは、魍魎に関するものだろう。
「大丈夫?何だか、少し具合悪そうに見えるけど」
真白の顔を覗き込み、眉根を寄せる。梅雨入りの頃に真白が熱を出して寝込んでから、祖母は真白の健康をいつも以上に気に掛けるようになっていた。
「大丈夫。今日は、ケーキと焼肉食べて来たから、何だか食べ疲れしちゃっただけ」
「そう?じゃあ、さっぱりするように、レモネードでも作りましょうか」
「あ、嬉しい。ありがとう、塔子おばあちゃん」
真白は、祖母に要らない心配をかけないよう、わざと無邪気な声を上げた。
「悪いな、しろ。遅くに」
部屋に入った剣護は、まずそう言って真白に詫びた。
「大丈夫。………もしかして、次郎兄から今夜の話を聞いて来たの?」
「まあな。―――――顔色、あんまり良くないな。大丈夫か?」
カランカラン、とレモネードの入ったガラスコップを揺らしながら、剣護が尋ねた。
――――――気遣わしげな表情をしている。
(…こんな風に)
守られているんだな、自分は。
真白は改めてそう思う。
〝真白さんは、何もしないで良いんだ〟
荒太がそんな申し出をしても、おかしくはない素地があるのだ。
「うん――――。ねえ、剣護」
「何?」
「私ね、状況を単純に見過ぎていたみたい。私たちは戦をしてるんだって、次郎兄にも前もって念を押されたのに――――――解ってなかった。戦って、殺し合いのことなんだよね。魍魎を倒すってことは、人一人を殺すっていうことと、すごく近い行為なんだって、改めて思い知らされた――――――――――。人と魍魎の違いは、実は紙一重なんだね」
「………嫌になったか?」
そう問う剣護の顔は、真白を包み込むようだった。
その顔を見て、真白の胸には不意に突き上げるものがあった。
(―――――この問いに、どう答えても、この人は私を許すんだ)
「…嫌に、なった――――けど、今更引き返せない。……引き返さない。今でも、守るか守らないかって訊かれたら、やっぱり守るほうを私は選ぶ。私は、自分が甘かったんだって、すごく痛感してるの。もう、捨てるよ」
甘さを。
「―――――……」
剣護は複雑だった。
(そう言って、簡単に割り切れるものじゃないだろうが……)
状況の厳しさに突き当たったところで真白の戦意が萎えるようであれば、戦線離脱させる道もある。しかし真白はここに来て、元来持つ芯の強さを発揮した。前生において、剣を取った若雪に、太郎清隆も次郎清晴も敵わなかった。天賦の才は、恐らく真白にも備わっている。大蛇の魍魎と戦った時の真白の手際は、怜から聞いていた。
(神の眷属としての、成せる業か……)
戦力としては頼もしい限りだが、真白の心に負荷がかかり過ぎるのではないか、それが気がかりだった。
剣護は、改めて妹をつくづくと眺める。
薄手のカーディガンを羽織っただけのパジャマ姿で、大人しくレモネードを飲む真白は、華奢な少女にしか見えない。
「―――――髪、伸びたな」
唐突に話題を変え、自分と同じ焦げ茶色をした、真白の髪の毛先をチョイと触る。
剣護が触れた箇所に手を遣り、真白も気付く。
「ああ………」
真白として目覚めてから、まだ一度も美容院に行っていない。
適当に伸ばしていたショートヘアが、今では辛うじて結べる程度に伸びていた。
「うん…。切りに行かなくちゃ」
「伸ばせよ」
「剣護はすぐ、そう言う」
真白が笑った。
その顔を、剣護が真顔で見る。
(しろを戦わせたくない…。戦わせるのが辛いと、むしろ俺たちのほうが思ってるんだな)
〝太郎兄、次郎兄、待って!待って!〟
それが、幼いころの若雪の口癖だった。兄二人がどこかに行こうとすると、必ずあとをついて追って来た。その姿が可愛くて、わざと次郎と出かける素振りをしたりした。そうして色の白い頬を赤く染めて走って来る妹を見て、弟と顔を見合わせ、笑み崩れるのだ。
〝剣護、待って!待って!〟
今生では自分が独り占めにした。
剣護は息を吐いた。
(逃げんな)
意識を切り替える。
「真白、俺は表看板を背負うと言った時、当面はこちらから何も仕掛けないとも言った。覚えてるか?」
真白は頷いた。
「うん、魍魎たちの出方を待つって」
「実は俺は、明臣と一緒にいる時に、奴らをわざとおびき寄せたんだ」
「―――――どういうこと?」
「言うまでも無く、明臣は花守だ。魍魎が敵視し、警戒する存在だ。そこに、戦線に加わることを決めた俺も共にいれば、必ず妖が寄って来ると思った。その読みは当たったよ。そしてそれと同時に、俺は以前より感じていた、俺やお前への執念じみた敵意を向ける相手の存在を、確認したかったんだ」
真白は怖い眼をして剣護を睨んだ。レモネードの入ったコップを握る両手には、力が入っている。
「ルール違反だよ、剣護。私たちに黙って、一人で危ないことするなんて」
「――――解ってるよ…。悪かった」
「もうしない?」
俺は子供か、と思いながら剣護は両手を上げて降参のポーズを取る。
「もうしません。………多分」
ここで妙に正直に答えてしまうのが剣護だった。
「――――――」
忽ち怖い顔に戻る真白に、若干本気で慄きながら早口に言う。
「あ、うそうそ。もうしない。絶対しない!真白ちゃんは今日もかわいーねー」
調子の良い言葉に、真白が白けた目を向ける。
「同じ言葉、C組の佐藤君にもよく言われる」
陶聖学園でチャラ男として名を馳せている一年男子の名を聞き、剣護の眉間に皺が寄った。
「何だと、あいつ。今度締めたろか」
「あと、この間の水曜日に、クラスの武井君に告白された。……断ったけど」
剣護が勢い良く立ち上がる。
「はあ――――――!?んな話、聞いてねーぞ!荒太や怜は何やってんだよ!!近くにいて気付かなかったのか、情けないっ」
「次郎兄は知ってたよ」
真白からの冷静な追加情報が入る。
「のおおおお!なんっで言わねーんだ、あいつ。一人でこそこそ秘密にしとくとか、有り得ねー!!」
頭を抱えて叫ぶ当人だけが、自分が口走る内容を把握出来ていなかった。
「…………剣護。その言葉、鏡に当たってはね返ってるからね」
――――――話が著しく脱線している。
「ああ、何かすごい不毛な会話になっちゃった。……それでその、相手の存在の確認って、どうやって?」
真白が額に手を当てて反省し、剣護も狂乱する兄馬鹿の顔を引っ込めて再び座った。
「――――呪詛返しの秘言を、襲ってきた妖に向けて唱えた。…そいつは消えたよ。恐らく、呪詛を行った相手のもとに返ったんだろう。……スーツの男は、近々、お前に恨みを抱く奴が現れると言ったと次郎から聞いた。再会、だと。そいつは呪詛を行った奴と見て間違いない。真白、お前はそいつに心当たりはあるか?」
問われた真白は口元に手を当て、思考の淵に沈む。
再会。恨み。呪詛。
それらの言葉が導き出す相手――――――――――。
「…もしかして――――――――」
真白の声に、剣護が頷く。その目に宿る暗い色。
「ああ。あの男だろうな」




