オオカミ王子は嫉妬する
五日ぶりの休日に、イザークはクラウディアの待つ学院へ急いでいた。
とっくに卒業した場所にこうも足繁く通うのは正直嫌だったが、休日の合わないクラウディアに会うためなので文句は言えない。彼女に学院を休ませるわけにはいかなかった。
いつもクラウディアと会う芝生の上に足を踏み入れて、イザークは思わず立ち止まった。
約束通りクラウディアがいた。しかし彼女は一人ではない。ハニーブロンドの髪をした少年が、彼女が広げた敷物の上に座っていた。そこはいつも、イザークが寝転ぶ場所だった。
イザークの目の前で、少年はあろうことかクラウディアの手を取った。そしてクラウディアのほうも、嫌がらずにそれを受けいれている。
クラウディアが笑ったのを見て、イザークの中で何かがきれた。
つかつかとあっという間に近づくと、こちらに気付いて二人は顔を上げる。
クラウディアが顔を輝かせて口を開きかけたが、その前にイザークはクラウディアの手を取っていた少年の手をひねり上げていた。
「……痛い痛い痛い!」
「イザーク!」
イザークに無理やり立たされて悲鳴を上げた少年に、クラウディアは一瞬で顔を真っ青にする。
「やめて、何するの! 離して!」
慌てて立ちあがったクラウディアが、イザークの手にすがりついた。
それでイザークは少年の手を離したが、氷のような視線を容赦なく彼に浴びせていた。
「お前、何をしていた」
かつてなく冷え冷えとしたイザークの声に、クラウディアが息を呑んだのが分かった。
しかし少年は手首をさすりながらも、まだ幼さの残る顔で堂々と答えた。
「何もしていません」
「……触っただろ」
「イザーク、やめて! 私がお願いしたのよ!」
「…………」
眉をぴくりと動かして、イザークはそこでようやくクラウディアの方を見る。彼女はてのひらを差し出していた。
「これを受け取って、使い方を教えてもらっていたのよ!」
そこにあるのは、一見普通のブローチに見える、小さな魔法具だった。
「…………」
魔法具とは分かったが、どういう用途のものかは分からず、イザークは眉間に皺を寄せた。
すると少年が、まるで大人のようにわざとらしく咳払いをした。
「魔力の放出を抑える魔法具です。このサイズで、一般に流通しているものではクラウディア様の魔力を抑えられないようなので、特別に僕が作りました」
この少年がそれを作ったということに、イザークは思わず怒りを忘れてまじまじと彼を見つめてしまった。
魔法具作りには相当な技能と知識が必要なはずだ。職人は何人も知っているが、こんなに若い人間はさすがに初めてだ。
そうすると少年は、にっこりと人懐こい笑顔を見せた。
「初めまして、イザーク様。フェリクス・アレンスと申します」
「……アレンス?」
「ヒルデ様の、二番目の弟よ」
そう言って、青い顔をしたままクラウディアは、慌ててフェリクスの手をとる。
「フェリクス、大丈夫? 痛かったでしょう?」
「大丈夫です。クラウディア様」
「ごめんね。イザークがひどくして」
「いえ、仕方がありません。誤解させるようなことをした僕が悪かったのです」
二人のやりとりを無言で見ていたイザークに、クラウディアはきつい視線を向けた。
「イザーク。謝って」
「…………」
「誤解があったとはいえ、小さな子に対して、あまりにも乱暴だわ」
クラウディアの言葉に、イザークの眉間の皺が深くなる。
(小さな子? ……どこがだよ)
年の頃は十歳から十二歳くらいだろうか。確かにまだ筋肉も発達していない細い体をしているし、背もクラウディアより低いが、小さな子というには大きくなりすぎてはいないか。
「小さな子っていうのはな、学院に入学直後の子供ぐらいのことを――」
「そんなことはどうでもいいから」
反論を封じられて、イザークは諦めて言うしかなかった。
「……悪かったな」
「わあ、苦虫を噛み潰したような顔っていうの、僕初めて見ました」
「……お前」
イザークはこめかみに青筋を立てた。しかし次の言葉を待たずに、フェリクスはにこにことしながらクラウディアに向き直る。
「僕はこれで失礼します。クラウディア様、さようなら」
「フェリクス、ごめんね。これ、本当にありがとう」
「いいえ。お役に立てて嬉しいです。それじゃあ」
イザークの側を通り過ぎるときフェリクスは、いたずらっ子のような表情で小さな声でささやいた。
「嫉妬深い男は、嫌われちゃいますよ。そうなったら、僕が貰おうかな」
「……は?」
(今なんつった、このガキ)
イザークが目を吊り上げた時には、フェリクスはクラウディアに手を振りながら走り去った後だった。
フェリクスの言葉が頭の中から離れずにイザークは、彼に笑顔で手を振っていたクラウディアを見て思い切り不機嫌な顔をした。
それに気がついて、クラウディアの笑顔が固まる。
「……イザーク、まさかまだ怒ってるの?」
「別に、怒ってない」
「……怒ってるじゃない」
「うるせーな。お前が簡単に触らせるからだろ。この馬鹿」
その瞬間、困惑していたクラウディアの表情が、みるみるうちに怒りに変わっていった。
「……もういい。イザークの馬鹿」
低い声で言い置いて、クラウディアはぷいっと顔を背けて去っていった。
後悔はしたがもう遅かった。後に残されたイザークは、やってしまったと深い深いため息をつくしかなかった。
* * *
一応は追いかけたのだが、クラウディアは「授業があるから」と短く拒絶して去っていった。
最近はあまりなかったが、かつてはこうやってクラウディアと喧嘩するのが常だった。とりあえず冷却時間が必要なことくらいは分かっている。
苛々とする気持ちを持て余しながら、イザークが学院を離れようと歩いていると、ヒルデガルトにばったりと出くわした。
「まあ、イザーク様」
「…………」
「お久しぶりにお会い致しましたのに、どうしてわたくしはそのような苦いお顔をされるのでしょう?」
レースの扇で口元を隠しながらにっこりと笑ったヒルデガルトに、イザークは内心で思う。ハニーブロンドもそうだが、この食えない感じが姉弟そっくりではないか。
「ヒルデ、お前の弟いくつだ」
「……弟? ああ、フェリクスですか? そういえばクラウディアに何か頼まれていましたわね。年は今年で十四です」
童顔と細い体に騙された。何が小さな子だ。
「あんまりクラウディアの周りをうろちょろさせるな」
「まあ……。イザーク様、わたくしの弟ですわよ」
「クラウディアに惚れないとも限らないだろ」
「確かにクラウディアは最近一段とかわいらしくなりましたものね」
ヒルデガルトはイザークをちらりと見上げる。
「そういえば、最近聞かれたんです。口でするのは全部キスって言われたけど、本当かって」
イザークは思わず真顔になった。
(……クラウディア、あの馬鹿)
「迷いましたけど、仕方がないから否定はしないでおきました」
「…………」
頭を抱えたい気分になった。ヒルデガルトは優雅に微笑む。
「わたくし、とっても信頼されているんです」
「……そーかよ」
「クラウディアに言って差し上げましょうか? 本当に愛し合っているなら、キス以上のこともしても良いのよって」
「……え」
思わず間の抜けた声が出てしまった。途端にヒルデガルトは顔を逸らして、額まですっかり扇で覆い隠す。
ふるふると肩を揺らすヒルデガルトは、絶対に笑いを噛み殺している。
「イザーク様……。もう、本当におやめください。そんなかわいらしい反応」
「……お前な」
ややして扇から目もとだけを出したヒルデガルトは、愛嬌のある瞳でイザークを見上げた。
「ごめんなさい、イザーク様。……でも、駄目ですよ?」
「……ヒルデ。ラルフに余計なこと言うなよ、絶対に」
「ええ、分かっています」
「……いい性格してるよな。ラルフとお似合いだよ」
ヒルデガルトは、それにふふっと嬉しそうに笑った。
* * *
夜になって、イザークはローゼンハイム邸を訪れると、警備に見つからないように慎重にベランダに忍び込んだ。
こつこつと窓ガラスを叩けば、怪訝な顔をしたクラウディアが恐る恐るカーテンを開いた。
イザークの姿を確かめて、クラウディアは目を丸くする。
慌てて開けられた窓から、イザークはクラウディアの部屋に入った。
「イザーク。どうしてこんなところから……」
「絶対に言うなよ、ラルフにもヒルデにも」
とりあえず前置きをする。
忍んで会いに来たのは、ラルフに訪問を知られたくなかったというのもある。それに、ラルフを含めたローゼンハイム邸の人々に訪問を知られなければ、帰る時間を気にしなくていい。
そういう内心をわざわざ説明する必要はないだろう。理由は簡潔に一言だけ。
「すぐ会いたかったから」
玄関から入って応接室で待つ時間すら煩わしかったと、そういう気持ちは伝わったようで、クラウディアは頬をほんのり赤らめた。
「昼間は悪かったよ」
「ううん。私も……っん」
クラウディアの言葉を最後まで待たずに、唇を奪った。だいたいがフェリクスのせいで、昼間はキスすらしていなかったのだ。
「イザーク。ちょ、ちょっと待って」
クラウディアは強引に体を引き離す。
不本意ながらもそれに従うと、クラウディアはサイドテーブルに置いてあったものを手にしてイザークに見せた。
「これ、昼間フェリクスに貰ったものだけど」
むっとしたが、クラウディアが嬉しそうな顔で何かを話そうとしているので黙っていることにする。
「座って」
うながされて、ベッドに並んで腰を下ろす。
「これを持って、それで……」
クラウディアは左手にブローチを握りしめ、右手をイザークの手に重ねる。
クラウディアが目を閉じて力を込めると、光が溢れ、イザークの手が急に温かくなった。
イザークは驚きのあまり重なった手とクラウディアの顔の間で、何度も視線を行き来させた。
「お前、回復魔法……」
目を開いたクラウディアが、はにかむように笑った。
「そうなの。これを持っていれば、少しだけできたの。余計な魔力をブローチが抑えてくれるから。これがあれば、イザークが怪我した時に治してあげられるでしょう? たぶん、擦り傷くらいにしか効果ないけど」
イザークは二の句が継げなかった。
(……俺のため、だったのか)
イザークはたまらなくなって、クラウディアを抱きしめていた。
「イザーク?」
「……クラウディア、好きだ」
クラウディアの耳元に頬を寄せながらつぶやくと、ややしてクラウディアの声が返ってくる。
「私も好き」
少し体を離せば、クラウディアが大きな瞳を潤ませていた。こうやっていつも、無自覚に彼女はイザークを煽ってくるのだ。
たまたま髪を上げていたクラウディアの白い首に、唇を落とす。それから耳たぶを甘く噛めば、クラウディアは背中を反らせて甘い息を漏らした。
「お前、こうされるの好きだな」
「何言って……。もうやだ」
顔を真っ赤にしているのが分かる。それがどうしようもなく愛おしくて、イザークは深く口付ける。熱も呼吸も、クラウディアの全てを絡め取るようなキスをした。
クラウディアが苦しそうに息を漏らしたから、イザークは仕方がなく唇を離した。抱きしめたクラウディアは、イザークの背中にある空を見上げてつぶやいた。
「イザーク、満月が……」
「それが、どした」
「……だって、本当にオオカミみたいだから」
満月の夜になるとオオカミに変身してしまう人狼の伝説。いっそ本当にそうなれたら楽なのに。イザークはため息交じりに答えた。
「もしオレがオオカミなら、とっくの昔に食べてるよ」
また赤くなったクラウディアに、今度はそっと触れるだけのキスをする。
理性が焼き切れる前に、そろそろ帰る必要がありそうだった。




