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オオカミ王子は狙われる

 王族、貴族の集まるローエンベルク王国最大のチャリティパーティーで、イザークは「王国の歌姫」と称されるオペラ歌手の歌を、歌手から少し離れた場所で静かに聞いていた。特に思い入れがあるわけではない。一緒にきていたクラウディアがヒルデガルトに連れていかれてしまって、一人になってしまったからだ。熱心に聞いている「ふり」をしなければ、会話好きな誰かに話しかけられてしまう。それが正直、面倒だった。


 歌に集中している、だから話かけないで欲しい。そういう様子を十分に醸し出していたはずなのに、すっとイザークの目前に、一人の女性が入り込んできた。


「こんばんは、イザーク様。お久しぶりですね」

「……どこかで、お会いしたことが?」


 社交の場だ。一応はイザークも、わかりやすく嫌そうな態度は出さないように努めた。ごく淡々とではあるが、極力普通には答える。


「お忘れですか? ずっと前に、お会いしたことがあります」

「そうですか。それは失礼。最近は遠征が続いて国を出ていることが多かったものですから、社交界でのことをすっかり忘れていて」


 同世代か、少し年上に見えるその女性についての記憶は、イザークには皆無であった。

 さっきから、周囲の男がチラチラとこちらを見ている。まあ、そうなのだろうなとは思う。世間の感覚からすれば、彼女は絶世の美女といっていいのだろう。だが彼女の美しさは、イザークにとっては別にどうでもいいことで、彼女に声をかけられたというだけで、周りからチラチラと見られるのは気分が良くない。


「どこでお会いしたか、イザーク様に思いだしていただけるよう、お話がしたいです。少しテラスに出ませんか?」


 彼女は自分の魅力を完全に理解していて、イザークが断ることなど全く想定していないのだろう。イザークは内心で舌打ちをした。


「申し訳ありませんが、婚約者がいますので」

「そうですか? でも……」


 美しい唇が、狡猾そうに弧を描いた。彼女はイザークに一歩近づいてくる。思わず小さく眉間に皺を寄せたイザークに、彼女はお構いなしにささやいた。


「クラウディア様のことで、お話が」

「…………」


 今度こそ思い切り不快の表情をあらわにしたイザークに、彼女はにっこりとほほえんで、返事を待たずにテラスへと向かってしまった。


 イザークは周囲を見渡す。クラウディアとヒルデガルトの姿は見えない。が、人に囲まれて談笑しているラルフを見つけ、足早に近づいて腕を引いた。


「イザーク?」

「ラルフ、来い」

「一体何――」

「いいから」

「……皆さん、友人が用があるようなので、少し失礼します」


 愛想の良い笑顔を見せるのを忘れずに、ラルフはイザークの後ろをついてきた。どうしたと尋ねるラルフの声に答える間もなく、イザークはテラスへと出る。


 少し進んでその姿を確かめると、明るい月の光の下で、女は嬉しそうに笑みを見せた。


「来てくださったのね。……でも、お友達と一緒だなんて。少し残念だわ」

「……イザーク、どちらのご令嬢だ?」

「お前も知らないのか?」


 これまであまり社交界に顔を出さなかったイザークはともかく、ラルフまで知らないというのはおかしい。イザークは不信感をあらわに、女を睨む。


「どこの家のものだ。まずは名乗れ。話はそれからだ」

「まあ、ひどい言い方ですのね。先ほど言ったではありませんか。ずっと前に、お会いしたことがあると。わたくしはイザーク様のことを、決して忘れてはいませんでしたよ」


 女はひどく傷ついた様子で、目を潤ませた。イザークは余計に苛々し、その隣でラルフが苦笑する。


「ご令嬢、申し訳ないが、イザークはそういう駆け引きの通じない男です。あなたの遊び相手にはふさわしくないでしょう」

「そうかしら? ねえイザーク様、わたくしのほうが、きっとあなたを楽しませてあげられると思いますわ。クラウディア様よりも、ずっと」


 クラウディアの名前を聞いて、ラルフの顔から笑顔がすっと消える。


「何故クラウディアのことまで」

「さあ、何故でしょう。そんなこともわからない? クラウディア様のお兄様の、ラルフ様」

「……あなたは一体」

「おい、いい加減にしろよ。答えろ、お前は何者だ。何の目的で近づいてきた」


 怒りとともに、イザークの足元から風が巻き起こる。魔力がイザークの身を包む。ラルフが小声で注意した。


「イザーク、やりすぎるなよ」

「無理だな。この女は、クラウディアの身を危険にさらすかもしれない」


 女は慌てることもなく、ずっと浮かべていた得体の知れない笑みをすうっと消して、真顔になった。


「わたくしに、攻撃するつもり?」

「お前の返答による」

「そう。では喜んで応戦するわ」


 女はすっと片手をあげて、パチンと指を鳴らした。と、光の粒が一瞬で女を包む。全体を輝かせて彼女の姿を一度見えなくしてから、光の粒はあっという間に闇に溶けていく。

 光が完全に消えた時、目の前にいたはずの華奢な女は、すっかり姿を変えてしまっていた。華やかな巻き毛は、さらりとした肩までのストレートに。衣装も、背の高さも、体格も、瞳の色も。何もかもがさっきとは異なっていた。性別でさえも。


 イザークは息を呑んでいた。体を包んでいた魔力が、水をかけられた火のように消える。


 何も言えないイザークに代わって、声を上げたのは、ラルフだった。


「兄上!」


 美しい女から姿を変えた、冴え冴えとした美貌の男性。少し寒気がするくらい美しい、クラウディアの二番目の兄。エリアス・ローゼンハイム。


 エリアスはラルフを無視して、イザークに氷のような視線を送ってくる。エリアスの身長はラルフと同じくらいで、イザークよりは少し低いはずなのに、何故か上から見下ろされているような気分になった。


「どうしたイザーク。戦う気があったんだろう? 相手をしてやろう。遠慮はするな」

「いえ、それは……。大変失礼いたしました」


 エリアスは、魔法の天才だといわれていた。魔力は膨大だがコントロールが苦手なクラウディアとは対照的に、扱いの難しい複雑かつ高度な魔法を難なく使いこなす。王立学院在学中から王立魔法研究所で活躍し、現在は技術指導のために招請されて隣国で暮らしている。


 イザークにとっては、はっきりいって苦手な人だった。

 年齢は二歳違いとはいえ、忙しいエリアスの姿は、在学中でもあまり学院で見かけることはなかった。にもかかわらず、時折顔を合わせたときには、すべてを見透かしたようなまなざしを向けられた。ラルフやクラウディアとは違い、感情を表に出さない、冷たい美貌。何を考えているのかわからないのに、こちらのことはすべてお見通しだといわんばかりの視線。秘めていたクラウディアへの想いも、何もかも知られている気がしていた。


「兄上、いつお戻りに?」

「さっきだ。お前たちもきていると聞いていたので、試してやろうと思ってな」

「試すって、イザークをですか? さすがに、意地が悪すぎではないですか? 万が一にもありえないでしょうが、もしもイザークが美女の誘いにのったら、どうするおつもりだったのです?」

「決まっている。息の根を止めていた」


(目がマジなんだよな……)


 内心で冷や汗をかきながらも、イザークは改めて、姿勢を正して小さく頭を下げた。


「エリアス様。クラウディアとの婚約を許していただき、感謝します」


 隣国で過ごすエリアスには、これまで挨拶することすら叶わなかった。忙しく帰国していたとしても、イザークのために時間をつくってくれたとは思えないが。

 エリアスは不愉快そうに眉間をわずかに動かした。


「ラルフが言うから仕方がなくだ」


 エリアスのラルフやクラウディアに対する愛情は、間違いなく深い。そのことがイザークをほっとさせた。クラウディアを大切に思う気持ちが同じなら、わかりあえなくもない、気がする。いや気のせいだろうか。


「それにしても、兄上。一段と魔法の精度があがりましたね。姿も、気配も、何一つ見抜ける要素がありませんでしたが」

「お前たちが未熟なんだ」

「いや、あれは無理です、普通に。せめて兄上の要素をもう少し残してもらわないと」

「ヒントは与えただろう。話は終わりだ。中に戻る」


 と、つかつかとエリアスはイザークとラルフの脇を通りすぎていく。


「兄上、こちらにはいつまで?」

「しばらくだ。クラウディアと遊んでやらなくてはな」


 背中で答えて、会場へ消えたエリアス。間違いなく、今度は会場中の令嬢たちの視線を攫うだろう。


 イザークはどっと疲れて、よろりとバルコニーに体重を預けた。

 隣で同じようにバルコニーに体を預けたラルフが、同情したようにイザークの肩をポンと叩いた。 


「まあ、ああは言っても、どうせ兄上は忙しい。クラウディアを独占するような時間はないだろう」

「……そーだといいけどな」

「しかも兄上の溺愛は、斜め上をいくからな。久しぶりだからクラウディアも最初は喜ぶだろうが、そのうちお前のところに逃げてくるだろう」


 はははっと笑ったラルフの予想は、後日見事に的中した。



 * * *



 それから数日の間、兄妹の時間を邪魔するのは気が引けて、ローゼンハイム邸に行くことができなかったイザークを、クラウディアが訪ねてきた。


 青い顔をして、クラウディアは言う。


「エリアス兄様が言うの。アレクシス様のことを連れ戻して、婚約破棄について、死んだ方がましだと思えるくらいには後悔させてやるって」

「……マジでやりそうだな。てか当初、良くやらなかったよな」

「お父様たちのおかげよ。私のことは全力でフォローするから、隣国で受けた仕事を放り出したりするなって説得したんですって」

「で、ようやくゆっくり戻ってこれたから、当初の目的を果たそうとしていると」

「そう。だから言ったの。今、私はとっても幸せだから、絶対にやめてって!」


 クラウディアはぐっと両手を握りしめて、力強い口調になる。


「私、エリアス兄様が変な気を起こさないように、もっと幸せにならなくちゃいけないのよ! イザーク、協力して!」


 何故か、イザークにとって良い流れである。


「……じゃあ、するか。デート。とかさ」


 さりげなくそう言うと、クラウディアは大きな瞳をぱちくりとさせ、それからポッと頬を赤くした。


「い、いいわよ。どこに行くの?」

「……どこでも。お前が行きたいとこで」

「ほんと!? 甘いものでも、一緒に食べてくれる?」

「……努力する」


 嬉しそうなクラウディアに、平生通りを装いながらもイザークは胸の中で安堵する。しばらくは、ローゼンハイム邸で会える気がしない。王都で気分転換するのも良いだろう。こうしてクラウディアも喜んでいるのだし。


 しかしイザークはふと、怖いことを思い出した。あの人は、完璧に姿を変えることができるのだ。


「エリアス様が、魔法で姿を変えて、いつのまにかお前の側にいる、とかはねーよな?」

「……例えば護衛騎士とか、馭者とか? 私の知ってる誰かに姿を変えていたら、分かりっこないわ。だってエリアス兄様の魔法よ?」

「とりあえず、オレが自分で迎えに行くし、護衛もオレがする。お前の家からは、誰も連れていかなくていいようにするから、お前は俺が迎えに行くのを大人しく待ってろよ」

「うん。……でも、イザークの姿になってたらどうしよう」

「お前な。そこは見抜けよ」

「何よ。イザークだって、エリアス兄様が私の姿になって会いに来たとして、見抜ける自信がある?」

「……つかお前今、本物か?」


 思わずまじまじと見ると、クラウディアは嫌な顔をしたが、イザークは妙案を思いついたように言った。


「本物なら、オレにキスする」

「はぁ!? ば、馬鹿なの? エリアス兄様だったら、ひどい目にあってるわよ!」

「そーだな。で、お前は本物?」

「……もぉ!」


 顔を真っ赤にして、クラウディアが一歩、近づいてくる。イザークの胸に手をあてて、背伸びをした。


「少し、かがんで?」


 上目遣いで、恥ずかしがるクラウディアからの、そっと触れるだけの、キス。当たり前だがそれだけじゃ足りなくてイザークは、すぐに彼女の体を抱き寄せて、深く口づけをした。


「……っ、ん」


 すぐに息も絶え絶えになったクラウディアの、首筋と耳たぶを甘く舐めとる。


「や、イザーク、だめ……」

「……次からは、お前からキスするのが、本物だっていう合図な」


 満足そうに言ってイザークは、本物の味を、今だけでも存分に味わうことにした。

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