31 令嬢、ドラゴンとさよならをする
暗闇に丸い月が浮いている。
ニナが鍵を開けて獣舎の中へと入ると、わらの寝床でドランが体を丸めて眠っていた。
「ドラン」
小さく呼びかけると、気配を察してとっくに目を覚ましていたらしいドランが薄目を開けた。確認しなくても匂いでニナだとわかったのだろう、すぐにまた目を閉じてしまった。
ニナはドランから距離を置いて戸口の前に座った。人間の匂いがつくといけないからだ。
明日の朝、ドランは北方の地へと送られる。ついに別れの日がやってきたのだ。
フゴフゴと平和に寝息をたてるドランは、ニナがドランだった頃に鏡で見ていた幼い顔ではなく成長したドラゴンの顔だ。赤いうろこがびっしりと生えた体、白いお腹、重量のあるしっぽ。あごの下をなでる事も長い首を抱きしめる事ももう出来ないが、さわらずとも、その愛おしいほどの手ざわりをニナは良く知っている。
今にもあふれ出しそうな切なさをのど元で飲み下しながら、ニナは両手で膝を抱えてじっとドランを見つめ続けた。
目の中に焼き付けておこう。ドランがいなくなった後も、目を閉じればすぐに思い出せるように――。
一睡もしないまま朝がやってきた。
門出を祝福しているのか空は抜けるように青い。けれどその眩しいほどの青さがニナの目には痛い程しみた。
別棟の前庭には数台の馬車と荷台に乗った檻が待機していて、アスランや騎士隊員たち、そして見届けに来た大臣や衛兵たちが集まっていた。
職員たちが縄を引っ張ってドランを連れてきた。ドランはわかっているのかいないのか、おとなしく従っていた。
元の中身がニナで仲良くしており、この二年間もドランは全くなつかないのに獣舎に良く様子を見にきていたアスランや騎士コンビなどは、寂しそうにドランを見つめている。
一晩中、一緒にいて心を固めたはずなのに、ニナはすでに泣きそうだった。気を抜くと嗚咽がもれそうになるので強く唇を噛みしめるしかない。
「――それではアスラン殿下、ニナさん。そろそろ出発します」
食い入るようにドランを見つめているニナに、書類にサインした保護施設の職員たちがためらいがちに声をかけた。
(いよいよなんだ……)
心がきしむように痛い。
ドラゴンが多く棲む北方の果ての地、そこと海を挟んだガザル地方までドランを連れて行くのは職員たちだ。そこまで行けば仲間のドラゴンの匂いが風に乗ってただよってくるので迷わず北方の大陸へと飛んでいけるのだという。
せめてそのガザル地方まで一緒について行きたかったが、ニナの思いを見越した職員たちにきっぱりと断られた。
「別れがたくなりますから。ニナさんだけでなく、ドランも」
「ドランも」そう言われては引き下がらざるを得なかった。
護衛の兵士たちが馬車に乗り込み、職員たちが縄を引っ張ってドランを檻へと誘導し始めた。ニナははじかれたようにドランのそばへと駆け寄った。
ドランがゆっくりと振り向いた。ニナを見返す赤い目は穏やかで落ち着いている。ニナよりもずっと。
(いつの間に、こんなに大きくなったんだろう……)
ずっと誰よりも近くで見てきたのだから、こんなふうに考える事自体おかしいのだけれど改めてそう思い、たまらなくなった。
ドラゴンは幼い頃は成長が早いが大人になってから長い年月を生きる。その長い生を狭い獣舎の中で過ごすより、仲間と共に北方の地で伸び伸びと生きる方がいい。ちゃんとわかっているし、実際にそう思っている。
それなのに寂しい。離れたくない。それが今のニナの真実だ。いけないとはわかっていても、それが本当の気持ちだった。
実家で見つけてから別棟に連れてきても大変だったドラゴン令嬢。暴れて吠えて体当たりして、棚の食料を全て食べてしまった事もあった。騎士隊員たちもよく噛みつかれていたっけ。
ドラゴンの姿に戻って多少は落ち着いたが、それでも手がかかった。暴れるドランをすみずみまで洗い、食べられるものと食べられないものを教えた。病気になった時は寝ずに看病して、ところ構わず吠えない事を教えた。
数えきれないほど世話が焼けて大変で、けれど、それが嬉しかった。
ニナが作った揚げ鶏を夢中で食べていた。あごの下をなでると気持ちよさそうに目を細めて頬を押し付けてきた。
ダメだ、ダメだ……。思い出さないでおこうと思うのに頭の中に勝手に今までのドランの様子が浮かんできて、涙があふれてくる。
(泣いたらダメだ。笑ってお別れしようと決めたんだから)
何とか泣き止もうとするも無理だった。
声を出さずに大粒の涙を流すニナへと、ドランがゆっくりと首を下げた。
「シャー」
ドランの首にかかった、ひもを通した母親の赤い爪が揺れる。
顔を上げると、ニナの目の前にドランの顔があった。
「シャー?」
もう一声、鳴いた。まるで「さわるか?」と聞いているように。
気をつかってくれている。そう悟った。泣くニナをなぐさめようとしているのだ。人間の匂いがついてはいけないとわかった上で、それでもさわらせようとしてくれている。ニナが悲しんでいるから。
「……大丈夫」
ニナは急いで涙をぬぐった。涙声で、体中どうしようもなく震えているのが自分でもわかるが精一杯こらえた。
ドランは大人になったのだと改めて思った。
ちゃんと成長した。職員たちやアスランに見守られて、ちゃんと成長できた。北方の地でいずれ伴侶を見つけて子供を産むだろう。ドランを最期まで守った母親のように、きっといい母親になる。
それは、とても楽しみな事だ。例えこの目では見られなくても、遠い地でドランが幸福になってくれるのなら、それはとても幸せな事だ。
両手をきつくきつく握りしめて、ニナは頑張って笑った。
「大丈夫だよ。今さわらなくてもドランのさわり心地は良くわかってる。ちゃんと覚えてる。長い間、一緒にいたもの。ありがとう、ドラン。今まで一緒にいてくれてありがとう……」
「シャー」
ドランが応えるように鳴き、じっとニナを見つめた。ドランもまた、ニナの姿を頭に刻み込もうとしているかのように。
そして、ゆっくりと檻の中へと入って行った。職員たちが檻を幕でおおう。
護衛の馬車が走りだし、続いてドランを乗せた荷台を引く馬車も動き出した。
一心に見つめるニナの前で、かすかに檻が揺れて幕のすきまからドランが顔をのぞかせた。
その様子がいたずらをしていた幼い頃を彷彿とさせて、ニナはたまらなくなって叫んだ。
「元気でね、ドラン! 変なもの食べちゃダメだよ、すぐにお腹を壊すから! 風邪ひかないように寒い時はちゃんと風のよけられる場所で寝るんだよ! 友達たくさんつくって、楽しく暮らすんだよ……」
涙があふれて声が出ない。笑って別れようと決めていたのに、ニナは涙で視界がかすむほど泣いていた。
どうしよう。最後なのに、これで最後なのに、ドランの姿がきちんと見られない。それが悔しくて悔しくて乱暴に涙をぬぐいながらドランの姿を夢中で追いかけると
「シャ――!!」
ドランが叫んだ。久しぶりの、地を揺るがすほどの咆哮だった。
さよなら、だと思った。これはきっとドランの「さよなら」なのだ。
「元気でね――!!」
ニナもありったけの声を出した。
馬車が遠ざかっていく。
ドランが、体を分け合った仲間が、一緒に過ごした友達の姿が見えなくなる。
(ドラン、ドラン……!)
すでに涸れるほど流したはずなのに涙は止まらなかった。それどころか、ますますひどくなる。寂しくて悲しくて切なくて、ニナはその場に泣き崩れた。
アスランが背後から抱きしめる。なぐさめるように髪をなでる温かい腕の中で、ニナは声をあげて泣いた。




